幸福なまどろみ
日曜日。
電車に揺られながら、孝介はこれから向かう先が果たして地獄なのか、もしくは更なる地獄なのかについて考えていた。
土曜日に金曜の手紙の件について、本当の息子が年老いた母親にオレオレ詐欺をしかけて実はどっきりだったんだぜテヘペロ的な展開が無いかと秋姫に話しかけようとしたが避けられ、これまでのもろもろを謝る機会さえ与えられずに今日のこの日に至ってしまった。
「…」
秋姫は一体何を考えているのだろうか。
いや、間違いなく嫌われることだろう。
そして、今日は秋姫と決めた期限の最終日。
ならば秋姫は絶対に何かやらかす。
それだけは間違いない、遺伝子鑑定レベルで間違いはないのだ。
しかし、一体何をするつもりなのか。
「…」
ヤバいな。
今、夏服だから刺されるとダメージでかいぞ。
そんなちょっとどうかと思う孝介の思考は、電車の停車と共に乗り込んできた子猫のように震えた老婆を見て中断された。
「おい、ばあさん。席空いてるから、座んな」
立ち上がり、老婆に席を譲る孝介。老婆は何も言わずぷるぷると頭を一度下げて孝介に譲られた席に座った。吊革に掴まった孝介は車窓の景色を眺めながら、一度大きく欠伸をする。
目的の駅で降り、まだまだ昼の日差しが注ぐ街中を孝介は歩いていく。閑静な住宅街と言ったところで人も車通りも少ない。そのまま歩いていると、前から威勢のいい掛け声と笛や御囃子の音を鳴らしながら、神輿を担ぐ一団とすれ違った。
「へえ、神輿担ぐんだな」
よく見ると街灯に盆提灯が提げられている。
提灯の吊るされた道を行けば神社に着くようになってるんだな。
久しぶりに祭りに来た孝介は素直に感心しながら、待ち合わせの公園に行く。
公園に着くと、孝介と同じように待ち合わせしているのだろう。何人かが万引き開始五秒前ぐらいのそわそわした感じで待っていた。
「あいつは、…いないな」
時計を見る。
午後五時。
待ち合わせまでちょうど一時間前だ。
どうせ優等生の秋姫のことだから、三十分以上前に来るに違いない。そしてその辺の適当な男にナンパされる。このあたりの流れはお約束だ。オチにドリフの背景のセットが倒れてくるくらいお約束だ。故にこうして孝介が秋姫より早く待ち合わせ場所にいなくてはいけない。
ああもうホント優等生ってめんどくせえ。
そんなことを思いながら、孝介は誰もいないベンチに腰掛ける。
「…風が気持ちいいな」
すでに頂点を過ぎた太陽はゆっくりと山の稜線へ向けて降下を開始している。真夏とはいえ少し涼しくなってきた時間帯。そこから吹き付ける風に、ここまで大急ぎで家の家事もろもろを終わらせてきた孝介にとって、それは睡眠導入剤以外の何物でもなかった。
「…」
少しだけ寝るか。十分ぐらいなら、新城もまだ来ないだろう。
そう思い、孝介はベンチに意識を預けた。
………。
……。
…。
「…ん、かあ、さん」
頭。
孝介はそのわずかな違和感に気づき、眼を開けた。
「おはようございます」
「? ん?」
自分の視界に何故か青い空が映り、その背景を隠すように上から見知った少女の顔が覗きこんでいることに孝介は気づいた。
「あ、こんばんは、ですよね。十日町君、こんばんは」
「ああ、こんばんは」
孝介が勢いよく起き上がると、孝介を覗き込んでいた秋姫の額と思いきり正面衝突する。
「痛って!?」
「あうっー!?」
もう一度秋姫の膝に頭を預けた孝介は、痛みから仕方なくこの体勢のまま秋姫に何故このどっちも大火傷にしかならない状況に至ったのか聞いてみることにした。
