【case3】ジレンマ
「どっちがいいのかしらねえ……」
事務所のソファーで、黒瀬が煙草を吸いながら呟いた。
彼女の視線はテレビに向けられていた。ワイドショーでは安楽死の話題を扱っており、『命のコスパを考えよう!』とテロップが出ていた。
番組ではウサギの着ぐるみが両手に二枚の看板を持って立っており、『七五歳のときに一千万円もらって死ぬ』というプレートと、『何も受け取れないまま老衰で無様に死ぬ』というプレートを持っていた。
それに対し芸人やタレントがあれこれ喋り、何人かはお金をもらって死にたいと主張し、年配の芸能人が強い口調でそれを非難していた。
「そんなに怒らなくてもいいのにねえ」
ぼーっとテレビを眺める黒瀬の表情は緩み切っていた。社長から今日は事務所に集まるよう言われてたのだが、なかなか来ないのでテレビで時間を潰していた。黒瀬は目鼻立ちのはっきりした美人だが、そういう人ほど、ぐうたらしてる姿が残念に映る。
「鬼頭君はどっちがいい? お金もらって早死にするのと寿命まで生きるの」
「わたしは癌家系なので病気で薬漬けになって自由も金も得られないまま一人で死にます」
「鬼頭君ってたまにクソみたいなこと言うよね」
黒瀬が毒を吐いてると、チャンネルが変えられた。
そちらもワイドショーで、同じく安楽死の特集がされていた。デモの様子が中継されており、プラカードを掲げた群衆が通りを練り歩いていた。彼らの多くはひげ面で強面のオッサンがブリントされたTシャツを着ていた。
「そっか。今日ってバラゲールの命日か。どうりで特集が多いと思った」
「この時期の風物詩ですよね」
エルネスト・バラゲールは安楽死普及のきっかけとなった人物だ。独裁国家の元大統領で、彼が打ち出した政策が世界を変えたと言われている。その界隈では有名人で、一部の人々からは革命家のように崇められていた。
鬼頭と黒瀬がテレビを見てると、またもチャンネルが切り替えられる。リモコンを弄ってるのは山田だった。ソファーに寝転んで眠たげな顔をしている。
「ちょっと。見てるんだから変えないでよ」
「朝なんだしもっと元気出る番組にしようよお。美人さんが出てくるやつ……」
「もう十時過ぎでしょ」
「昨日は遅くまで飲んでたんすよ」
「山田君、この前もここで寝てたでしょ。汚いしちゃんと家に帰って風呂入りなさいよ」
「めんどくさい……」
ダラダラ時間を潰してると、ノックがして扉が開く。
顔を覗かせたのは福富社長だった。三人が揃ってるのを見ると、にこっと白い歯をのぞかせる。
「みんな、おはよう!」
輝くような笑顔と共に彼は事務所に入ってくる。
社長は重そうなビニール袋を両手に持ってたが、花束でも持ってるみたいに重力を感じさせなかった。歩く姿は背筋が伸びて美しく、コンサートで舞台に立つアイドルのようだった。年齢不詳で三十代にも五十代にも見えることも相まって、胡散臭い詐欺師みたいだと陰で噂されていた。
「色々買ってきたよー」
福富はビニール袋をテーブルに置くと、中から栄養ドリンクやペットボトル飲料、缶珈琲やお菓子などを並べていく。ラインナップにはビールやおつまみも入ってた。
「好きなもの取って行ってねー。お酒は職場では飲んじゃダメだよー」
くだらない冗談を言うのも、いつものことだ。
鬼頭と黒瀬らが適当に飲み物を持っていく中、山田がソファーに寝そべったまま聞く。
「社長、今日はどうしたんすか? ヒマだから遊びに来たの?」
「新入社員を連れて来たんだよ」
それを受け、山田が鼻で笑った。
「どうせ小汚いオッサンでしょ?」
「若い女の子だよ。二十三歳の中途採用」
「ほーん」
どうでもよさそうに山田が言う。
「興味ないの?」と黒瀬が意外そうに聞く。
「俺はマリリン・モンローみたいなスケベな女が好きなのよ」
「大女優をスケベ扱いか」
「AV女優で言ったって伝わらないじゃん」
二人が男子高校生みたいな会話をしてると、ぱんぱん、と社長が手を叩く。注意が逸れて会話が止まった。
「皆さんが静かになるまで一秒しかかかりませんでした。優秀っ」
絶妙にイラっとさせることを言うと、社長は扉の方へ歩いていく。ドアを開けて声をかけると、外で控えていた人物を招き入れた。
現れたのは小柄で童顔な女性だった。ショートカットの髪は今どき珍しい黒色で、服装次第では高校生でも通りそうだった。緊張しつつも瞳には力があり、優等生の雰囲気を醸し出している。学生時代は髪を伸ばして三つ編みにしてそうだな、と鬼頭は思った。
「こちら、白木さん。久々の新メンバーだから仲良くしてあげてね」
福富に紹介されると、彼女は頭を下げた。
「は、はじめまして。白木桜と申します。よろしくお願いしますっ」
緊張しつつも、よく通る声で挨拶をする。
ぱちぱちと、まばらな拍手が起こった。
「教育係は黒瀬さんにお願いしようかな」
「はーい。よろしくね、桜ちゃん」
黒瀬が爽やかに笑うと、白木の表情がほっとしたように緩む。同性で安心したというのはあるだろうし、美人の笑顔にはそれだけで人の警戒心を解く力がある。
その後、社長は「わからないことがあれば誰かに聞いてね。みんな優秀だから」と言い残して、さっさと退散していった。
完全に丸投げにされた形だったが、いつものことなので誰も気にしなかった。黒瀬は大きく伸びをすると立ち上がって、事務所を案内する。新人の指導も初めてではないので、手慣れたものだった。
それにしても──と鬼頭は思う。
若くて、普通の女性が来るなんて珍しいなと。
エンディングプランナーは人気のある職種ではない。人の死に関わるような仕事は精神的にきついし偏見もある。裁判のリスクを踏まえると収入が特に高いわけでもない。正直なところ、訳ありの人間が就くような仕事だ。
気にはなったが、そこまで深くは考えなかった。
下手に関わって厄介ごとに巻き込まれるのも嫌だったし、事情があるなら黒瀬を経由して情報が流れてくるだろう。
早くも談笑を始める女性二人を眺めながら、鬼頭は思った。
※ ※ ※
それから一週間は何事もなく過ぎた。
白木は黒瀬について回り、依頼を受けてからバゲットリストの調整、実行、後処理までの大まかな流れを習っていった。制度に則って自死する場合、役所への届け出や許可申請などの手続きをこなさなければならない。親類縁者に安楽死の意思を伝えて説得する必要があるし、バゲットリストに至っては百人いれば百通りの内容が書かれている。覚えることは多かったが、黒瀬の機嫌は上々だった。それだけ優秀なのだろうと鬼頭は受け取っていた。
新人教育は滞りなく進んでいたが、急遽、彼女は鬼頭に同行することになった。黒瀬が現場に連れていく予定だったが、依頼人が同席を拒否したためだ。
「今日はよろしくお願いします!」
鬼頭のデスク横で、白木は深々と頭を下げた。
こちらこそ、と鬼頭もお辞儀をすると、荷物をまとめて立ち上がる。その日は事務所のメンバーが全員出払ってたので、ドアに施錠して建物を後にした。
外は穏やかな陽気で、鬼頭の斜め後ろを白木は歩いた。彼女は普段は黒瀬とずっと一緒にいるので、こうして二人きりになるのは初めてだった。
若い女性は苦手だったが黙ったままだと緊張させてしまうだろう。鬼頭は歩くペースを落として話を振った。
「仕事はどうですか? 職場の雰囲気には慣れましたか?」
