5.病室で騒いでると、すっ飛んでくる人がいる。多分。
――たすけて……
……お兄ちゃん。
ウソ……
ウソツキ……
……助けてなんて
◇◆◇◆◇◆◇
冷たい空気の流れを感じて大月は後ろを振り返った。
何もない。
清潔な壁とそれにかけられたナースコール用のインターフォン。ただそれだけしか写らなかった。
(……あ、あんな夢みたせい……だよな)
冷や汗を浮かべたまま彼は安堵の息を細く、長く吐き出した。
「おーちゃん、すこし横になってたら?」
修の気遣う言葉に小さく頷いて薄い掛け布団に手をかけた。
――ウソツキ……
嘲う声に彼はついに悲鳴を上げた。
薄く笑う青白い三日月のような唇。なめくじの様な粘度を窺わせる赤黒い筋、それを伝わせたままの色抜けた白い小さな腕。
『それ』はいくつもが積み上げるように、ほつれた糸のように一つの形をとって竦み上がる彼の裾へと触れた。
「おーちゃんっ」
修が気がついたのが早いか、大月が意識を手放したのが早いかそれはわからなかった。しかし、『それ』の手は大月の裾を掴んだまま離さず、ゆっくりと登ってきた。
小さな手はゆるく彼の体を確かめるように、そっと……しかし決して離す事はなかった。
影から伸びる手。足、腰、胸元へとじわりと時間をかけてのぼる。
「……だめ、だよ」
呟く声は明らかな静止を求めるもの。
しかし視線は『それ』を捉えてはいない、ただ友人の顔へと向けているだけだった。
「僕は……」
掠れた声に続く音は風の音だった。
締め切られた部屋の中で鋭く風が舞った。ベッドの淵にかけてあるコード付きのコールスイッチを弄び、大月の体の上を一度撫ぜると椅子にかけたままの二人のブレザーを落とし止んだ。
先ほどまで部屋を支配していた薄ら寒い空気がなくなっていた。
同時に嘆く声が小さく部屋に溢れて消えていった。
――に……いて……
「修」
不意に低い声が耳に届いた。部屋の入り口の前に立つ黒い影に、修は弾けるように顔を上げた。
「逃げられた、みたいだな……」
軽い舌打ちをして影は足音もなく部屋へと入ってきた。黒いジャケット、黒いズボン、後ろで細くまとめられた髪も不機嫌そうなその瞳も全て黒で統一されていた。修は小さく影の名前を呼んだ。
「あっちゃ……」
「それはやめろ。何度も言わせるな」
嵐は不機嫌さを更に増した瞳で落ち込む修に軽く睨むよう視線と言葉を向けた。
しゅんっと落ち込む子犬のように潤んだ目で小さくごめん、と呟いた修に嵐は軽い溜息をついてその頭に手を置くとくしゃくしゃに撫で回した。
「ふみゃぅ……」
「落ち込むのは後にしろ」
撫で回した手で最後にポンッと軽く叩き、そのまま大月の側へ足を向けた。
「……侵蝕もないようだな」
大月の汗ばむ額に手を翳した一瞬、彼の手の中に新緑の光があった。
「おーちゃん……平気なの?」
「悪運が強いらしい」
微かに口端だけで笑った嵐に修は安堵の息を漏らしていた。同時にぱっと顔を綻ばせ大月の体を揺すった。
優しく呼びかける声に応じたのか唸り声を上げ、ゆっくりと目を覚ました。
焦点の合わない視線のまま覗きこむ修の顔を見て、続いて部屋を探ろうとして嵐を見つけた。
「あ……れ、どうして……嵐が?」
不思議な現象に立ち会ったポカンとした表情の大月に嵐は盛大に溜息をつくと、うんざりとした半眼のまま横たわる彼を睨みつけた。
「な、なんだよ……?」
「お前なぁ……まあいい、確認しに来ただけだ。大月、俺の質問にYesかNoで答えろ」
文句の一つでも言おうと思ったが、言ったところでどうにもならないと思い直し嵐は、訪れた目的を告げた。
「四年前の六月、覚えているか?」
鋭いナイフを首元に突きつけられたように大月の体はびくりと震えて固まった。
「……な」
「どっちだ?」
腰元で手を組み見下ろす嵐に大月は言葉が出なかった。
昼間と雰囲気がまるっきり違う彼に気圧されて言葉が繋がらなかった。
――怖い。
恐怖とはどこか違うが確かに怖いと思った。
決して威圧的な態度をとっているわけではないが言い知れぬ不安と空気が自身の体を支配していたのだ。
自然と体が震え真直ぐに向けられる嵐の視線を受け止め切れなかった。
「な……なんで……」
たった数文字の言葉を発するのがこれほど体力を必要するものだとは大月は思ってもいなかった。
部屋を支配した重たい沈黙は大月の心音をハッキリと自分の耳に届け、荒くなる呼吸が更に彼を恐怖に縛り付けていた。
「あっちゃんっ!」
絶えかねて沈黙を破ったのは修だった。頬を膨らませ明らかに怒っている様子に嵐は黙っていろ、と目で告げたがぱっと二人の視線を遮るように間に立った。
「そんな言い方してたら、答えられるモノだって答えられないよ」
両手を腰にあてて背の高い嵐を必死になって睨むが、イマイチ迫力に欠けていた。
「それに、いきなり……」
修の視線が泳いだとき、嵐はふっと短く息を吐くと何も言わずにドアへ向かって歩きはじめた。
「あ、嵐っ」
上擦った大月の声に、修は振り返り嵐はその足を止めた。
次に続く言葉を待つが呼び止めた本人は、つなげるべき言葉がまとまらず困惑した表情のままだった。
「なんで、お前が……」
ようやく紡いだ言葉だったが嵐はそれを背に受けたまま、ドアの奥の闇へと姿を消していった。
「あっちゃ! まって、待ってよ!」
慌てて修が追いかけたがその姿はもう見えなかった。