7.中には窒素という期待がある
――助けてっ……
助け……てっ!
「麗菜……」
涙に濡れた声に力はなく、ただ落ちていくしかなかった。
受け止めるものは何もなく、ただ静かに溶けていった。
◇◆◇◆◇◆◇
「お兄ちゃん、起きてっ! 遅刻しちゃうよ」
小さな女の子の声に夢の中から浮上させられるが、頭と体は一致して付いてくるわけでもなく、目も開かないまま引き剥がされた布団を追いかけて、体を起こした。
「あぁ、お兄ちゃん! カエルになっちゃだめー!」
少女の焦る悲鳴の通り、兄の体は布団を追いかけていったまま前に突っ伏して寝息を立て始めていた。
「もうっ、おーにーーーいーちゃーーん!! おーーきーーてーー!」
揺さぶる攻撃からついに小さく握られた拳での直接攻撃に変わった頃、ようやく彼は開かない目のまま妹の姿を探した。
「お兄ちゃんってば! もう七時半だよ!」
「うぅ……遅刻してもいい……あと2時間……」
「だめだよう!!」
戯けたことを言う兄に、ついに妹は強硬手段をとることを選んだ。
パタパタと台所へ向かい最終兵器を取り出した。
未だにまどろみ続ける兄の背に、心を鬼にして……鬼にして……
優しい妹は鬼にはなりきれず、最終兵器を台所に戻してもう一度、兄の背を揺さぶった。
「っ、ぎゃーーーーーーーー!!!!」
断末魔の声と共に飛び起きた。氷を握り締めた手で揺さぶられのだ。
しかも、意図せずしてその冷え切った指先は彼の首筋に触れ、文字通り寝耳に水。
普段から細い眼も思わず見開かれていた。
「れれれれ、麗菜!! おまっ、ちょ、まて!!」
「だって、遅刻しちゃうもんっ!」
妹は真新しいランドセルを盾に、兄の追撃の手を躱した。
「それにあたし、ちゃんと15分も前から声かけてたもん!」
怒られる理不尽さに大きな目が潤むのを見つけ、彼は伸ばしていた手を引っ込めた。
確かに時計を見れば7時半を回っているが、朝食を諦めれば遅刻は免れる。
とりあえず彼は着替えを済ませる事を選び寝癖のついた髪を手櫛で直し、玄関で靴紐と格闘している妹の後ろに立った。
「あ、そうだ。お兄ちゃん、今日の約束ちゃんと覚えてる?」
まだランドセルに背負われている妹が振り返り、顔を輝かせて兄の返事を待った。
「約束……? なんかしたっけ?」
この時はただ、寝起きで頭が働いていなかった。首をかしげながら眠気で思考が停止しそうになるのを耐え、見る見るうちに頬を膨らませて落ち込む妹の姿に慌てるしかなかった。
静かにドアがノックされる音に、夢幻の狭間から帰った。
音を立てないようにドアが開き、缶ジュースを持った修が顔を綻ばせながら入ってきた。
「おーちゃん、聞いて聞いて」
修に子犬の尻尾があるのなら間違いなく千切れんばかりに左右に力強く振られ、喜びを表しているだろう。そんな錯覚さえ覚えるほど彼からは嬉しいという感情が溢れかえっていた。
「ここね、置いてあったの〜♪ 今、ほとんど見かけなくなったつぶつぶ入りオレンジジュース♪」
「あー……、うん。よかったなぁ」
記憶の残滓に全ての感情が持っていかれていたはずの大月だったが、修の綻ぶ顔を見て思わず笑っていた。
「おーちゃんにも、あげるね♪」
表情の暗かった友人にも笑みが戻ったのはつぶつぶ入りオレンジジュースのおかげ、と言いたげに両手で大事に手渡していた。
そして、何が面白いのかきゃあきゃあ言いながら思い切り勢いよく缶を上下に振りプルタブをあけた。
「ふみゃぁっ」
「お前、振り過ぎだろ……それ」
炭酸も入っていないのに、思い切り振ったせいでジュースは密閉された空間から空気を得た瞬間、勢い良く噴出し修の顔に襲い掛かってきた。
「にゃぁ……だって、つぶつぶは底にたまるんだもん」
「いや、限度ってもんがあるだろうよ」
ふみぃ……と鳴きながら、修は傍にあったティッシュで顔をぬぐいながら、大月の笑顔にほっと胸をなでおろしていた。
「そだ、おーちゃん。検査なんともなかったら、直ぐに退院できるからさ今度の休みに三人で自転車ツアーしよー」
にぱっと笑いながらとっておきのアイディアが閃いたと得意げに言う修に、大月は「は?」とマヌケな返事を返すしかなかった。
「何を今更に?」
「えー、だって“論文題材探しして来い”って三島先生に言われなかった?」
「あぁ……そういや、そんなこと言ってたな。てか、テーマ探しってもネットでもいいじゃん……と思うのはオレだけか?」
「うぅ、僕の家……パソコンないもん……」
まるで失敗したシュー生地のように空気が抜けてぺしゃんこになった修に、苦笑いを返すしかなかった。
「それは別にしても、三人って言ったよな? あと一人って……まさか」
「うん、あっちゃんだよ。家に来る予定が遅くなってまだ学校周辺しか案内できてなくてさー、テーマ探ししながら案内の一石二鳥な作戦ですよ!」
ぐっと両手で拳を作って力説する修だったが期待に胸を膨らませすぎて、大月の表情が再び翳ったことに気がつくのが遅れた。
「……修」
低い呟くような声にはっとして修は、とすんっとベッドの縁に座り込んだ。
「何なんだ……あいつは……」
「僕の従兄弟で幼馴染で、居候……」
「居候かぁ……いや、そうじゃなくてっ、そう言うことじゃなくて」
修の的外れな答えは今に始まった事ではなく、大月はどうやって自分の求める答えを引っ張り出そうか思い巡らせていた。
――六月。忘れてはいけない月。
忘れてはいけない日。
記憶が断続的に鮮明に蘇り、駆け上ってくる吐き気を必死に堪えた。
ぎゅっと握り締めた手の中にあった缶が微かに、形を歪め非難の声をあげた。
「おーちゃん……?」
不安げな声に修はまた小さく、呟いていた。
――ごめん……