「はい。皆さんによくしてもらってますので」
「黒瀬さんも褒めてましたよ。覚えるのが早いって」
短いやり取りの間、白木は鬼頭の顔をやけにじろじろ見ていた。
「どうかしましたか?」
「いえ。鬼頭さんはちゃんとした人だなと思って」
「黒瀬さんは違いましたか?」
まさか、と白木は慌てて手を振った。
「黒瀬さんはしっかりした方ですよ。……わからないのは山田さんです」
唇を尖らせて彼女は言う。
「いつ見ても仕事してないし、お酒飲んでテレビ見たりゲームしたり、事務所で寝泊まりしてるし。あの人って何してるんですか? 何のために雇われてるんです?」
好感度が下がるの早いなと思いつつ、鬼頭は問いに答える。
「彼は調査用の人員なんですよ。必要があれば働きますし、癖のある依頼人をお願いすることもあります。トラブルがあったときが出番なので、ダラダラしてるくらいがちょうどいいんです。消火器だって普段は出番がないでしょう」
そうですか、と白木は小さく漏らした。聞いてもわからないことがわかったのか、それ以上は食い下がってこなかった。
「白木さんは、どうしてこの仕事を?」
鬼頭は別の話題を振った。
「社長さんの話に共感したんです」
白木は聞かれるのがわかってたみたいに流暢に答えた。
「友達に面接受けるから一緒に来てって頼まれたのがきっかけでした。最初は冷やかしだったんです。新卒で入ったベンチャーは忙しかったけど充実してましたから。話だけ聞いておしまいのつもりでしたけど──会ってみたらイメージと違ったんです」
面接場所は都内にある、英国風のカフェだったという。
店内には甘い香りが漂い、若いカップルや女性客で賑わっていたらしい。華やかな空間に堅苦しいスーツ姿は全く合ってなかったし、そんな恰好をしてる人は他に誰一人いなかったという。まともな神経をしていれば面接会場として選ぶはずのない場所で、社長と白木たちは向き合っていた。
福富社長はリラックスした様子でスコーンとケーキと紅茶を頼み、白木たちにも好きなものを選ばせてくれた。
彼は運ばれてきたオレンジのスコーンを口に入れると、おいしいねと子供みたいに笑ったそうだ。
『……いつもこんな所で面接してるんですか?』
白木が訊くと、『経費で落ちるからね』と社長は答えた。
『面接は結構するけど、実際に入る人はあんまりいないから。興味はあっても仕事にはしたくないんだろうね。空振りが多くて悲しくなっちゃったから、面接のときは好きなお店でおいしいものを食べながらって決めたんだ。それならフラれても落ち込まないで済むでしょ?』
白木らが反応に困ってると、今度は社長が質問した。
『お二人は親族の誰かが安楽死された経験があるのかな?』
いえ、と白木と友人は声を揃えて答えた。
『じゃあこの仕事にあまり馴染みはないのか。好奇心を持ってもらえて嬉しいよ』
社長はケーキをぺろりと平らげて、お代わりした。
『二人はどうする?』と聞かれて白木たちが首を横に振ると、『遠慮しなくていいのに』と笑って彼は二個目をもりもり食べた。変わった人だなあ、と白木は思ったらしい。
『お二人は何歳くらいまで生きたいの?』
社長はスイーツを楽しむと、紅茶をすすりながら訊いた。独り言のようでもあったという。
『僕らの世代は八十歳くらいで死ぬらしいけど、個人的にはもう少し短くてもいい。できれば晴れた日に死にたいな。あったかい日に窓を開けてベッドに横たわって、お日様に照らされながら眠りにつきたい。ああ、今日はいい天気だなあ、って思いながら逝ければ最高だね』
その言葉に白木の心が揺らいだという。感覚的に、わかるかもと思ったそうだ。
『逆に、ボケて家族のこともわからないような状態で苦しみながら逝くのはごめんかな。そんな終わり方じゃ、人生そのものが台無しになる』
チンチン、と彼はスプーンでカップを叩いた。
透き通った琥珀色の液体に、視線が集まる。
「ここはケーキもスコーンも美味しいけど、最後に泥水が出て飲み干せって言われたら最悪でしょ? お腹一杯なのに終わらせられずに、強制的にまずいものを食べさせられる。そんなカフェには誰も行きたがらないけど、人生には少なからずそういう部分がある。安楽死っていうのは、どこで食事を終わらせるかを決められる権利なんだ」
でも──と友人が口を挟んだ。
命と食事は違うし、人生はレストランなんかじゃない、どんな形でも最後まで生きるべきじゃないか、という反論だった。
『素晴らしい意見じゃないか』
自身の考えを否定されたのに、社長は満面の笑みを浮かべて身を乗り出したという。
『そうやって意見を表明することが大事なんだ。そうやって議論がされて、初めて個人の選択を受け入れる土壌ができるんだ。きみの言うことは全くもってその通りだよ。料理を残すのは確かにマナー違反だし最低だ。『もったいない』とか『食事を残すな』とか、そういう意見は尊重されるべきだ。しかしだね、食べれる量には個人差があるし嗜好もそれぞれだ。これはきみの意見を否定したいわけじゃなく、厳然たる事実なんだ。
人間が百歳まで生きられるようになったとしても、そんなに生きたくないって思う人は必ず出る。そういう人が幸福に生きられない社会は優しくない。だから多分、自分の人生は自分で終わらせるって考えはこれからもっと普及する』
ちょっと熱くなっちゃったね、と照れ臭そうに言って、社長は鼻をこすったという。
『良い人生を考えるには、良い終わり方を考えなきゃいけない。僕らの仕事は人を死なせることじゃなくて、人生をより良いものにすることなんだ。少なくとも僕らはそういう信念の元で働いている。──君らと縁があるかはわからないけど、今日はそれだけでも覚えて帰ってくれたら嬉しいな』
面接はそれで終わった。ケーキを食べて雑談しただけで、志望動機を聞かれることすらなかったそうだ。
入社を期待されてないのはわかっていたが、白木は転職を決意したという。
「わたしが大学生の頃に祖父が癌で亡くなったんです」
歩きながら彼女は言う。
「ずっと闘病生活してたけど隠してたらしくて。知らされた時には末期で、もう治らなくなってました。でも会いに行ったら親族がいっぱい集まってて──うまく言えないけど、それを見て、何かいいなって思ったんです。不謹慎だけど、こういう風に見送られるのって素敵だなって。社長さんの話でそれを思い出して、ああいうお別れの手伝いなら、してみたいなって思ったんです」
友達は合わなかったみたいですけど、と白木は苦笑した。
「……いいお話ですね」
鬼頭はかろうじてそう返したが、内心、後ろめたい気持ちで一杯だった。聞いてるだけで社長のうさん臭さが伝わって来たし、そんな綺麗事ばかりの仕事でもない。鬼頭は一言も喋ってないのに、詐欺の片棒を担がされてるような気分だった。
※ ※ ※
待ち合わせ場所の駅前には十分前に到着した。先方はまだ到着していなかった。
そわそわした様子で白木が尋ねた。
「今日会う人って、どんな方なんですか?」
「真面目な方ですよ。もう引退されましたが、教員をされてました」
日向勇。それが依頼人の名前だ。
彼は人生を教育に捧げたような男だった。日中は高校の教師として働き、日が暮れてからは深夜になるまで毎日、繁華街をパトロールしていた。彼が現役だった頃は中高生の非行や薬物汚染が激しく、それらを取り締まっていた。多くの若者とふれあい、彼らの心の問題を解決させたり、更生までの長い道のりを支えたりした。
