逃げる追う
金曜日。
朝、教室に向かって歩く孝介。その足はいつもとは違う意味で重かった。
木曜のあの一件以来、孝介は秋姫と一言も言葉を交せずにいる。少しイラついていたとはいえ、秋姫本人の前でひどいことを言ってしまったという自覚が孝介にはある。木曜の昼休み、すぐに謝ろうとしたが秋姫は友達に連れられ昼を食べに行った。放課後に話しかけようとしたら、今度は露骨に固まったままの微笑みを浮かべながら逃げられた。
自分を嫌って欲しいと言った秋姫だが、根は真面目だ。あんなことを言われて傷つかない人間などいない。
そう思い、孝介は謝罪の言葉をノートに書き、破って丁寧に折ると秋姫の下駄箱に置いた。あの手紙を読んで、自分の謝意が少しでも秋姫に伝って欲しいと孝介は切に思う。
そんな風に思いながら孝介が廊下を歩いていると、何かの視線を背後から感じた。
振り向くと、そこには獲物を狙うような眼をした秋姫が廊下の角から少し身を乗り出して孝介の方をじっと見ていた。
「ん?」
「!? …ッ!」
眼が合うと秋姫は逃げるように角に隠れる。
これは朝一番で謝る良い機会だと孝介は秋姫を追い、角を曲がるが、そこに秋姫の姿は無く、見間違いかと思わせるような早業で秋姫はその姿を消していた。
「? 何なんだよ」
謝って欲しいけどまだ許さないとかいう複雑怪奇な乙女心というヤツだろうか。他にも何か誠意を見せろということなのだろうか。
「…」
めんどくせえ。
教室の自分の席に着きながら孝介は溜息と共にそんな言葉を吐き出した。嫌われたくて秋姫の方から距離を置こうとしたんじゃないのか。それでいざ嫌われたらやっぱり嫌で納得いくまで謝らせたいってことなのだろうか。
「いくらなんでもそこまで付き合いきれるか」
一度ちゃんと謝る。それで終わりだ。嫌いだって言ったし満足だろう。鞄から今日必要な分の教科書類を出し机の中に押し込みながら孝介はそう決意する。
「なあ」
前の席のドミンゴが振り向き、気持ちの悪いにやけ面を浮かべながら孝介に問いかけてくる。
「なんだ末期失恋患者、保健室は一階だぞ」
「もはや名前ですら無い!? それよりもさ、さっきから新城さん、なんかオレの方めっちゃ見てくるんだけど! なあどう思う? これって恋かな!?」
「腹に週刊誌隠しといた方が良いぞ」
「何で刺されること前提なんだよ!? 思いっきり病んでるじゃねえか!! 新城さんはそんなことするような人じゃないから!」
いや、新城ならやりかねない。
週刊誌は…、うん、鞄にある、良かった。
「お前に言いたいことがあるんじゃないのか?」
ドミンゴが何故か悔しそうな目で孝介を見る。
「昨日のことか」
「わかってんならさっさと謝っとけよ」
「いや、何かわからんが避けられてるんだ」
愕然とした顔でドミンゴが呟く。
「く、来るな、けだもの…! あいたッ!? じょ、冗談だ…。お前は少し人のことを気にし過ぎるとこがあるからな。もうこの際何も考えずに多少強引にでも謝ってこいよ。このままグダグダやってんのも嫌だろ?」
「…ドミンゴ、お前、人間だったんだな」
「どういう意味だよっ!? あと名前呼んでくれてありがとうっ!」
この時、孝介はドミンゴに対して自称友達の自称を一日だけ取ってやってもいいと思った。
一限目が終わり、席を立ち秋姫の席に行こうとする孝介だったが、秋姫も同時に席を立ち孝介から逃げるように教室を出る。追いかけた孝介だったが、秋姫の向かった先は女子トイレだった。孝介にはまだ停学や退学なぞをする気は毛頭なく、仕方なく教室に戻る。結局、秋姫が教室に帰ってきたのは二限目開始の予鈴と同時だった。
二限目終了。もうあの様子だと授業と授業の間の短時間に謝るのは無理だと悟った孝介は、時間のある時に謝ろうと割り切り、移動教室のため廊下を歩いていた。しかし、また朝と同じような視線を感じ背後を振り返ると、秋姫と眼が合った。試しに孝介が一歩秋姫に近づいてみると、秋姫は同じ歩幅で一歩後ろ向きに後ずさる。こめかみを抑えながら孝介は秋姫を無視して廊下を歩いた。
