私の喪いたくないモノ
「じゃあ――始めるぞ」
御近所に散歩にでも行くような気安さでミスティ兄様が宣言します。
私は慌てて兄様の書いた魔方陣の円内に入ります。
聖霊使いとして破格の力を持つ兄様が補助の魔方陣すら用いる術式。
それは最早失われゆく魔法に匹敵するのではないでしょうか?
術者でない私には地面に描かれた精霊文字の意味を読み解く事は叶いません。
けど真剣な貌をして真銀の指揮棒を持つ兄様はまるでオーケストラの指揮者のようです。
いや、その感想はあながち間違ってはいないと思います。
精霊を扱う者の必須条件。
それは世界を運行する彼等の奏でる音色へ耳を傾ける事。
調和を保ちつつも自らの望む音色(効果)を世界へと導く調律者。
それこそが精霊使いなのですから。
シャス兄様もその事は重々承知なのでしょう。
全てを悟りきった表情で、私とは対極の位置にある魔方陣に立ちミスティ兄様の動向を窺っています。
ミスティ兄様と頂点とした三角。
その中央、一番の基点には母様が横たわっています。
待っていて下さいね、母様。
たとえいかなる対価を支払おうとも……
私達が絶対、母様を救ってみせますから。
それは私達を取り囲み様子を見守って下さってる皆さんも一緒です。
言葉に出来ない想い、意気込み。
高まる緊張。
重苦しい静寂の後、厳かに兄様が指揮棒を振るいます。
「ここ999ルーンに集いし世の理為す遍く精霊達よ。
我が呼び掛けに応じ、至高なりし御方へ連なる回廊を開け。
精霊の寵愛を受けし聖霊使いたる我が真名……
聖霊騎士ミスティ・ノルンの名において願い奉る。
森羅万象。
普遍なりし事象。
還らざる時の流れ。
可逆をここに示せ。
因果の果て、対価を以て等価の祝福を願わん」
詠唱と共に高まっていくマナ。
輝きを上げる魔方陣。
幾何学的なそれは世界を塗り換える神秘。
兄様の莫大な魔力に支えられ変容する法則。
既知の外、未知の術式がまさに完成を迎えます。
「新たな脈動を与え
乾きを満たし
さまよう魂を導いて
死を巻き戻し
不変の理を覆し
今ここに目覚めさせ給え――
時流を紡ぎし黄金三角錐の告刻者<クロノティス>よ!」
詠唱の最終節と共に顕現し始める大いなるもの。
時の運航を司る時の精霊王こと時神クロノティス。
美しくも三面六臂の姿を持つ戦装束の異形。
3対それぞれの手に秤型の剣や砂時計のついた法具などを持つ彼女は穏やかに語り掛けてきます。
『汝が声は我に届いた』
『優しき聖霊騎士ミスティとその血縁者よ』
『己が望みを叶える為、対価を支払う覚悟はあるか?』
現在・過去・未来を象徴するという3つの顔。
その全てに意味がある、と。
時空魔術を扱う銀狐から以前聞いた事があります。
まるで阿修羅像のように様々な貌を持つ彼女の口から発せられる言葉。
私達は有無を言わさず頷きます。
その決断を能面の様に変わらぬ貌のまま頷き首肯するクロノティス様。
伸ばされた手が私と兄様達の頭を優しく抱えます。
『宜しい』
『ならばユナティアよ』
『対価を以て契約と為す』
『お前が重きを持つは数多の業』
『その身に宿すスキルの全てを以て』
『汝の母の身体に流れし時を戻そう』
言霊と共に発光し、唸りを上げる魔方陣。
途端、身体を襲う言語にし難い凄まじい激痛。
声も出せず悶絶する私。
それは半身を裂かれそうになるような痛み。
きっとこれは私から強引に引き抜かれていくスキルの悲鳴。
抱えられた頭、慈愛に満ちた御手から注がれるクロノティス様の癒しが無ければ正直発狂していたでしょう。
全身から発汗し涙と鼻水を流し私は倒れ込みます。
瘧のような震えを抑え苦心して見れば――
まるで時を戻したみたいに(文字通りそうなのでしょう)頬に赤みが戻り生気を放つ母様。
(母様……母様!)
痛みを超える歓喜。
嬉しさのあまり、熱病に罹患した幼児のように譫言を呟く私。
そんな私を余所に、次はシャス兄様の契約となります。
紡がれる契約履行への確認の言葉。
兄様は毅然とした態度で肯定します。
『宜しい』
『ならばシャスティアよ』
『対価を以て契約と為す』
『お前が重きを持つは積み上げし力量』
『その鍛えしの力の全てを以て』
『汝の母の精神に流れし時を戻そう』
苦悶に身を捩る兄様。
それでも弓を支えに膝を着くまいと渾身の力を振り絞ります。
やはりシャス兄様が捧げるのは力量と能力値ですか。
運命に打ち勝つ為に誰よりも強さに拘った兄様。
年齢に不相応な、無理をして鍛え上げたその全てが兄様から失われていきます。
心配する私の視線を感じたのか、シャス兄様は私を見て微笑みます。
こんな事で屈しはしない、と。
果たしてその対価は絶大でした。
生気はあるも人形の様に無表情だった母様が安らかな顔で胸を上下させてます。
今にも起きだして挨拶をしそう。
その姿は私の記憶にある母様の寝姿そのものです。
あとはミスティ兄様さえ上手くいけば――
そこまで思い至った私は気付きます。
ミスティ兄様は何を喪うのでしょう?
多彩な持ち札を扱う私はスキル。
強さを重んじてる兄様はレベル。
そのどちらにも恵まれ、全てにおいて何も重視しないミスティ兄様。
けど――唯一つだけ該当するものが思い浮かびます。
兄様が恐れ大切にしていること。
それは――自分が自分である事。
まさかミスティ兄様は対価として――
慌てて静止しようとした私ですが思い通りに身体が動きません。
普段から体力や機敏さを底上げしてくれていたパッシブスキルまで失ったので自分の身体が自分じゃないみたいです。
慌てふためく様子が伝わったのか、兄様は私を見詰めます。
その顔に浮かんでいたのは――
どこか申し訳なさそうな、透明感のある困り顔でした。
「ミスティにぃ――」
「――すまないな、ユナ」
初めて聞く、ミスティ兄様の謝罪。
そんなの……嘘です。
兄様はいつだって傲岸不遜で――
私にとって絶対の兄様で――
だけど優しく構ってくれる、尊敬する自慢の兄様。
そんな兄様が――謝る……?
やだ――そんな言葉は聞きたくないのに!
止める間もなく、涙でぼやける視界の中で頷かれる契約同意の証。
聞き取れないやり取りの後――
兄様はまるで電池の切れた機械人形の様にその場に崩れ落ちるのでした。