七十歳を越える今でも全国で教育問題に関する講演をしており、教育論の書籍を何冊も出版していた。
「すごい人ですね……」
白木は圧倒されたように漏らした。
「そんな方がどうして死のうとしてるんですか? 安楽死をしたがるようには思えませんけど……」
「事情があるんですよ。先入観に繋がるので今は言えません。人に知られるのを嫌がる方もいますから」
わかりました、と白木は元気に返事をする。
それからしばらく待ってると、トコトコと小柄な老人が歩いてきた。
身長は百五十にも満たないほどで、まん丸の眼鏡とチャーミングな口ひげを生やしていた。白髪は後ろに撫でつけており、ダブついたグレーのスーツを着ていた。
彼は二人のそばに来るとにっこり微笑んだ。
白木が首を傾げてると、横で鬼頭がお辞儀をする。そこでようやく彼女も察して、頭を下げた。
「鬼頭君、こんにちは。お嬢さんも、こんにちは」
「急なお願いで申し訳ありませんでした。こちらが新人の白木です」
「うんうん、なるほどね。いいね。可愛らしいお嬢さんだ」
感想を述べた後で、日向ははっと口に手を当てた。
「今のってセクハラ?」
「大丈夫です」
鬼頭がクソ真面目に答えた。
日向はほっと胸をなでおろす。
「よかったよかった。最近はハラスメントにうるさい世の中だからね。参っちゃうよ」
日向は冗談だか本気だかわからないことを言い、白木に名刺を差し出した。小さなスペースには教育関連の組織の役員やら、常任理事やら、特別顧問やら、色んな役職が並んでいた。
白木がちらっと視線を向けると、日向は腰に手を当てて、エッヘンというようにポーズを取った。仰々しい肩書とは裏腹に、お茶目な人柄だった。白木からできたての名刺をもらうと「ご丁寧に、どうもありがとう」とお辞儀をして、宝物を扱うみたいに大切に財布にしまう。それを受け、白木の口元も自然とほころんだ。
三人は近場の喫茶店に入ると飲み物を注文した。
日向のバゲットリストは既に作り終えており、中身も大半が実施済みだった。安楽死する日も決定しており、この先はトラブルでもない限りスケジュールが狂うこともない。だからこそ新人を連れて行ってもいいという判断になったのだ。
「リストをこなすにあたって、お困りになったことはありませんでしたか?」
「全然、大丈夫。鬼頭君が色々手配してくれたから滞りなく進んでるよ。元々、大した願いもないからね」
「何よりです」
それからも二人でリストの進捗状況について話し合った。鬼頭は気が変わったり、もう少し生きる気になったりしてないか尋ねたが、日向はやんわりとそれを断り、穏やかに時間が過ぎていく。
「見せてもらいますか?」
白木がやることもなく置物みたいに座ってるだけだったので、鬼頭は声をかけた。
テーブルにはノートが広げられていた。
バゲットリスト──そこには死ぬ前にしたい事が記されていた。
「はいっ。見せて頂けるなら是非」
日向はゆっくり頷くと、ノートを差し出した。彼女はそれを受け取ると、壊れ物を扱うように慎重に開いていく。
『妻の墓参りに行く』
『息子の件を一段落させる』
『残りの講演会をきっちりこなす』
それ以外にも、色んな子供の面倒を見てること、その子たちの世話を区切りのいいところまではやりたいと書かれている。
項目ごとに詳細がびっしり書き連ねてあり、白木はそれを素早く目で追った。
「意外と地味でしょ」
日向が言った。鬼頭もノートを見ながら言う。
「バンジージャンプとか今からでも入れてみますか? 派手だし人気ありますよ?」
「そんなことしたら心臓止まっちゃうよ」
日向は怯えるようなフリをすると、白木に微笑みかけた。
「気がかりな子の面倒を見るとか、疎遠になってた人に挨拶をするとか、そんなんばっかりでしょ。退屈だよね。若い人が見て喜びそうな内容ではないんじゃない?」
「充実した人生を送った人ほど、リストは簡潔になるものです」
鬼頭がフォローすると、日向はまんざらでもないような顔をする。
「僕は鬼頭君のそういうとこ好きだよ。嬉しいことをいっぱい言ってくれるもの」
「半分くらいはお世辞です」
「ひどいなあ」
話の途中で鬼頭の携帯が鳴った。すみません、と断ってから彼は画面に目をやり、表情を凍り付かせた。
「行っていいよ。こっちは大丈夫」
先回りするように日向が言った。
鬼頭は「申し訳ございません、失礼します」と頭を下げ、白木にも目配せしてから、席を離れた。
※ ※ ※
白木は足早に去る後ろ姿を目で追った。
鬼頭は歩きながらスマホを操作し、どこかに電話をかけていた。扉を開けて外に出る瞬間に横顔が見えた。うんざり、といった感じで、何やら振り回されてるようだった。
「ちょっと面倒くさい人がいるみたい」
白木に説明するように、日向が言う。
「前もああやって掛かってきたことがあるんだ。そのときは僕に気を遣って切ったけど、聞いてみたらワガママな依頼人がいるって教えてくれてね。夜中とか休日とか関係なしに電話が来るみたい。こういう仕事だと色んな人がいるんだろうね。大変そうだったから僕のことは気にしないで、掛け直してってお願いしたよ。今のも多分、同じ人。鬼頭君は顔に出ちゃうから」
白木は目の前の老人の洞察力に舌を巻いた。「そうだったんですね」と返し、期せずして二人になってしまったことに緊張した。
「お嬢さんは会社に入ってどのくらい? 研修期間なんだよね?」
「まだ二週間です」
「若い女性がエンディングプランナーなんて珍しいよね。どうしてこの仕事に?」
白木は鬼頭にしたのと同じ話をした。「人生を良いものにする手伝いがしたくて」と伝えると、日向は顔をほころばせた。
「夢があっていいねえ。若者の特権だ」
白木はどう反応すべきかわからず、愛想笑いを浮かべた。扉のほうをちらっと見たが、都合よく戻ったりはしてくれない。
「何か訊きたいことはある?」
気を遣ったのか、日向が話を振った。
「鬼頭君が戻るまでもう少しかかるみたいだし。聞きたいこととか、あるんじゃない?」
白木は日向に視線を戻した。目が合うと、彼はこっくり頷いた。
「先輩にくっついてる内は自由に話も出来ないからね。邪魔者がいないうちに、気になることをどんどん聞くといいよ。答えられるものなら何でも答えてあげる」
「……後でチクったりしません?」
「ダイジョブ。チクったりしません」
日向には会話を楽しんでいる雰囲気があった。せっかくなので白木もそれに乗ることにした。変に固くなったままでいるより、自然体でお喋りする方がこういう年配の方は喜んでくれる。
「日向さんはどうして死のうと思ったんですか?」
率直な問いを受け止め、日向はふむと珈琲をすすった。
「それ、鬼頭君には訊いてみたの? 教えてくれなかった?」
「人に知られるのを嫌がる依頼人もいるって言われてしまって……」
日向は考える素振りをみせ、なるほどと呟いた。
「鬼頭君らしいね。君を動揺させたくなかったんだと思うよ」
「動揺……ですか?」
「僕が安楽死する理由はお金が目的なの。息子に遺したいから」
日向は淡々と答えた。
「僕は長年働いて、それなりに税金を納めてきたから。いま安楽死すれば、今後十何年かけて使うお金が手元に転がり込むの。諸々合わせて数千万円かな。それが目的で死期を早めるってわけ。あんまり気分のいい話じゃないから、鬼頭さんも隠したんじゃないかな」