「今、何時だ?」
「五時五十分です」
「あんたは、いつここに来たんだ?」
「五時十分です」
「その時俺は?」
「眠ってました」
「この状況は?」
「?」
首を傾げる目の前の秋姫を見ながら、孝介は思わずこめかみを抑える。
「俺、普通にベンチに寄りかかって寝てたよな?」
「はい、それはもう、中年の営業マンがノルマに耐えかね力尽きたように」
「今俺の頭の下、何か柔らかいんだが」
「すいません。わたし、運動部ではないので」
「固さの問題じゃねえ!? な・ん・で、あんたが俺に膝枕してんのか聞いてんだ!!」
その問いに答えず、秋姫が一度だけ孝介の頭を撫でた。
「眠っている十日町君を見ていたら、何故だか、こうしてあげたくなったんです」
「…」
「? どうしましたか?」
孝介は言えなかった。
夢の中で幼い頃に死んだ母親が出てきたからだ。
さっき見た夢と今この状況を重ね合わせてみると…。
絶対言わねえ。
母親に撫でられていたみたいですっごい幸せだったとか言えるわけがない。
いや、おくびにもそれを秋姫に悟られてたまるものかと、半ば意地になって秋姫の膝から自分の身を起きあがらせると、ベンチの傍に立ち、座った秋姫に孝介は促す。
「ほら、祭り。行くんだろ?」
「はいっ!」
秋姫が孝介の腕を捕まえて引っ付いてくる。
「あっ、おい!?」
「おっと十日町君、暴れないで下さい。暴れると、浴衣が乱れますから」
「こ、この野郎…」
秋姫の言葉に、仕方なく孝介は抵抗するのを止めた。乱れた浴衣の女を傍に連れ歩きたくはない。むしろ乱れさせてさっさと家に帰らせてやろうという鬼畜極まる発想は、この時の孝介の頭の中には、まるでこれっぽっちもありはしなかった。
「あの、どうですか? わたしとしては、少し頑張ってみたんですけど」
そう言うと秋姫は孝介から離れ、その場でゆっくりと一回転する。
白地に朝顔の花が描かれた浴衣に紫色の帯、普段は腰までかかるほどの綺麗な黒髪はアップにしてまとめられ、浴衣から時折覗くうなじと軽くリップを引き、薄く化粧の施された端正な顔は普段の秋姫とは違った大人の女性としての色気を醸し出している。
「ほら」
少し不安そうに、しかしどこか嬉しさを待っている様子の秋姫の手を取り、そのまま孝介は歩き出した。
「え? あの、十日町君? 感想、何か…」
「手、離すなよ。あんた一人にさせとくと、またどうせナンパされるんだからよ」
「え…? あ、はいっ!」
秋姫が孝介の腕に抱きつきながら歩く。
「だから抱き着くなって言ってんだろうが」
「ふふ、十日町君、素直じゃないです」
「俺、尻軽女とかいう人種が大嫌いなんだ」
「がーん!? い、いえ、わ、わたし、尻軽じゃ、ないですし。え、えへへ、多分、絶対、違いますし?」
「動揺してんじゃねえよ。それに嫌い言われたんだぞ、もっと喜べよ」
「わ、ワーイ、やった、ヤッタヨー」
「人前で語尾に『ナリ』とか付けだしたらすぐ帰るからな」
「何故バレましたかっ!?」
驚きながらも腕に抱き着くのを止め、手を握ってくる秋姫。その手の感触を感じながら、避けずにこうして接してくる秋姫を疑問に思いつつも、何故か同時に安堵している自分に気づき頭をかく。
秋姫が何を考えているのかは皆目見当がつかない。
でも、こうやって逃げずに話している。
横を歩く秋姫を見ると、そんな孝介に気づいた秋姫が微笑んで強く手を握ってきた。
そんな秋姫を見ながら、少しだけ妙な気分になってしまった自分を寝起きのせいだと孝介は思い直した。