8.破れば万の拳と千の針がまつ
――助けて……
助けてよっ……
痛いのはヤだっ。
苦しいのだって……
誰か、助けて!!
助けてくれるって言ったのに!!
上がるのは無数の声。悲鳴、怒声、恨み、渇望。
幼い声にどれほどの想いが秘められていたのかは、嵐は知らなかったし知ろうとは思わなかった。
少しでも思いを寄せれば結果が見えている。そういう性質なのだと、凪げば相対するものを容易に近づけさせるから、烈風を纏う。
(……思った以上に根が深いらしいな)
悲鳴の声が鋭い刃を象り襲い来ると纏った風とぶつかり合い甲高い不協和音を奏でていた。
◇◆◇◆◇◆◇
何が? と問う事が出来なかった。
小さく掠れていた修の言葉に大月は意味が分からず呆けた視線を返す事しか出来なかった。
「きっと、僕のせいかも……」
お気に入りの缶ジュースをぎゅっと握り締めてもう一度だけ、ごめんと呟いた。
普段の修からは想像が出来ないほどの小さな声。彼を知るものなら必ず口をそろえて言う修の特技は「存在だけで周りを和ませる」と言い切られるほどのものだ。
そんな彼がこれほどまで落ち込み、震えているのは大月は付き合い始めてから初めて見る光景だった。
「修……どうした、んだよ……」
詰まりながらおろおろとして、答えを待つしかなかった。
「麗菜ちゃん、あんなにしたの僕のせいかも……だからっ」
「ちょ、ちょっと……まて……よ」
困惑する大月に修はついに耐え切れなくなった涙を流しながら縋りつき、彼は彼で先ほどの恐怖が思い違いではないと気づかされた。
闇色を映すビルのガラスに更に濃い闇が下方へ落ちていった。
「くそっ、厄介だな……」
落下しながら腕を繰り、己の獲物である糸を近くの障害物へいくつか連続して巻きつけ、落下速度を落とし地面へと着地した。
流石に勢い全てを殺しきれずに足の底から駆け抜ける衝撃に耐え切れず、片手を地面についた。
いや、地面に手をついたのは自らの意思。ついた手に力を入れて体を前に押し出した瞬間、半透明の塊がたった今いた場所に押し潰すように落ちてきた。
既に相対するものは少女と呼ぶには似つかわしくない不気味な存在になっていた。
はじめに見た少女の影は潜み7歳〜12歳ぐらいまでの幼い顔と腕をいくつも持つ存在となり『人』と形容するにも無理があった。
(大体、妖の『昇華』は苦手だってのに……)
必死に懇願されたことは今まで何度もあった記憶はあるが、どれもこれも今までと比べるには思い入れが違いすぎた。
だから、今回ばかりは勝手が掴めずに苦労する羽目になるのだ。
――どうして、どうして邪魔するの!
――なんで、いじめるの!