ショッキングな話だったが、日向の呑気な口調にかかると何でもないことのように聞こえる。──というか、これはバラしてもいいものだったんだろうか。
色々気になったものの、白木は次の疑問をぶつけてみた。
「息子さんは、病気か何かですか?」
「似たようなものかね。体は元気なんだけど……それ以外がちょっとね」
濁すような言い方から、漠然と事情を察した。精神疾患や知的障害といった単語が頭に浮かび、同時に、さっきのバゲットリストの内容にも納得がいった。
『息子の件を一段落させる』のも『妻の墓参りをする』のも、この辺の事情が絡んでるのだろう。前者はともかく後者はすぐにでも実行可能な内容だ。なのに完了のチェックがついていなかったのは、おそらくは心理的な問題だろうと白木は思った。自分が消えても平気なよう整えた上で、奥さんの墓前に立ちたいのだろう。
(でも──)
まだ肝心なことは隠してる。漠然とそう感じた。
今のやりとりで死亡理由がある程度は説明できるが、なぜ死んでまで遺産を残したいかの答えにはなってない。自分が死んだ後の準備なんて生きててもできるはずだし、死ぬ理由に直結するわけではない。
もっと突っ込んだところを知りたい。
好奇心が頭をもたげた。
「今度、講演を聞きに行ってもいいですか?」
白木が切り出すと、日向は意外そうな顔をする。
「僕はもちろんいいよ。でも急に、どうしたの?」
「もうちょっと日向さんのことを知りたくて」
「ナンパみたいだね」
確かに、と白木も笑った。
「でも鬼頭君は反対しないかな。深入りすると怒られちゃうかもよ?」
「最初に声をかけたのは日向さんですから。責任取って、もうちょっとだけ付き合ってください」
無礼とも取れる発言を、日向はむずがゆそうに受け入れた。
「まあいいでしょう」という言葉に白木がほほ笑むと、秘密を共有したみたいに日向も口元に笑みをたたえた。
そこまで話したところで鬼頭が戻って来た。二人がニコニコしてる姿を怪訝そうに眺めたものの、何かを訊くわけでもなく席に着く。
その後、鬼頭と日向は話の続きを始めた。白木は添え物に戻って、やり取りを眺めていた。
※ ※ ※
「二人で何を話しました?」
日向と別れた後、鬼頭は電車に揺られながら訊いた。
平日の昼間だからか、車内は空いていた。学生やサラリーマンがちらほらいるくらいで、空席が目立った。
二人はドアの付近に立って話していた。
「単なる世間話ですよ。時間もあったので色々と」
「その色々を聞いてるんですよ」
「死ぬ理由です」
白木はさらっと答えた。
「子供にお金を残したいって言ってました。そのために安楽死するって」
鬼頭は口を開いて何か言いかけ、やめた。
言い淀んだのを受けて、今度は白木が訊いた。
「どうして隠したんですか? そんなに珍しい話でもなさそうですけど」
「好ましい理由ではないでしょう。日向さんは健康で生きがいもある人です。それが金銭目的で死ぬだなんて、ロクな死に方じゃない。この仕事をしてれば珍しくないですが、慣れてなければ動揺する人もいます」
「そこまで頭が固くないですよ」
「配慮が必要な話題ではあります」
堅苦しい回答に、白木はほほ笑む。
やり取りをしてると電車が駅に止まり、子供らが大勢入ってくる。皆が黄色い帽子をかぶっていた。小学校の遠足なのか、引率の教員が騒がないようにと声をかけていた。皆で電車に乗るのが楽しいらしく、仲のいいグループで固まって小声でクスクスと笑い合っていた。
その様子を見て、白木は微笑ましそうに口元をほころばせた。
「少し前から増えてるらしいですね」
その言葉に、鬼頭は軽く頷いた。
長らく続いていた少子化に歯止めがかかり、数年前から出生数は着実に上昇していた。今年も前年を上回る出生数が見込まれている。少子化対策が功を奏したのかは不明だが、未来を悲観する人間が減ったのは確かだろう。
「あの子たちは何歳くらいまで生きるんでしょうね」
子供らを眺めながら白木が言う。
「九十歳とか百歳くらいはいくでしょうね」と鬼頭が返すと、
「どんな死に方をするのかな」と彼女はこぼした。ぎょっとするような発言だった。
「自分のことは自分で決めるって普通ですよね。誰と付き合うとか、どんな学校にいってどんな仕事に就くとか、どんな家で暮らすとか。全部自分で決められるのに、少し前まで最期だけは自分で決められなかったんですよね。そうやって人生の最後に泥水を飲まされる人がいた」
会話の方向性が掴めなかったので、鬼頭は頷くにとどめた。
「でも今は選べるようになってる。古いものを変えた人がいて今があるって思うと、すごいですよね。今みたいな社会を途切れさせないように、わたしも頑張りたいです」
「でしたら、死ぬ以外の選択肢を考えるようにしてください」
鬼頭は釘をさすように言った。
「依頼人の中には、死ななくてもいい人が必ずいます。抱えてる問題を死ぬことで解決しようとしていたら、必ず別の選択肢を提示して下さい。死が唯一の解決法であってはいけません。これがこの仕事における最低限のルールです。これを忘れたら、我々の仕事は単なる自殺の手伝いになります」
白木はきょとんとしていたが、話の重要性をすぐに理解したのだろう。「大事ですね」と、はっきり応えてくれた。
電車がカーブに差し掛かり、車両が揺れる。
よろけて踏ん張ったところで、鬼頭の視界に車内モニターが映った。そこでは『たのしい安楽死けいかく』のCMが流れていた。可愛らしいタッチのウサギのマスコットキャラクターが踊っており、『最期のことは自分で決めよう!』とテロップが表示されていた。
ネットでもテレビでも広告を打ちまくってるから認知度は上がってるらしい。ポップな絵柄のキャラクターが親しみやすいと子供からの人気も上々だが、安楽死の実態はほとんど知られてない。
鬼頭は顔を背けると、足元に目をやった。靴が泥で汚れていた。
外回りが多い仕事なので、鬼頭は靴の手入れを欠かさない。毎日ブラシをしていたが、どこかで汚れが付いたのだろう。
水たまりでも踏んだのか、記憶はなかった。
帰ったら汚れを落として綺麗にしようと思ったが、そうしたところで長持ちしないのはわかってる。
光沢が出るまで磨き上げたところで、いずれまた汚れるのだ。
その後、しばらくは穏やかな日々が過ぎた。
白木が鬼頭と同行することはなかったが、黒瀬と一緒に働く彼女は溌溂として見えた。事務仕事を少しずつ覚え、依頼人との面談にも時折ついて行った。事務所内での雑談も加わり、笑顔をのぞかせていた。兆候は何もなかった。
ただ後になって振り返ると、鬼頭に対してだけ多少のぎこちなさはあったのだ。
日向勇との面談から一か月後──。
休日の夜に、白木から鬼頭の電話に着信があった。プライベートで彼女から連絡がくるのは初めてだった。
長いこと鳴っていたが、鬼頭は出なかった。
※ ※ ※
週明けの月曜に、鬼頭と白木は職場で顔を合わせた。
鬼頭は日中、幾度も視線を感じたが気づかない振りをした。
「……お話、よろしいですか?」
声がかかったのは終業後、夜も遅くなってからだ。
窓の向こうは既に暗くなっていた。
事務所には黒瀬もおり、帰り支度をしていた。単なる雑談だと思ったらしく、こちらを気に掛ける様子はなかった。
「何の話ですか?」
