9.灯台下暗しは岬の意味じゃない
『雨ふってるから、気をつけてな』
靴紐を一生懸命結ぶ妹に兄は学童用の黄色い傘を差し出し、自分は使い慣れた藍色の傘を手にしていた。
『う、ん……ちょと、まって。ヒモ、うまく結べないの』
一年生になったと同時にはじめた靴紐を結ぶ練習。朝の急ぐこの時でも妹は縦結びになるのを幾度となく解いては結びなおしていた。
『麗菜、そろそろ時間なくなるぞ。そんなの、帰りにやれよ』
時計を見れば既に8時になりそうだった。部活のない自分にとっては丁度いい時間だが、小学生の麗菜にとってはかなり深刻な時間。
『うぅ……まって』
ついに諦めて立ち上がった麗菜はドアの前に立つ洋の手を取った。
『お兄ちゃん、今日の約束、覚えてるよね?』
『分かってるよ』
◇◆◇◆◇◆◇
――忘れるんだよ。
覚えてなんか、いないよ。
――僕たちは覚えてるのに。
忘れたくても、忘れられないのに。
――私だって、あんなの忘れたい。
痛いのなんていやだもん。
――忘れるんだよ……
忘れて、楽になろうとするんだ。
――無かった事にするんだ。
あんなに痛かったのに……コワれるくらい、痛かったのに。
――だれも知らない。
忘れて、無かった事にするんだ。
――みんな、忘れちゃう。
大事だったのに。
――口ばっかりで。
いなくなって良かったって。
――いないなんて、そんなの知らないのに。
勝手に、僕たちを殺すんだ。
――殺すんだ。生きてたいのに!
――忘れて。
――記憶から消して。
――大好きなのにっ。
――僕たちを、
殺すんだっ――!!
――嫌いだっ!
――きらいだっ!
――みんな、みんなっ!
嫌いだぁぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!
幼い叫びは壊れたオルゴールのように高い音で繰り返され続け、立ち向かおうと歩みを進めていた大月の膝を折った。
心臓を直に殴られるような痛みと、耳を突く無数の叫びが記憶を駆け巡った。
苦痛に歪む子供たちの顔は血でまみれ、瓦礫の下で助けを呼ぶか細い声。
「や……めて、やめて……くれ……」
声を遮ろうと自らの手で耳朶を覆い隠し、頭を激しく振るった。
喉の奥が乾き、呼吸するたびに厭な味が広がっていた。
「……かった……、たすけ……っ」
両手に鮮明に残っている命の灯が急速に色褪せていく感触に、小さく震え強く唇をかんだ。
痛みが記憶の淵から現実へ引き戻してくれるかのように、強く、強く。
「忘れようとして、何がいけない?」
低く鋭い言の葉にびくりと大月の肩が跳ね上がった。ゆるゆると潤む視線を上げると倒れないようにと体を支える修の細い腕が見え、そしてその先に立つ嵐の後姿が見えた。
「忘れて、先に進める奴だっている。辛い記憶ならなおさらだ……
忘れようとして、忘れられなくて苦しい思いをして、それでも永遠と立ち止まっていられる奴なんていない」
――どうして……?
私たちは覚えてるのに?
――痛いのも、全部覚えてるのに。
ずるいよ……
――ずっと、ずっと苦しいのに!
叫びと同時に幾人もの幼い顔が浮かんでは消え去り、大月と修の二人は視線を逸らしていた。
「それでも、俺たちは生きてる……生きてるから、立ち止まったままじゃいられない。
忘れたって、過去が消えるわけじゃない。
記憶はどこまででも心に残ってる、だから……」
「あっちゃ……」
ふいに投げかけられた音に嵐は言葉を切った。
気配だけが僅かに修たちのほうを向き、直ぐに目の前に妖へと移った。
「話が過ぎたな……カタ、つけるぞ」
その言葉はどちらに向けて放ったのか。鋭く引き絞られた力は瞬く間に妖へと叩き込まれていた。
絶叫――
叫びは怨嗟をふくめ、手当たり次第に暴れ、場に居た者たちの体を傷つけていった。
しかし嵐は足を止めることなく翔けると、薙ぎ払うように腕を振るった。
「あっちゃん、やめて! ダメッ、やめてってば!」
修の悲痛な叫びも聞き入れられず、嵐は右腕に力を込め驚愕に打ち震える幼い魂へ拳を叩き込んでいた。
「約束したの! だから、消さないで!」
悲鳴は不気味に歪んだ音を奏で、精一杯に嵐を近づけないようにと暴れたが彼を落とすには至らなかった。
「お願いっ!」
「やめろっ!」
重なった二人の叫びに思わず嵐は手を止め、衝撃波をその一身で受け止めた。
不安定な体勢で受けた一撃に数メートル吹き飛ばされ、地面に抱きとめられると同時に血を吐いた。
「チッ……半端に声かけんなっ」
右手で反対のわき腹を押さえながら立ち上がると、冷たい視線を二人に浴びせた。
「堕ちたらどこまでも堕ちる、もう死んでるんだ。その上で人を喰らうなら……、ならこれ以上はもう……」
無駄だ……と言い放とうとした瞬間、二人は見えては居ないはずの妖との間に立った。
「無駄な事なんてないよっ。簡単に決めつけちゃダメだよ!」
首を振り、泣きながら止めようとする修に流石に嵐も苛立ちを覚え、側にあった街路樹に拳を打ちつけた。
「いい加減にしろ! 誰のせいでこうなったのか忘れたのか!」
「っ……そ、それは……」
言葉に詰まった修を睨みつけ、無言で足を進め始めた。
ざわざわと風が呻き声をあげ立ちふさがるものを圧倒させ、途をゆずれと迫っていた。
「でも、約束したっ。『助ける』って!」
両手を広げて精一杯に叫んだ修を前に風が躊躇いを見せた。
そして、大月は意を決したように後ろを振り返った。
朧気にみえる子供たちは不安や怒りを個々に顔に浮かべているのを感じると、目線を合わせるように膝をついた。