撤退<エヴァケーション>1
「時間だ。
退くぞ、パンドゥール」
如何なる技法を用いたのか?
戦場と化した天空より距離を超越し、薄暗い路地に響く魔神皇の声。
闇魔術を行使する手を止め、パンドゥールは興醒めした様に呟く。
「あら、もうそんな時間?」
大袈裟に肩を竦め、残念そうに溜息を零す。
失意に項垂れるその数歩先では、あざやかな朱色の短刀を手に、座り込んで息を荒げるシャスティアの姿があった。
得意の弓術の射程圏を侵されたシャスにとって近接戦闘こそが活路への路。
よってネムレスから学んだ技法を以って応戦したが……
結果は惨敗。
完成された闇魔術体系に対し、所詮付け焼刃では抗う事は出来なかった。
今現在、こうやって生き延びているのは偶さかの僥倖。
パンドゥールに必殺の意はなく、あくまで弄ぼうという趣向があったからこその延命。
その事を肌で知るだけにシャスティアは屈辱に震える。
「――僕を殺さないんですか?」
「わたしが?
シャスちゃんを?
勿論、そんな事する訳ないじゃない」
シャスティアの問いにパンドゥールは呆れた様に再度肩を竦める。
そしてゆっくり近寄ると、シャスティアの頬を慈しむ様に撫でる。
まるで愛しい子に語り聞かせる慈母の様に。
「こんなところで一人だけ楽にはさせてあげないわ、シャスちゃん。
貴方はもっともっと、も~~~~~っと苦悩しないと。
美味しく熟成したらわたしが吸収してあげる。
ミスティやユナちゃんと一緒に、ね。
うふふ……
あはははははははははははははははははははははは!!」
狂気を滲ませ哄笑するパンドゥール。
母を救う絶好の機会と間合い。
だというのに力が及ばない自らの無力さに悔しさが募る。
「さて、と。
あまりお待たせすると後が怖いわね。
行くわよ、エクダマート。
わたしの胎内に戻りなさい」
「イヤダアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
絶叫を上げ拒絶するエクダマート。
ネムレスの絶技の前に体組織の半分以上を既に喪失している。
しかしその痛みや苦しみより、パンドゥールに招かれる……その事が何よりの恐怖となっていた。
「ほら、我儘言わないで?
大丈夫よ。
その身も心も魂も……
また『可愛がって』あげるから」
「ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”!!」
抵抗する事も叶わず、パンドゥールの召喚した闇の咢に呑まれていくエクダマート。
苦悶に身を捩る姿が踊り食いの様に視え、妖しい淫靡さを周囲に与えていた。
「さっ、これで準備万端。
それじゃあね、シャスちゃん。
今度は邪魔者がいない時にゆっくりお話ししましょう」
自らが開いた影のゲートに身を躍らせながら、パンドゥールは慇懃無礼に一礼する。
未だその技量全てを把握し切れない状況に流石のネムレスも静観を決め込む。
「そうそう、シャスちゃん」
「……何ですか?」
「次に会う時まで、もっと強くなっておきなさい。
そうでないと」
「?」
「全てを喪うわよ」
意地悪く唇を歪めるパンドゥール。
反論する間も問い質す間もなく。
道化服を纏った美麗なるその姿は、掻き消される様に転移した。
敗北の天秤がどちらに傾いてもおかしくない状況であった。
しかし師弟共に五体満足で生き延びた事。
ネムレスは一先ずその事実に安堵する。
だがネムレスは知る由もなかった。
最後に残された言葉。
その言葉がシャスティアの胸に烙印となり強く刻まれた事を。
朝焼けに白み始めた路地。
激戦の一夜を潜り抜けた師弟。
されどその想いは、この日を境に徐々に擦れ違っていくのだった。
シャス闇堕ち疑惑