「……車がなかったんです。チャイムを鳴らしても、誰も出ませんでした。もし何か知ってることがあれば、教えてください」
「誰の、何の件ですか?」
察しはついたが鬼頭は尋ねた。白木はくぐもった声で「日向さんです」と答えた。
表情は硬く、緊張と畏れが伺えた。今まで秘密にしていたから、声をかけにくかったのだろう。良くないことだと本人も自覚していたはずだ。
鬼頭が無表情のままでいると、白木は深々と頭を下げた。
「……ごめんなさい。日向さんとはあの後、何度か会ってるんです。講演会に行ったり、連絡を取り合ったり、食事して事情を聞いたりして……。でもここ一週間くらい、連絡が取れないんです。何かご存じありませんか?」
「ねえ、何の話してるの?」
黒瀬が声をかけたが、鬼頭は手をあげてそれを抑えた。
「把握はしてますが、連絡先は教えられません」
「……どうしてですか?」
「依頼人からの要望だからです」
その一言で、白木は体をこわばらせた。
それがどういうことなのか瞬時に察したのだろう。少なくとも、いい話が待ち受けてはいないと予想がついたはずだ。
鬼頭も伝えたくはなかったが、こうなった以上、言わないわけにはいかなかった。
「安楽死の前倒しをしてほしいと日向さんから連絡がありました」
一週間前のことだった。鬼頭の携帯に日向から着信があった。時刻は深夜の十二時を越えていた。
エンディングプランナーは仕事柄、依頼人から直に電話がくるのは珍しくない。鬼頭は深夜も早朝でも対応するようにしていたが、日向が事務所でなく携帯に直接かけてくるのは初めてだった。
”息子の件”は鬼頭も把握していた。
急を要する何かがあったのかと危惧したが、日向の態度は冷静そのものだった。
遅い時間に電話をしたことを詫びると、彼は切り出した。
「決行日の前倒しって、お願いできる?」
あまりに急な話だったので鬼頭は理由を尋ねた。
そこで初めて、白木との件を聞かされた。
二人が秘密裏に会っていたこと。彼女が日向の講演会に参加し、その後もやり取りを重ねて、家にまで招いて何度か会ってると。
そして──。
「安楽死の件を見直すよう言われたから、決心が鈍らない内に早めたくてね」
鬼頭は青ざめ、頭を下げて謝罪した。依頼人に見えるはずもなかったが、そうせずにはいられなかった。
事態を考えれば激昂してもいいはずなのに、日向はあくまで穏やかだった。
「そんなに謝らなくていいよ。ちょっかい出したのは僕のほうだから。何もしなければ彼女は深入りしなかったと思うし、あまり責めないでやって」
その要望を聞くわけにはいかなかった。叱責や処罰が必要だと鬼頭は伝えたが、この件に関しては、日向も頑として譲らなかった。根負けした鬼頭は仕方なく半分だけ折れた。白木のほうから口を出さなければ追及はしないと約束をした。
それ以降、日向は白木との連絡を絶った。
彼女がそれで事情を察して手を引くなら、鬼頭も目をつぶるつもりだった。
だが、そうはならなかった。
「我々の仕事は依頼人に"満足のいく終わり"を提供することです」
鬼頭はそう前置きしたうえで続けた。
「そのために要望を聞き、予算や日程を考え、依頼人の人生が上向くよう手伝いをします。ときに内面に立ち入るようなこともありますし、トラブルもある程度は起こります。ですが我々が関与することで余命を縮めるようなことは、あってはなりません。残り少ない時間を、我々が関わることで奪ってはならないんです。それは理解してますね?」
はい、と白木は俯いたまま答えた。かすれて、消え入りそうな声だった。
「なぜ日向さんにそこまで深入りしたんですか」
白木はすぐには答えなかった。
四肢を固くして彼女が立ち尽くしてると、黒瀬がそばに来て手を引いた。応接用のソファーに座らせると、湯を沸かし、温かいココアを入れてやる。飲みやすいよう牛乳を後から少量注ぎ、マグカップをテーブルに置く。
「ゆっくりでいいから」
優しく声をかけると、白木が落ち着くのを待つ。
白木は大きなカップを両手で包み、一口すする。ほうっと息をつき、言葉を発した。
「……日向さんが遺産を残したいって言ったとき、はじめは、息子さんが病気だと思っていたんです。でもよく考えたら、それって死ぬ理由にはならないって気付いて、気になったんです。だから講演会に行って、終わった後に声をかけて詳しいことを教えてもらったんです。
病気では、ありませんでした。……引きこもりの息子さんが二階で暮らしてるって聞いて……」
──死なせるべきではないと思ったんです。
白木はそう言い、顔をあげた。瞳が涙で潤んでいた。
震える声で彼女は言った。
「死ぬ以外の選択を常に考え、必要な場合に提示する。それが私たちの最低限のルールだと教えてもらいました。モラルがなければ、わたしたちの仕事は、単なる自殺の手伝いになるって。だから、止めるべきだとわたしは思ったんです。……鬼頭さんは解決すべきだとは思わなかったんですか?」
「独断で動いた理由は?」
鬼頭は問いを返した。
「納得いかないなら相談する手もあったはずです。自分の独善だとわかっていたから単独行動を取ったのではないですか?」
「……違います」
「では、なぜ」
白木は躊躇いがちに答えた。
「……止められるかもしれなかったからです。会社の利益のために、鬼頭さんが見殺しにするかもしれないと思ったら、相談なんてできませんでした」
「ちょっと白木」
黒瀬がため息交じりに口を挟んだ。
「本気で言ってるの? そこまで信用できない?」
白木は沈黙で返した。肯定という意味だった。
状況を考えれば仕方がないのだろうと鬼頭は思った。同僚の人間性など、入ったばかりでわかるはずがない。この状況だけを見れば不信に思う気持ちもわかる。信用のない状態で周囲に助けを求められるかと言えば難しいだろう。
だが──。
「解決させられると思いますか?」
感情を排して、鬼頭は尋ねた。
「白木さんは息子さんの状況をどこまで把握してますか? 何年引きこもっているのか。部屋でどういう風に過ごしてきたのか。何を考えてるのか。家族関係はどうか。外に出たいと思っているのか。白木さんは引きこもりの息子さんとは会いましたか? 解決しようとした場合、どのくらいの年数や金銭が必要か把握してますか?」
「……自分なりに調べはしました」
「なるほど。では容易に解決させられると思いましたか?」
白木は唇を噛み、別のことを返した。
「息子さんは安楽死の件を知ってるんでしょうか」
鬼頭が言葉に詰まると、白木は勢いづいたように続けた。
「知らないんですよね。こんな死に方するなんて知ってたら止めるに決まってますから。だったら道徳上の問題があります。周囲の人が悲しむなら、安楽死なんてやるべきじゃありません。
鬼頭さんが言うように難しいのはわかってます。だとしても知らせれば何か変わるかもしれません。きっかけくらいにはなるはずです。だったら試すべきです。全員が幸せになれる方法を」
「鬼頭君」
黒瀬が声をかけた。
鬼頭は目配せすると頷き合う。言葉のやり取りはなかったが、それで十分だった。
「事実関係を確認しておきましょうか」
鬼頭は前置きをした上で、つづけた。
「日向さんは安楽死の申請をするにあたり、病院で全身くまなく検査をしています。適用除外に引っ掛かれば、先には進めませんから。
