遺書
オレンジ色の弱い西日が、レースのカーテンを透き通ってリビングをセピア色にする。
孤独になった――
妻はセカンドバッグを左手に取り、右手で泣きじゃくる娘の手を引きながら肩でドアを押し開けるようにして3年間共にしたこの部屋を出て行った。セピア色に染まる妻と娘の後ろ姿は、僕の心より遥かに淋しそうだった。
二人の足音……泣きじゃくる娘の声……それらと同時に家族の灯火が消えた。
普段気にしたことのないシーンとした静かな騒音が耳元をこそばゆく漂う。西日は気を遣っているのか、哀れみの目で見ているのか……
弱々しいスポットライトは孤独になった僕を余計惨めに照らし出す。
僕の意地は勇気を圧し殺していた。
逆に言えば僕にとって、家族や家庭の存在がそれくらい軽いものだったのかも知れない。
全てを失った今、絶望感や嫌悪感にひしげられてと言うよりは、何となく機械的に「死」を決断した。
その結論に達するまでの方程式は簡単すぎた。
僕が家庭をないがしろにして夢を追い続けてきたことに愛想を尽かした妻が、家を出ていくと言ったのは、娘が寝静まった真夜中のことだった。受け入れられないのなら、土下座してでも大声を上げて妻を説得していたに違いない。
”せっかく寝静まった娘を起こすわけにはいかない”
”終わったんだ……”
そんなことを考えていた気がする。
思い付いた答えは、生きることを諦める……即ち「死」を選ぶことだった。
死んだら終わる……
終わらせたいから……死ぬんだ――
僕にとって本当に必要だったものは妻でも娘でも夢を叶えることでもなく、命を経つ術だった……
――
部屋のファンヒーターの温もりが外の寒さを象徴している。脳みそは起きていたが目を開けるのを躊躇した。
「ねぇ隼人さん!起きる時間だよ!」
声の位置からして、美幸は僕の顔の上から立ったまま見下ろす様にして何度も声を掛けている。
気付かれない様に薄目で見上げてみると予想どおり美幸のスカートの中から白いアレが”おはよう”と挨拶してきた。
「お前、見掛けによらず中身はまだまだ子供だな……」
そう言って僕は笑った。
「は?何のこと?」
「心はいつまでも純白で……おやすみ」
意味が分かった美幸の耳たぶは、真っ赤な頬っぺたより赤くなった。
「変態さん、お先。」
美幸は逃げるようにしてアパートを飛び出した。玄関のドアが閉まった瞬間、ひんやりした刺々しい風がお構いなしに僕の顔の上を通過した。
”ほら!やっぱり寒い……あと五分。”
人肌を妄想しながら布団を巻き付けるようにして縮こまった。
”今日もまたあの時の夢……”
僕は妻と別れた16年前から今日まで、度々別れた時の夢を見る。
当時のセリフや感情がそのままリアルに写し出される夢のせいで、16年前から何も変われずにいた。要するに、死にきれないまま16年経ってしまったのである……
別に当時のことを忘れたいのにその邪念に取り付かれて困っているわけではない。
むしろこの夢のお陰で、今書き上げている最後の作品”遺書”に綴る妻や娘に対する僕の思いを正確に描けている気がして便利が良い。という風にも思っている。
16年前から変わっていないのは何も僕だけではない。
夢に出てくる妻と娘の姿も変わっていないから嬉しくなってくる。
昔、ネットで知り合った作家を目指す女性に、
「隼人さん?奥さんはあなたの夢に理解を示してくれているの?」
と訊ねられたことがある。
「もちろん!何故?」
「え?い、いや、気を悪くしたらごめんね……。隼人さんって良く言うととにかく真っ直ぐな人、でも何かに集中してしまうと周りが見えなくなるタイプなのかなって思って……だから……ごめんね。」
「そんな風に言ってくれる人はいないから有難い。でも急にどうして?」
「だって今日は奥さんの誕生日でしょ?ちょうど1年前の隼人さんのブログに奥さんのために買ってきたケーキとプレゼントの写真を載せてたじゃない。」
「あ、そんなこともあった……かな……?そういえば今日は妻の誕生日だ……」
「ね?そういうところが……。ところで隼人さんは奥さんに何と言って出てきたの?」
「三上さんと最近の近況報告をしにマロンに行くとだけ言って出てきた。」
マロンとは、僕の行きつけの喫茶店である。初めて三上さんと会った時もマロンで待ち合わせをしたのだが、その時に小腹を空かせていた三上さんにオススメのベジタブルトーストを勧めたところ、すこぶる気に入ってくれて、それ以来”近況報告はマロンで”と決めていた。
三上さんがトーストを置いて慎み深い物言いで
「隼人さん、もう少し奥さんのこと気遣ってみては?私は暇人だし、今日でなくてもいつでも……」
と言った。
このときばかりは自己主張の強い僕でも三上さんの言うとおりだと納得した。
愛だ、愛しているだ、愛し続けるだと言ったところで、所詮僕は自分のことだけを考えて生きているのだと自己嫌悪に陥った記憶がある。でも、その性格は直らない。正確には直す気がないのだろう。
現に、16年前に死を決断してから今日まで、一度たりとも死ぬための準備を欠かしたことはなかったし、誰が悲しむのかも考えずに死ぬために生きるという考え方も変わっていない。
ため息をついたと同時に携帯電話が震えた。”あんた最低”と言わんばかりの絶妙すぎるタイミングに思わず吹き出してしまった。
美幸からのメールだ。
”隼人さん、いつまでも寝てないで早く起きなさい。(もう起きてたらごめんね!)”
