愛しき人よ
※作中の病気は架空のものです。
原因不明の謎の病で彼が入院して来たのはいつのことだっただろうか。彼はもうとても長いことこの病院にいる気がする。もちろん、私が勝手に思っているだけで実際はもっと短いのだろう。病院という閉鎖された空間が私をそうさせるんだ。
「おねーさん」
彼はいつもそうやって私を呼ぶ。看護師だと何回注意しても聞きやしない。堅苦しいのが嫌なそうだ。そう言われても私としてはなんだかからかわれているようで良い気はしない。なので私は決まってこういうのだ。
「看護師です」
「あ、怒った~」
「当たり前です。何度言えばわかってくれるのですか」
「さぁね~? 僕、バカだから」
「………」
茶化すように言う彼に多少の苛立ちを覚えながらも努めて冷静に対処する。堪えきれていないイライラがほんの少しこぼれた気もするが、結局のところこんなやり取りはいつものことなのだ。だから、私も彼も特に気にすることはない。日常とは少しばかり適当なものでいい。雁字搦めに縛られる必要もない。
「さぁさ、病室に戻ってくださいな」
「おねえさん、ばばくさいよ?」
「………いいから帰りなさい」
「はぁい」
彼はこの第二寮棟から渡り廊下を二つ渡った先にある第一寮棟の一角の個室に長期入院している。彼の家は、どちらかと言えばあまり裕福ではない。それでも個室に長期入院出来るのにはある理由があった。それは、彼の難病。他に例を見ないほど特異なその病気。完治はおろか、治療法さえ不明。いったい何をすれば彼は治るのか、それはどんなに偉く有名な学者であろうと解けていない。
故に彼は治療と言う名の実験の被験者なのである。そのため国が、家族に万が一の用心として多額の寄附金を渡していた。"実験で"死んでしまった場合の保険、という訳だ。それで良いのかと彼に聞いたことがある。彼は地毛らしい金色の髪を靡かせ笑って言った。
"良いんだよ、たとえ死んでも。それはきっと運命だから。でもね、家族に迷惑をかけるのは嫌なんだ"
はっきりと、しかし切なく笑う姿に私の心はぎゅっと疼いた。そして私は、折れそうなほどか細く、壊れそうなほど優しい彼に恋をしてしまった。
彼の命が、そう永くないことを知りつつも。
彼の病は日に日に身体が弱っていくという、ただ漠然としたことしか分かっていない。初めは感染の恐れもあったが、細菌などはまったくおらず彼は健康そのものだった。だが、身体が有り得ない速度で生命活動を衰えさせ、今の彼はもう院内を軽く散歩することしか出来ないまでになっていた。つまり簡単に言ってしまえば、彼は己の身体に死ねと言われいるようなものなのだ。
「桜がきれいだねー」
病室に戻り、真っ白なベッドに横たわった彼が一言呟いた。季節は春。外は段々と暖かくなっていたが、白を基調とした病室は薄ら寒く感じられる。もっとも空調設備は完備されていて、あくまでも私個人の感想だ。そんな部屋を暖めるように薄紅の桜が咲いていた。
「綺麗ですね」
「……ねぇ。僕はさ、来年もこの桜を見れるかな?」
「え………」
唐突なその言葉に返事をつまらせる。ぽつりとだされた、彼の滅多に聞けない、けれどどうしようもないほどの本音だった。だけど私はあえて、
「見れませんよ」
「…………………………何故?」
「あなたは来年にはここを元気に退院するからです」
「それはー、看護師としての答え?それともあなた自身の希望?」
「…どっちもです」
「そうなの?うーん。嬉しくもあり微妙な心境だよ」
ちょっとイタズラっぽく笑い先ほどの哀しそうな顔を隠した。
「おねえさん」
「なぁに」
「好きだよ」
「……。冗談はおやめなさい。こんなおばさん、からかったってなんにも出やしないわよ」
「…冗談じゃないよ。冗談に出来ないくらい、好き」
その真剣なまなざしに息が詰まりそうになった。
「おねえさん、は?」
返事は決まっていた。
「好き」
起こしたベッドに横たわる彼はにこりと笑う。少しの風でふわふわと揺れる薄い金色の髪と病気のせいで白く透き通った肌。それはまるで天使のように美しく。気まぐれに羽根を伸してどこか遠くに行ってしまいそうな恐怖を覚える。
それからすぐ、彼は逝ってしまった。
儚くて触れれば消えそうな、淡い未練を遺して。
"ここ最近ずっと思っていたことがあるんだ。僕がこの病気になったのは、おねえさんに会うためだったんだって"
愛しき人よ
あなたを置いて逝くことをどうか赦して。