その際、MRIで脳梗塞の跡が幾つか見つかってます。無症状で、本人も気付いてなかったようですが、一般の人に比べて今後、認知症や脳梗塞が発生するリスクが高いと医者から言われたそうです」
鬼頭は咳払いをして、言葉を継いだ。
「もし我々がここで断って、彼が病に倒れたらどうなります? 入院して麻痺などの障害が残れば、死ぬこともできず、自由に動かせる資金もなくなります。引きこもりを脱する方法もないまま、介護が必要になったら、それこそ最悪です。
安楽死が次善の解決策なのは重々承知しています。ベストではありませんが、最悪は避けられます。要は方針の違いなんです。最善を追求するか、最悪を避けるか。依頼人が望んでるのは後者です」
「……その望みは、受け入れるべきですか? 説得すべきだとは思いませんでしたか?」
「必要ありません」
でも、と白木は声を張り上げた。
「依頼人はまだ健康で、どこも悪くありません。病気になって倒れるかもしれなくても、それが理由で死ななきゃいけないなんておかしいです。健康に問題が生じて、子供が引きこもりのままでも、行政や福祉でサポートすればいいじゃないですか。最悪であってもセーフティーネットはあるんです。似たような状況の人なんて幾らでもいるはずです。鬼頭さんはその人たちまで死んだほうがいいと思うんですか?」
「暴論です。個別の死を、全体論に置き換えないで下さい」
「死ぬ以外の解決が残ってるって話です」
「依頼人がそれを望んでいない」
「鬼頭さんは死にたいって言ってきたら誰でも殺すんですか?」
「いま話してるのは日向さんの件だけです」
空気が険悪になったのを見かねて、黒木が手を叩いた。
澱んだ室内に乾いた音が響き渡る。
「二人とも熱くなりすぎ。落ち着いて。感情のぶつけ合いになってるから」
黒瀬は換気扇の下に行くと、煙草を抜いて火をつける。ゆっくりと時間をかけて一服すると大量の煙を吐き出した。
「白木は依頼人が風俗で全財産使いたいって言ったらどうする?」
「は?」
唐突な問いに、声が裏返る。
白木の反応に構わず、黒瀬は続ける。
「ソープとかピンサロとか、そーゆー感じの卑猥でヤラしいやつ。どう? 説得する? 風俗王に俺はなるって依頼人が言ってきたら、怒る? そんなのは間違ってるって。ブランドものを買うとか、高級車とかだったら、どう?」
「……なんの話です?」
「そういう依頼人は結構いるのよ。性風俗とか贅沢品で有り金全部使いたいって人。もうちょっとマシな使い方しろよって思うでしょ? わたしも昔、びっくりして固まってたら担当を替えられたの。『お前みたいな若い女に男のことは理解できない』って。クソみたいな話でしょ? 山田君が最終的にやったけど、アイツってこういう客をさばくのがほんっっとに上手いのよね。風俗とか国内外含めてツテがあるし、相手に話を合わせるのも得意だし。下世話な話が通じるのよ。担当外れてから一度電話を受けたんだけど、ものすごく上機嫌だった。後で聞いたらその人は色んなところと揉めて、事務所を転々としてたみたい。
で……ちょっと脱線しちゃったけどさ、わたしが教えてほしいのは、日向さんが本当に生きたいと思ってるかってこと。白木の押し付けになってない?」
「……押し付けてはいけませんか」
「いけないよ。だって他人だもん。依頼人は別にここじゃなくてもいいんだよ。鬱陶しいって思ったら、自分を受け入れてくれそうな事務所を探して、そこで死ねばいい。それとも白木はそれもやめさせて、死ぬのを止めるの? 家族でも友達でもないのに、どのツラさげてそんなことをするの?」
白木は顔を歪め、何とか声を絞り出した。
「……わたしの言うことが間違ってましたか?」
「そんなことないと思うよ。白木の気持ちはよくわかる。間違って死なせたくないんだよね。でも失敗や間違いって主観的だから、正解がないんだ。だからこそルールがあって、一定の線引きをしてるの。”死ぬべきでない人”は、適用除外で選別してる」
適用除外──法的に安楽死を認められない者の条目だ。
『1 生活保護を受けている者。
2 五十歳未満である者。
3 日本国籍を有さない者。
4 判断能力の欠如した者。
5 別に定める特定の疾患を抱えている者。』
「"弱い人"は死ねないように保護されてるの。依頼してくるのは自分の人生を自分で決められる"強い人"たちだけ。彼らが間違いを犯すのは国が容認してるの。そう捉えれば、少しは楽になるんじゃないかな」
「……後悔はないんですか? 今までの仕事で、間違ってたりとか。失敗、みたいな……」
「死に方に正しいも何もないよ」
黒瀬は諭すように答えた。
「確かにもっと生きれたって人はいた。もっと幸せになれる道もあっただろうなって思ったこともある。でもみんな最後は納得した顔でサヨナラしてたから。この死に方でも幸せだったって、顔見ればわかるよ。笑って死ねればいい人生だったって言えるんじゃない? 感覚的な話になっちゃうけどさ」
反論はなかった。代わりに、鼻をすする音がした。
黒瀬は白木の鞄を渡してやると、彼女の肩を慰めるように叩く。何とか立ち上がらせると、扉のほうへ一緒に歩いていく。
「鬼頭君は残ってて。駅まで送るから、戻ったらちょっと話そう」
黒瀬はそう言って出て行った。
鬼頭は頭を抱え、大きく息を吐いた。残されたカップを洗い、煙草を吸い、ぼうっと過ごした。手持無沙汰だったので部屋の隅に行くと、段ボールが積み重なった一角から、一つを開ける。中に入ってたのは紙袋だった。そこには引きこもりに関する書籍や、社会復帰をサポートする団体のパンフレットが詰め込まれていた。
鬼頭はソファーに座るとそれらをパラパラめくった。幾つもの付箋が張られ、小さな文字でたくさんの書き込みやマーカーが引かれていた。引きこもりの原因や本人の心理状況、年数別の改善策、接し方のコツ。パンフレットには直接問い合わせただろう、サポート可能な最大期間や料金などが記されていた。筆圧が強いのか、指でなぞると凹凸が感じられた。
そうして時間を潰してると、黒瀬が戻ってきた。鬼頭は頭をさげた。
「お疲れ様です。巻き込んでしまって、すみませんでした」
「気にしないで。ってか何それ?」
これらは日向のために白木が用意したものだった。回収を頼まれたので取りに行ったが、捨てるのも忍びないので段ボールにしまって隠しておいたのだ。
黒瀬も一冊手に取るとざっと目を通す。膨大な時間と労力を注いだのが一目でわかる物品だった。
黒瀬は本をテーブルに置くと、紙袋の中を改めて見る。するといくつかの書籍やパンフレットにバツがついてるのに気付いた。
「なにこれ? マジックで印がついてるけど」
「それは詐欺団体や評判が悪いところのやつです。事務所で置き場を考えてたら、山田さんが勝手にチェックし始めました。半数以上は詐欺だって酒飲みながら笑ってましたよ」
「アイツさあ……」
呆れ半分、怒り半分といった具合で黒瀬がぼやいた。
「努力の空回りが気になったんでしょうね。山田さんには団体選びを手伝ってもらったので、宗教じみたところや暴力団体はわかるようになってましたから」
「だとしても。人の努力を茶化すのはどうなのって話でしょ」
納得いかない様子だったが、これ以上、この話題を引きずるつもりはないのだろう。黒瀬は冷蔵庫からビールを出すとプルタブを押し開け、軽くすすった。鬼頭の分も取り出すと、つまみになりそうな小袋の菓子と一緒にテーブルに置く。