全く美幸らしいメールだ……
美幸との出会いは今年の夏に遡る。
僕は登録制の家庭教師のアルバイトで生計を立てていた。はっきり言って、これから死のうとする人の行動ではないのはわかっている。ただ、死ぬために生きなければいけないという僕の状況で、短時間に稼げる家庭教師のアルバイトはうってつけだ。と、思っていた。
しかし、三流大学卒業の僕は、クラブ活動の幽霊部員のように登録はしているが何もしていないお荷物となっていた。
登録したこともすっかり忘れかけていた頃、登録先の会社から電話が掛かって来た。
「もしもし、吉岡さんの携帯ですか?坂上です。」
「あ、はい。どうも。」
どうせ登録抹消の知らせだろうと僕は無愛想な声で自分をアピールした。
「吉岡さん、明日から家庭教師のアルバイトお願いできますか?」
「え?」
つい数秒前までの役者はもうどこかにいなくなっていた。
「は、はい!ありがとうございます。」
新しい役者を引き出してみたが、ギャップがありすぎて思わず声が裏返ってしまった。
「ちなみに……研修では原則、男性は男子生徒の家庭教師をお願いするとお話してたかと思いますが、今回の生徒さんは女性ですので、くれぐれも……」
「くれぐれも?」
「あ、いえ、極稀にそういう問題がありまして…」
「稀に何がですか?」
「とにかく宜しくお願いします。」
「わかりました。」
「それでは明日15時に事務所に来てください。ご依頼人様の地図や状況等を説明します。」
「ありがとうございます。宜しくお願いします。」
電話を切ってホッとしたとき、初めて坂上さんの言う”稀に起きる問題”の意味がわかった。
想像した途端、鏡を見なくても顔が赤くなっていくのがわかった。
”坂上さんも余計なこと考えさせやがって……”
この時は何となく浮かれていたのかもしれない。遺書を書くのを止めて研修で使用したマニュアルを研修のときより一生懸命読む僕がいた。
”新しい出会いも悪くないな……”
遺書を書くために用意した原稿用紙をメモ用紙にしたお陰で、気がつくと原稿用紙は底を尽いてしまっていた。
家庭教師の登録先の事務所は隣駅の3階建てのビルの中にある。隣駅と言っても歩いていけば15分程で行けるため、収入のない僕は当然早めに家を出て歩いていこうと決めていた。時間にルーズな僕でもこの日ばかりは14時に家を出た。
玄関を出て、一瞬で考えが変わった。
”電車で行こう”
焼かれてしまいそうな強い日差しはひきこもっていた僕を容赦なく攻撃してくるし、僕は僕で直ぐに悲鳴と同時に手を上げた。
”初対面の生徒の前で汗だくでは男が廃る”
生徒に会う前に事務員の坂上さんと打ち合わせすることなど気にもしていない心の叫びだ。
因みに、坂上さんも40代後半の一応……女性である。
ボタンが飛んで行ってしまいそうなはちきれそうな白いシャツにパンパンのパンツスーツで面接してくれたあの坂上さんを想像すると、余計暑苦しくなってきた。
「失礼します」
ノックをして事務所に入った。
「はいはい。」
オフィスの影から、顔より先に腹が出てきたから声を聞かなくても坂上さんだということは察しがついた。
「お久しぶりですね吉岡さん。面接の時遅刻してきたから今日も遅刻してきたらどうしようと思ってたけど大丈夫だったみたいね。」
”嫌味くさい女だ”
「えーと……それじゃ、そこの椅子に腰掛けて待っててください。こんなに早く来るなんて思ってなかったから……急いで準備するわね。」
小走りのスピードが普通の人間の歩くスピードより遅い気がして、”結局は効率の悪い事務員だ”とつくづく感じた。
10分位して坂上さんが持ってきた書類は生徒の家の地図と住所や依頼内容の箇条書き程度のものだった。
注意事項や質問事項を確認し、書類を鞄にしまったところで大きく深呼吸をした。
”こんなに緊張するのはいつ以来だろう……。死ぬために生きてるのに……本能とは全く邪魔くさいものだ……”
「それでは、行ってきます。」
「昨日電話で話したけど……くれぐれも問題のないようにお願いよ。」
ニタっとした上目づかいの坂上さんの色気よりも、はちきれそうなシャツのボタンに目が行ってしまう。
「理性が本能に負けたらわかりませんがね……そのときは坂上さんのことを思い出します。それでは。」
「あらやだ!」
せっかく電車で移動してきたのに変な汗が背中の溝を伝って落ちていくのがわかった。
”……気持ち悪い!”
