嵐は、突然に
その日は、突然にやってきた。
いつもの如く私は海の底で姉さん達と過ごしていた。
未だに落ち込む私にキサラ姉さんがあれやこれやと物語を話し聞かせてくれていた時、
不意に波が大きく揺れたかと思えば、雷鳴の音が鳴り響き激しく魚達が暴れ出した。
嵐だ。雷を伴う、激しい風が波を揺らしている。
「嵐が来たみたいね。私達は他の魚達と人魚達の様子を見てくるから、サラはここにいて。」
厳しい顔をしたライラとレイラが現れ、他の仲間達の様子を見てくると踵を返し、姉達は散り散りに泳いで行った。
ゴロゴロと雷が渦を巻く音に不安を覚える。
こんな激しい嵐は、いつぶりだろう。
小さく尾を抱えて一人で嵐の恐怖に耐えていると、ふと頭によぎったのはあの人のこと。
そうだ、陸にいるあの人は、大丈夫だろうか。
今日もまた波打ち際に来て津波に巻き込まれたりしていないだろうか。
姉からは動くなと言いつけられている。
陸に上がるな、とも。
迷いからどうすべきか戸惑うも、それでも私は泳ぎ出した。
ほんの少し、陸を覗いてみるだけ、それだけ。
上へ上へと泳いで行くと、雷鳴の音の大きさに思わず眉を顰める。
そして、激しい津波に思わず体を持っていかれそうになるが、それに耐えて波から顔を出すと
ーーーそこにあったのは難破し、嵐に巻き込まれた、無残な船の姿だった。
「ひどい…。嵐のせいで、船が壊れてしまったゆだわ。」
既にそこには浮かび上がる意識のない人の姿。
数人しかいない所を見れば、大半は海の底へ沈んでしまったのか。
生きている人はいないかと試しに意識のない人間達に近づいてみるが、呼吸をしている者はいなかった。
生を失った人々に、例え種族は違っても心が痛む。
海とは人間にとっては凶器になりうるのだと、姉さんが教えてくれた通りだった。
見たところ嵐も激しく、陸まで泳げそうにもない。
仕方なく底へ戻ろうとした時。
「…っ、く、」
人の声が、聞こえた。
ハッとしてその消えそうな声の方向を向いた時、
ーーーあの人が、いた。
会いたくて、会いたくて、堪らなかった人。
けれど今、その人は海の上で生き絶えようとしている。
サッと血の気が引く思いがして慌てて彼へ近付く。
荒ぶる波を振り払うように、必至に彼に近づく。
先程まで波に飲み込まれそうだったのに、今ではそんなことも関係ない位、彼の元へ近付かなくてはと。それだけで一生懸命だった。
息を切らしながら、彼の元へ近づく。
こんなに近付ける時が来るとは思わなかった。
人間に近づく事に緊張するだけではなく、それが彼だというなら、尚更。
恐る恐る、その顔を覗き見てみる。
いつも祈るように見ていた愛しい人の顔は、今は酷く青ざめていて、生気が感じられない。
海の冷たさが、彼の命を奪おうとしている。
震える指でその白い肌に触れれば、驚く程に、冷たかった。
いつか、その肌に触れてみたいと思った。
冷たい海の中で生きる自分達と違って、
燦々とした太陽の光を浴びて生きる彼の肌は、どんな温もりなのかと。
いつか、近付いて、彼に声を掛けてみたかった。
いつか、その瞳を覗き込んで、その真っ直ぐな瞳に自分を映してみて欲しかった。
けれど、その瞬間は、こんな形で叶ってなど欲しくはなかったのに。
このままでは、彼が死んでしまう。
駄目、それだけは、駄目。
お願い、死なないで。
水を含んだせいか彼の体がゆっくりと海へ沈んで生きそうになる。
慌ててその体を掴み、それを防ぐ。
お願い、連れていかないで。
人は、海の中では生きられない。
それが、私達と、人間との、彼との違い。
私は必至に重く力の無い彼の体を抱きしめて波の上へと持ち上げる。
人の身体とは、こんなにも重いのか。
今まで誰かを抱きしめた事など無かったから、初めて実感する重みに腕が軋みをあげる。
それでも。
それでもこの人を、離してはいけない。
お願い、生きて。
神様、お願いです。
彼を連れて行かないで。
そうして何度も何度も祈りながら私は嵐が過ぎるまでずっと、彼を抱きしめていた。