「さっきの話の続きしよっか。詳しく知らないから教えてくれる?」
難しい話だったので、どう説明しようかと悩んでいたところだ。酒が入れば少しは話しやすくなるだろう。黒瀬の気遣いがありがたかった。
缶の蓋を開けて勢いよくあおると、鬼頭は日向勇について話し始めた。彼がどんな人生を送り、どんな経緯で安楽死に至ったかを。
黒瀬は相槌を打ったり、時折質問を交えながら静かに話を聞いてくれた。
「子供は安楽死の件、知ってるの?」
ひと段落すると、彼女が訊いた。
来るとわかってる質問だったので、鬼頭は「もちろん」と答えた。
「依頼人には渋られましたよ。刺激して荒れたことが前にあったので、下手に近づかせたくなかったみたいです。ただこれに関しては譲れないので、何とかお願いしました。事後のトラブルに繋がりかねないからと言うと仕方なく許可してくれました」
「直接話したの?」
「できたと思います?」
「まさか」
黒瀬は鼻で笑い、鬼頭も頷いた。
「ニュアンスを拾いたいので直接が理想でしたし、扉越しに語りかけたりしましたがね。結局、やり取り用のアドレスを聞いて、それで会話しました。と言っても、ほとんど一方通行でしたが」
長い文章だと読まれない可能性が高かったので、内容は極力シンプルにした。
『きみの父親が死のうとしている。』
『死ねばまとまったお金が手に入る。』
『きみはどう思う。止めようと思うか──。』
「息子はなんて言ったの?」
「『好きにしてください。どうでもいい。』」
黒瀬は口元を歪めて笑った。
「そんなもんよね。答えようがないし」
鬼頭も同意見だった。言うこと全てが本心というのはありえない。会話が成立してからがスタートだった。
息子には安楽死を実行するまでの進捗を伝えつつ、何か思うところはないかと確認を続けた。メール越しでも、扉越しでも。
同時進行で親戚や近所の人たちにもお別れの報告をした。子供を残して死ぬことに反対はされなかったが、引きこもりの件に関して思わぬ情報を得た。
「息子の状態を悪化させたのは父親なんですよ」
鬼頭はナッツをつまみながら語った。
「数十年前だと引きこもりなんて身内の恥みたいな感覚でしたから、日向さんも強引なやり方で解決しようとしたようです。子供に手を上げたり無理に外に出させたり、評判の悪い業者に任せたり……。自殺未遂で救急車まで呼んだところで、解決は諦めたみたいです。基本的な信頼関係が損なわれてるので、父親からのアプローチには意味がありません。距離を取ることが、互いが傷つかずに済む一番の方法だとわかってるんだと思いますよ。精神的にも、物理的な意味でも」
話しながら、鬼頭は白木のことを考えた。
家族の献身や支えによって、息子が自信を取り戻し、引きこもりから脱却する。
それが彼女の描いた理想だろうが、父親の存在がマイナスにしかならない場合、下手に踏み込めば最悪の結末を迎えるかもしれない。
それに加え、決め手となったのが金銭的な問題だった。
鬼頭は日向の死後も息子が今まで通りの生活ができるよう、独居の引きこもりを扱ってる団体に繋いで、ハウスキーパーに定期的に来てもらうよう手配し、日々の生活に困らないようにした。
かつ依頼人が息子の社会復帰を望んでいたため、それを請け負う団体を探した。親類が全員関りを拒んだので、それでも引き受けてくれるところを探さなければならなかった。詳しい期間はわからないが長期にわたるのは確実だったし、金額もかなりの額だった。
財産管理を依頼した団体に見積もりを頼んだところ、遺産でぎりぎり足りるかというラインだった。
「なるほどね」
相槌を打ち、黒瀬は納得したように呟いた。
「つまりどう頑張っても両方は取れなかったわけか。親子関係としても、経済的にも」
ええ、と鬼頭は疲れた顔で頷いた。
「依頼人は全部わかっていたんですよ。引きこもりを脱するにはカネがいる。だから安楽死を選択する。……振り返ってみれば、シンプルな話です。自分の命と息子の人生がトレードオフになってて、彼は後者を選択した。それだけです」
黒瀬は話を聞き終えると、大きく息を吐き出した。
「色々腑に落ちなかったけど、それなら仕方ないか。正直疑問だったのよ。いつもなら鬼頭君のほうこそ、こういう死に方には反対するから」
「キャンセルの話は時折しましたよ。反応はありませんでしたが」
「その辺の話を白木ちゃんにすればよかったじゃない。引きこもりの件だって、詳しく知らせてれば口論にならずに済んだでしょ?」
「依頼人が隠したことを、勝手に明かすのは駄目でしょう」
はーっと心底呆れたような深いため息が返って来た。
「鬼頭君って変なところでアタマ固いよね。身内の人間なんだし、いいじゃない」
「本人に許可を取ってません」
「……だったら私に話すのもダメでしょ」
冷たい発言に鬼頭はたじろいだ。
黒瀬はにんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「本当はどうして?」
「あんな子に言えるわけないでしょう。……知れば傷つきますよ」
「なにそれ」
咎めるような視線が刺さったので、鬼頭は渋々話した。
白木は、家族なら死ぬのを止めるはずだと思い込んでいた。それを当然だと思うような環境で育ってきた。本当のことを知れば傷つくはずだし、日向勇の名誉の問題もある。白木は彼に対して尊敬の念を抱いていた。鬼頭が過去を洗いざらい話せばそれは失われるし、ショックを受ける姿など、あえて見たくはなかった。
「お優しいね。どっちが本人のためになるかもわからないのに」
黒瀬は投げやりに言った。
彼女はちょうど酒を飲み切ったところだった。鬼頭はほんのり顔が赤くなってたが、黒瀬は素面そのものに見えた。
鬼頭は片付けをする背中に向かって訊いた。
「白木さんはどうだと思います? その、今後という意味で」
「納得はしてなかったよ。フォローはしたけど後は本人次第じゃない? 辞めてもあの子なら次がいくらでも見つかるでしょ。この仕事を続けるのが本人にとって良いとも限らないし」
「それは……同感です」
馬鹿正直な返答を、黒瀬は鼻で笑った。
「ロクでもない仕事よね。何人見送ったかわかんない」
じゃあね、と言い残すと黒瀬は部屋を後にした。
鬼頭も帰ろうと思ったが、酒もつまみもまだ残っていた。静まり返った部屋にいると息が詰まりそうだったので、テレビをつける。能天気なバラエティー番組でもやってればと思ったが、映ったのは別の番組だった。
鬼頭はリモコンに触れたまま画面に見入った。放送されてたのは、安楽死のドキュメンタリーだった。
『経済対策としての安楽死制度』
鬼頭は画面を凝視した。
テロップが表示され、画面には軍服を着た不愛想な男が映し出される。エルネスト・バラゲール。この独裁者こそが全ての発端だった。
はじまりは2000年代初頭に起きた経済不況だった──。
百年に一度の金融危機が米国で発生し、その影響は様々な国に飛び火した。可処分所得の減少により、外貨の獲得を観光に頼っていた国々は打撃を受けた。
こうした中、とある独裁国家で一風変わった経済対策が考え出された。
それが安楽死ツーリズムだった。