さっき鞄に閉まったばかりの生徒の情報が書いてあるメモを取り出して、歩きながら地図や生徒のことを確認した。
星野 美幸 16歳
得意科目 特になし
苦手科目 数学
時 間 18時~20時(週3日 変則)
特記事項 母子家庭(両親不在):生徒さんのお母様は実父のところへ出稼ぎに出ている為、契約書等必要書類の写しを生徒さんにお渡ししてください。
坂上さんが執拗に念を押すのにも意味があった。
打ち合わせのときに、星野美幸の家庭事情を、面白おかしく尾ひれ背びれをつけて潤色する坂上さんの表情は、幸せになれない自分と重ねているようにも見えた。
”手を出しても良いんじゃない?”という言葉の裏側で話をしているようで、どうしているのかすらわからないとはいえ、同じ年代の娘を持つ親として怒りが込み上げてきた。
星野美幸の家に辿り着くまで、彼女にどう指導したら成績が上がるのだろうかというような不安よりも彼女の家庭事情の方が気になって、回れ右をして帰りたくなった。
「もしも~し。吉岡さんですか?」
「え?」
「星野です。」
「あ、星野さん?ど、どうもはじめまして。吉岡です。」
ダボっとしたジャージにサンダルという格好でも、透けて見えそうなくらい、彼女のスタイルの良さは瞬時に理解できた。
背丈も髪の長さも声も別れた妻の若い頃にそっくりだったからである。
「あ、千夏さん。」
「は?」
「あ、み、美幸さんだったね。ごめんごめん。」
「アハハ。どこの生徒さんと間違ったんですか?」
「い、いや。改めまして吉岡です。宜しく。」
「こちらこそ宜しくお願いします。吉岡さん。」
何を言っているのか何を言って良いのかわからないまま、契約書の控えと教科書をわかりやすくまとめた資料を手渡した。
”娘に会いたい……”
星野美幸との出会いは、”遺書”の内容を濃くしてくれると同時に”死”を先延ばししてしまうきっかけとなった。
彼女の担当になって2週間くらいしたときから、2時間の仕事を終えると事務所に電話をして
「今終わったので直帰します。」
とだけ告げて、そのまま美幸の部屋に残っては他愛ない話で朝を迎えることも度々あった。
仕事で腹が立つことと言ったら、終了の電話をする度に坂上さんが、
「吉岡さん、手を出しちゃ駄目よ!」
という言葉を発することくらいで、やり甲斐を感じる仕事というよりは、僕には必要のない生き甲斐を感じさせてくれる仕事だった。
最も、その生き甲斐を感じさせてくれるのは、仕事ではなく、美幸という一人の人間なのだが……。
僕はこの生き甲斐を、娘への愛が伝わるように”遺書”に利用するようになっていた。
家庭教師の仕事をしながら、美幸と時間を共有しているうちに先に惹かれて行ったのは、僕のことなど何も知らない美幸の方だった……。
気がつくと美幸の母親が家にいない日は、僕の家に来て勉強や学校のことの相談をするようになっていった。
僕は死と幸せが隣り合わせで存在しながら生きている。
それでも、幸せは感情の結論としては位置づけなかった。常に幸せの後ろに死が待ち構えているという感覚で幸せを感じていた。
腐り果ててできた僕のこれから手にしていくモノは、全て遺書を完結させるためのアイテムなのである。
携帯電話が震えた。
”隼人さんまだ寝てるの?今の若い子は気が短いんだよ。メールの返信はすぐにしないと嫌われるんだから!(小説書いている最中だったらごめんね。完成したら真っ先に読ませてね)”
”ちゃんと起きてたけど、小説の内容考え込んでいた。心配掛けて悪かった。”
”今日はママが帰ってくる日だから明日また遊びに行くね。”
2、3分してまた携帯電話が震えた。
”淋しいからメールくれないの?隼人さんらしいね。”
”母さんは大事に……”
布団から起き上がって”遺書”を書くことにした。
親愛なる娘 千夏へ――
――
美幸のような娘を想像しながら”遺書”書いているととスラスラ筆が走って止まらない。
と、同時に、涙も止まらない揺れ動く自分がそこにはいた……