――助けてよっ。
――いやだよ……
視界に入る口々から一斉に叫ばれる声に内心、両手で耳を塞いでしまいたい気持ちになったがそんな事をしている余裕はない。
音声による衝撃波をまともに喰らえば、外側にはさほど目立つ傷は出来なくても内側には甚大な被害が出るのは明白だったが、風を繰る嵐にはそれを最小で受け流されていた。
(バラけさせるのも……無理そうだな。根底で混ざってるか)
再び指先を動かすといつの間にか潜り込んでいた糸が妖の内側から引きずり出された。
仕方がない、と覚悟を決め意識を妖からたゆたう風の流れへと向けた。
短く整えられていく呼吸にあわせ木々がざわめき、流れが変わり空気が研ぎ澄まされていった。
「我が声を聞け。緑翼の僕よ……」
詠う声は鋭く自由にあった風を束ねていく。人の目には見えない力の集約は妖の、確かにその幼い瞳に映していた。
新緑の色は本来なら目に触れる人々の心を穏やかに高揚させるが、目の前の色は明らかな攻撃の意志を持ったものだった。
「暴虐な牙を我が力に」
韻は短く彼の描く通りに右手にその光を灯していく。
もう一言紡ぎ体現すれば終わり、あとは待っているだろう人物からの口やかましい説教を聞けば全てが終わる。
「麗菜っ!」
「あっちゃん、ダメ!!」
二人の叫び声に驚いたのは嵐ではなく、集約していた力そのものと恐怖で動けなかった妖だった。
「ちっ……」
終わらせようとした瞬間にとんだ邪魔が入ったと言いたげに、二人へ視線だけを向けた。
「あっちゃん、約束したの忘れたの!」
明らかな非難の声に嵐はようやく体ごと向き直った。二人の視線が一身に降りかかるがその後ろにいる存在を見て取れているわけではないと、確かめさせられた。
「お前こそ忘れたのか? 仕事の邪魔は、するな!」
嵐が背を見せたのを好機と見て誰でもいいから一気に取り込もうとした妖だったが、吹き荒れた突風に阻まれ目の前にいる三人へと近づく事が出来なかった。
「あっちゃんのバカ! ひどいよ、約束したのに!」
「ひどっ……お前、そんなくだらない事を言いに来たのか」
「くだらなくない! 僕だって約束したんだもんっ」
いつになく強い口調で食って掛かる修に、大月は荒ぐ呼吸のまま制止を促し嵐を睨みつけた。
「麗菜は……いる、のか……?」
「……覚悟があるなら、俺の傍にこい」
嵐は苛立ちも隠さず告げると再び妖へと向き直り腕を振るった。
――お、兄ちゃん……
今度ははっきりと聞こえた声に、大月は重たい足で嵐の傍らへと歩み寄った。一瞬、冷たい風が全身を触れるように駆け抜け、疲労で眩んでいた視界が晴れた。
同時に、今まで嵐が相対していた存在の姿も彼の眼にしっかりと飛び込んできた。
「っ……」
上げそうになった悲鳴を必死に飲み込む大月の姿に些か嵐も溜飲を下げたようで、半歩分だけだが大月の前に身を晒した。
「れ……れい、な……なのか……?」
震える声には隠し切れない恐怖があった。それでも、大月を動かしているのは知りたいという衝動だけだった。
もし、本当に……妹がいるのならば、と。
――約束……覚えてる……?
真摯に向けられた問いかけの言葉は、逃げ出さないよう、叫びださないように必死になっていた彼には届かなかった。
――覚えてるよね……?
幾つもの魂で膨れ上がっていた姿が再び少女ただ一人になっていた。不安を貼り付けた笑みに願いを込めて伸ばされる手は、まとまりきらずに幾つもの腕を持っていた。
――……おぼえて、ないの?
ざわりと不気味な空気が少女の足元から噴出し、嵐と大月の間を駆け抜けた。
ヤバイッ――と警鐘を受けるより早く二人の体が吹き飛んだ。
「くそっ」
思いもよらぬ痛烈な一撃を受けた嵐は、体制を整えきらぬうちに風を繰った。
こんな非現実的な場面に立ち会ってまともに反応が出る人間は一体どれだけいるだろう。大月は衝撃に半ば意識を飛ばされコンクリートの地面に頭から落ちかけていた。
「おーちゃんっ!」
風が作った空気の層が一瞬だけ彼の体を上へと弾き、滑り込んできた修の体の上に受け止められた。
「つっ……ぅ、悪りぃ……な」
「けほ、けほ……だいじょーぶ」
修は強かに打ち付けられた腹部を押さえながらも笑い返すと、彼もまたゆっくりと自分の力で立ち上がった。
「麗菜、なんだよな……間違い、ないんだよな……」
問いかけはどちらへ向けられたものなのか、確かめるように嵐と妖へと交互に視線を向けた。
自分でも分かるほどの震えは心の奥底から湧き上がっている、恐怖の表れ。
尋常ではない現実を目の当たりにした拒絶感。
その震えを心の奥で叱咤し続け歩み始めた。
「覚えてるよ、忘れられるわけ……ない」
――帰ったら一緒に、行こうな。