三限目が終わり、昼休み。席を立ち、秋姫のところに行こうとすると友達とまたどこかで昼食を食べに行くところだった。食事の邪魔をするのも無粋だろうと、仕方なく孝介はドミンゴと焼きそばパンとピザパンにおけるカロリーと価格の優位性について適当に話した。
そんなこんなで放課後になった。
結局、その後も孝介が秋姫に話しかけようとすると逃げられ、しかし何故かいつも秋姫に見られているという状況だった。
ここにきて、いい加減このじりじりとした距離感に孝介は焦れてきた。元より孝介には短気なところがある。ものぐさと短気は兄と弟のような関係で孝介の中にいつもコインの表と裏のように共存しているのだ。そして孝介は今この状況に自己の怒りのボルテージが、静かにしかし確実に上がりつつあるのを菩薩のような広い心で宥めようとしていたが、もうそろそろそれも限界に近づきつつあった。
放課後を告げる予鈴が鳴ると、孝介はすぐさま荷物をまとめ秋姫の席に向かう。
が。
「あの野郎、逃げやがったな…」
すでに秋姫の席に秋姫本人の姿は無く、寂しく机とイスだけが、今日はもう帰ってはこないであろう主に捨てられた忠犬が悲しみを抱きながら待つようにただ佇んでいた。
すぐに孝介は教室を出た。
まだ秋姫はそう遠くへは行っていないはずだ。
廊下。
左右確認。
右。
異常なし。
左。
いた。
黒い長髪を左右に揺らしながら、速足で秋姫が今日発売のアイドルのライブ映像つきアルバムを売り切れてはなるものかと急いでレコード屋に行く追っかけの女性のような鬼気迫る勢いで歩いている。
「待て、新城!!」
孝介の声に秋姫が一瞬止まる。やはり優等生だ。よしそのままにしてろよと孝介が近づくと、突然秋姫は走り出した。
クソ優等生が。
そう思いながらも孝介は駆ける。秋姫はなかなかに速い。孝介も負けじと走ったが、一定の距離を開けたまま二人は校内を走り続けた。
「!? どこ行ったんだアイツ…?」
そして孝介が廊下の角を曲がると、秋姫の姿が忽然と消えていた。
秋姫は女子トイレの個室の中で混乱していた。
追いかけられているこの状況に、では無い。確かに多少驚き戸惑いはしているものの、いずれこうなることは孝介の性格からして予想はしていた。
秋姫は、自分の感情に対して混乱しているのだった。
何故自分が孝介を避けているのか。避けつつも、孝介のことが気になってしょうがないのか。
「うう…。変、です…」
その答えを秋姫は持ち合わせていなかった。そして、孝介と相対すれば嫌が応にもその混乱に正対しなくてはならない。その先にあるものと孝介は似ているのかもしれない。
近づきたくて、遠ざかりたい。
はなはだ非論理的なことなのだが、今、秋姫はそうしたかった。そうすることが、彼女の平穏を平穏のままにしておける唯一の方法のような気がした。
個室のドアを開けた。
開いていた窓から、セミの声が聞こえた。耳をすませてみるが、あとは野球部の練習する声と、吹奏楽部の少し音の外れた演奏が聞こえてくるだけだ。
「…」
孝介は帰っただろう。
もう金曜日だ。
月曜日にした約束の期限には、今日を含め後三日しか無い。
ただ嫌いになって欲しいだけだから、特にこれと言った目標のようなものは無く、結果と言っても眼に見えない曖昧なものである。
木曜に、確かに孝介から嫌いだと言われた。
それならばそれで良しとすればいいのかもしれない。あれ以上の宣言もなかなかないだろう。
そう思って、秋姫はまだ自分が納得していないことに気づいた。その不完全燃焼が、今日秋姫が肌身離さず持ち歩いていたものに集約していた。
「結局、渡せませんでした」
ため息をつきながら女子トイレの扉を開ける。
「!?」
直後、秋姫は不意に腕を掴まれ、壁に体を押し付けられた。