Chapter2
空が高い。昨日や一昨日以上にもっと暑く感じる。それはなぜだろうか。そう考えた時、結論として出てくるのは夏だから。といった至って単純明快な回答だった。
ああ、まだまだこれから暑くなるのか。そう考えると、非常に憂鬱になるのだった。
──6月29日。
ゆらり。アスファルトの上、夏の日差しを受けたその場所は、まるで世界そのものが歪んでいるかのように揺れる。所謂ところの逃げ水ってやつだろうか。ここがビルに囲まれるような都会ではないことだけ幾分の救いとなっている。
まだ今日は6月29日。夏と言うには少し早く、初夏と言うにはどこか遅くも感じる時期だ。今年は例年以上の猛暑となるといわれているにも関わらず、この時点でこの暑さだ。日々の変化を感じていると、明日以降の日々に希望を見いだせなくなってしまう。
「ま、日々を無駄に過ごしている俺が希望なんて言えた立場じゃないんだけどな」
ついこんなことを口走ってしまう。
遼とかが隣にいれば、バカ野郎の一言でも俺に浴びせてくるのだろう。もし、まったく俺のことを知らない人が見れば、ただ純粋に俺と言う存在を中二病とかイタイ奴って感じるに違いない。
そう思った時、こうして誰もいない環境と言うのは非常にいいのだろう。
暑さのせいで、商店街と呼ばれるこの場所も人っ子一人いない。まあシャッターが閉まっているわけでもないから、ゴーストタウンということでもないのだろうけど。
「……普通なら学校なり会社に行ってるもんな」
俺は自虐的に笑うと、すっかり癖毛で跳ねた髪の毛をくしゃりと潰す。
別に今日は遅刻をするつもりはなかった。朝だって普通に起きて、学校に行き、授業には……出るかはわからないけど、少なくともこの時間にここにいるつもりはなかった。
それがなぜここにいるのか。……つまり、普通に起きられなかったということなのだ。
時刻にして十一時をもうすぐで回るところ。授業は既に四限が始まり、ようやく折り返しが見えるか、といったところだろう。
どうせならばサボってしまえばいいのに。
かつての親友ならそう言うだろう。俺自身、少なからずそう思うこともある。それでも律儀に学校にだけ行くのは未練からなのか、それとも俺の生活と言うリズムのうち組み込まれているせいか。
どちらにしても、そいつから言わせれば中途半端なのだろう。
「……わかっているよ。そんなの」
俺は目の近くに右手を当て、ゆっくりと顔を上げる。
すっかり昇った太陽は、もっともっとと、必死に空を昇り続ける。そして、あと数時間もしないうちに空の一番高いところまで昇り詰めるのだろう。その時には今日で一番暑い時間になるに違いない。
そう考えると酷く憂鬱で、ため息だって出てしまう。
俺の通う青陵高校はこの街で一番高い場所にある。長い坂道の頂上にあるそこは、周りには何もないという学生には優しくない場所だ。ただでさえ登校に労力と時間を費やすのだから、見返りとまでは言わないが、何かしらの娯楽施設やコンビニでもあればいいのに。
そんな坂道も入学生を迎え入れるべく、その時期になると自分の目を疑うくらい美しい桜道を作り出す。新入生はその景色に感動し、これから始まる高校生活に胸を躍らせる。それも一、二か月、梅雨に入って雨が続く日になると登校が不便であることに気付く。更に一ヶ月、まるで太陽に近づくように上る坂道は、まるで断頭台へと向かう気持ちだろう。そして季節が巡ることで、再び迎える華やかな光景も、そんな時刻絵図の序章に感じる。
これが我々青陵生の宿命である。今年でそんなループも三度目となる俺からしたら、早々にリタイアしたいと心の底から思ってしまう。
ゆっくりと上る坂道。それは酷く辛く、最近運動不足な俺は軽く息を上げてしまう。シャツだってぺったりと体に張り付き、きっと学校に着くころには絞れるくらいになっているのだろう。
……入学したばかりの頃、俺はこの坂道をどう思っていただろうか。
不意に考えてしまう。
少なくとも今と同じ気持ではなかったのは確かだ。そして、去年も──
「…………ようやく着いた」
俺は膝に手を当て、俯きながら呟く。
あれほど苦労した坂道の先は、平たい場所が広がっており、すっかり見慣れた建物だけが建っている。勉学をするための場所という意味ではとても大きな魅力があるに違いない。しかし、通学と言う面をもう少し考えてもらいたいものだ……
敷地としては決して狭いわけではない青陵高校。むしろ、公立の学校であるということを考えたら、大きい部類に分類されるのかもしれない。