希望者はかの国へ行って、医療従事者によるサポートの元、観光や娯楽を楽しんだ後で安楽死させてもらう。ツアーの条件として、遺産の一部を寄付することが求められた。金銭を払って死にに行くという奇妙な旅だったが一定の需要はあった。
難病を抱えていたり癌などで死期が迫ってる人間は、命を終わらせる方法を常に探している。
緩和ケアやセデーション(終末期鎮静)が普及してない国は多く、安楽死が認められている国家も多くはなかった。仮に制度があっても、安楽死が認められる条件やハードルは厳しく、確実に死ねる方法など存在しなかった。
そうした状況下で救いとなったのが、かの国の安楽死ツーリズムだった。
そこでは安楽死するための条件は定められておらず、希望者は一定の資産があれば誰でも死ぬことができた。
自分の死期を決めたがるような人間は、自立した者が多い。そうした人々はある程度の資産を築いており、母国への抗議の意味でも、遺産の全てを寄付することが多かった。
かくして膨大な数の人が海の向こうで死に、結果として多額の資産が流出した。
これをよく思わない国は多かった。
バラゲールは国際的な非難を浴び、国家は経済制裁を受けたものの、次第に他の国々も独自の安楽死制度を導入するようになった。自国で死ねない資産家が他国で亡くなるケースが増えた頃から、先進各国でも制度の導入を求めるが大きくなった。
死を望む人間は、海外に行けば簡単に死ねる。
他国で死ねば資産の流出を招き、自国で死ねばそれが起きない。
こうした状況下で安楽死の是非を問う選挙が次々と行われ、主に若者からの支持を受けた推進派の政治家が増えていった。
安楽死は単なる自殺だという声や、緩和ケアやセデーションの普及・拡充を図るべきだという指摘は当然上がった。宗教的に受け入れられない者や、倫理的な観点から拒否反応を示す者も多かった。
多くの議論がなされたが、経済的な理由が決め手となった。
他国への資産流出を防ぐには、対抗策としての安楽死制度がどうしても必要だった。
やがて“人道的”な国々が国際的なガイドラインを定めると、その枠内で死ぬことが求められた。
自死が可能になったことで高齢者が”老後”のために財産を貯め込むことはなくなった。延命治療を拒む割合が増え、医療費の伸びも抑えられた。経済が循環するようになり、将来を悲観する若年層も減少した。
だが安楽死制度は命を決める権利として広まったわけではない。経済的な要因で導入され、受け入れる下地は不十分なままだった。
その結果、多くの人々は他者の死を受け入れられなかった。
本人がどれだけ納得してても善意で止める人間は現れたし、どう折り合いをつけるかの悩みも絶えなかった。人の死が経済的な利益と結びつき、制約はあるにせよ、命を換金する行為が法で認められたのだ。歪みが出るのは当然だったし、誰かが間に立って調整をしなければならなかった。
初期にこうした役割を担った者が後にエンディングプランナーと呼ばれるようになったわけだが、彼らは安楽死の暗部をよく理解していた。
だからこそ安楽死を語る際に、彼らは当事者の幸福や納得といったものを重視した。耳障りのいい言葉を使って、周囲や自分らに言い聞かせた。
自分らの仕事は、人生を豊かで幸福なものにすることだと。
そう信じることが唯一、人殺しの免罪符になりうるから。
「……クソが」
ドキュメンタリーは終わり、気付いたらバラエティー番組に切り替わっていた。
鬼頭はテレビを消すと、缶やゴミを捨てて、事務所を後にした。
※ ※ ※
期待はしていなかった。
昨夜、黒瀬が話したように、鬼頭らは何人もの新人を見送った。明らかに向いてない者もいれば惜しいと思える者もいた。思いとどまるよう声をかけたこともあったが、試みの大半は失敗に終わった。新人教育に費やした労力や時間が無駄になっても、さほど気にしないようになっていた。今まで通りに戻るだけで大したことではない、と自分に言い聞かせていた。
と言っても落ち込んでないわけではなく、それなりに凹みながら出社して、事務所の扉を開け──鬼頭は立ち尽くした。
スーツ姿の白木が、雑巾片手にせわしなく掃除をしていた。
「おはようございます!」
鬼頭を見ると彼女は笑顔で挨拶した。元気で、というか上機嫌そうに見えた。
戸惑いつつデスクに向かうと小さな紙袋が置いてあった。小綺麗で、見るからに女性向けの包装だった。昨日の夜には無かったはずのものだ。
「……これが何か、ご存じですか?」
鬼頭が訊くと、白木が小走りで駆け寄った。すうっと息を吸い込むと、彼女は深々と頭を下げた。
「昨日は生意気なことを言ってすみませんでした! 日向さんの件も、暴走してしまって本当にごめんなさい!」
あまりの勢いに鬼頭は気圧されてしまった。
「わたしは大丈夫ですが……」
鬼頭がかろうじてそれだけ答えると、白木は顔をあげて、ほっとしたように笑った。
「デスクのそれ、よかったら食べてください。甘いのがお嫌いでなければ」
戸惑いがいよいよピークに達し、誰かに助けを求めようとしたときだった。事務所のドアが開き、黒瀬が出社した。
鬼頭の熱視線を受けたものの彼女は無視して自分のデスクに向かい、白木に挨拶をする。鬼頭は何か説明があるのかと思ったものの、天気がどうとか昨日のドラマがどうとか、どうでもいい話ばかりしてたので耐えきれなくなった。
黒瀬の元に行くと、「ちょっと……」と言って手を引き、外に出ていく。
二人して階下まで降りると、黒瀬がまんざらでもなさそうに笑った。
「ちょっと鬼頭君。強引なんだから」
明らかにふざけてたので、鬼頭は乗らずに仏頂面で尋ねた。
「……白木さんが随分、上機嫌ですが。どういうことですか」
「全部話した」
黒瀬はあっけらかんと言った。
困惑気味の鬼頭に対し、彼女はゆったりした動作で煙草に火をつけ、もったいつけるように言う。
「わたし考えたのよ。あの子が辞めたら他にどんな人が入ってくるのかなーって。人が足りないって騒げば社長が誰かしら入れるだろうけど、それがあの子よりマシな可能性って低いのよ。プライドと態度ばっかりデカい使えないオッサンが来たら、鬼頭君が面倒見れるの? 逆に仕事が増えるなんてオチになるなら、あの子を育てたほうが絶対いいでしょ。やる気があって、仕事の覚えも早いんだから」
「そうかもしれませんが……」
鬼頭は苦しげに声を出した。
「辞めたほうが本人にとってはプラスかもしれませんよ。感情移入のし過ぎで、今後いつまたトラブルに巻き込まれないとも限らない。今回はたまたま穏便に済ませられましたが──」
「そしたら私たちがフォローすればいいじゃない」
当然のように言われ、鬼頭は黙るしかなかった。
「そりゃ優秀で気遣いができて、面倒ごとを一切起こさない新人が入ってくれれば最高だけど。そんな子が万一、うちに来たところでどうなるか、鬼頭君ならわかるでしょ?」
「……さっさとよそに転職するでしょうね」
正解だったらしく、黒瀬は明後日の方向に視線を投げた。
「だったら今いる人を育てるのが一番でしょ。無いものねだりなんかしてないで、今できることをやっていかないと」
なおも煮え切らない態度の鬼頭に、黒瀬は真面目な口調で訊いた。
「あの子じゃ勤まらないと思う?」
「いいえ」
鬼頭は躊躇なく答えた。
それでようやく満足したのだろう。黒瀬は嬉しそうに笑うと階段を上っていく。
その後を追って、鬼頭も事務所へと戻っていった。