学校に入るには、俺が立っている校門と、敷地をぐるっと回って裏門、そして一部の生徒しか知らないという抜け道があるそうだ。まあ俺がそんなものを知っているはずもないし、わざわざ遠回りをするつもりもない。
遅刻だからなんだというんだ。
俺はゆっくりと息を整えると、校門を抜けていく。
こうすることもすっかり慣れたものだ。以前なら、遅刻したことを咎められないかとびくびくしながら歩いていたものだ。無論、素行的に不良と呼ばれる俺なので、教師に目を着けられていたこともある。それもいつの間にかなくなり、今に至る。
「あれがなくなったのって……」
そう、確か半年前がきっかけだった。結局あの事件は、俺とその周辺だけではなく、学校全体にも影響を与えたのかもしれない。
少し罪悪感も感じるが、当時の俺はもちろん、今の俺にはどうすることもできない。できることと言えばこうして少ない罪悪感と共に、校門をくぐり、いつもの場所へと向かうことだけだ。
学校に着くとそのまま向かった屋上。荷物も持ってきていない俺からしたら、教室に寄る理由もないので、ここに足だけではなく、手元も軽々と来れる。
「暑い……」
着くと早々、俺はシャツのボタンを緩めながら日陰で腰を下ろす。ぱたぱたとシャツを揺らそうにも、びちゃびちゃでそんなこともできない。
「どうせなら干しておくか……」
この天気ならすぐに乾くだろう。むしろ、俺のような濡れる原因に触れさせないことこそが賢明なはずだ。
そうと決まればすぐに俺はシャツを脱ぎ、無造作に日向に放り投げる。どうせ誰も来ないのだから問題はない。
ごろんと寝転がる。
日陰は涼しい。通学には適さないこの学校だが、吹く風はとても気持ちがいい。木々の葉が擦れる音を乗せ、吹いてくる風。アスファルトやビルに囲まれた都会では味わうことができないものだろう。
そういった点ではこの学校は評価できるのだろう。
地面のわずかなひんやりとした感覚と、心地良い風。それはゆっくりと俺の睡魔を刺激する。もちろん俺がそれに対抗すはずもなく、すぐに意識は暗闇へと落ちていくのだ。
「誠人……。昼休みだぞ」
かけられる言葉。
「ん────」
俺はそれを振り払うように体を転がす。無論、そんなことは意味がないのだが、寝ぼけた俺には理解する余地はない。
暑い。全身を焼くような日差しは、比喩でもなんでもなく俺の体を焦がしているようだ。そんな日差しが嫌でも、それ以上に俺は睡魔というものには勝てないらしい。
「はい。いい加減起きる」
「────ぬおっ!?」
突然にかけられる冷水。予期していたことでもなければ、ましてや火照った体には刺激が強すぎるものだ。
俺は飛び跳ねるようにして起き上がる。心臓も同じように驚くくらい脈を打っている。
「起きたか」
「起きたかじゃねえよ!」
隣で浅く笑っている遼を睨みつける。こんなことをするのはいつだってこいつだけだ。稽古で意識を失っているときに水をかけるならまだしも、こうして人が寝ているときに水をかけるのは遼の専売特許である。
よくあることと言えばそうなのかもしれないが、それでも心臓には悪い。
「いやいや。学校の屋上で上裸で寝るのはどうかと思うよ」
まったくもっての正論。
俺も客観的な立場なら、屋上で上裸になって寝ている男がいたら怪しい奴だと認識するだろう。それが女子ならば、きっとそれ以上の危機感を抱くはずだが。
俺は濡れた髪の毛を無造作にかきあげると、乾かすためにと放ったシャツを拾い上げる。
「汗や何やらでビショビショになったからね。干していた意味がなくなっちゃったね」
てめぇが言うな。
内心そう思いながら、俺はゆっくりとシャツに袖を通す。
「で、今日はいつからいたの?」
日陰でゆっくりと腰を下ろす遼。
そんな彼の質問に答える必要などもちろんないのだろう。しかし、しなかったらしなかったでまた面倒なことにもなりかねないか……
「四限の途中……」
「へぇ。今日は十分遅刻だったんだね」
ケラケラと笑う遼。俺以上にマイペースな奴だ。
「ま、とりあえず昼にしようよ」
ひょいっと袋を持ち上げる遼。いつも通り適当に買ったものなのだろう。よくもまあ飽きずに持ってくるものだ……
「断わっても──」
「意味ないね」
遼はニコリと笑う。
そんな頑固で、それでいてしつこい男に俺は呆れながらため息をつく。
「俺なんか放っておけばいいのに……」
俺はゆっくりと寮の隣に腰を下ろす。
「そうもいかないさ」
遼は袋から出した紙パックの封を開ける。そこにストローを差し込み、ゆっくりと中身を吸い上げる。
「僕らは一応親友って奴だろ?」
浅く笑う遼。
俺はそんな笑顔や言葉、全てにどう答えればいいのかわからない。