【case2】安い命
洗面所の水が勢いよく流れていた。水道水が音を立てて排水口に吸い込まれるのを、鬼頭は虚ろな目で眺めていた。
視線を上に向けると、鏡には疲れた顔が映っていた。肌は青白く、眼窩はくぼみ、つつけば今にも倒れそうだ。典型的な二日酔いだった。ひどい顔が、古ぼけた木造アパートによく似合っている。
鏡の前でぼーっとしてると、背後からほのかに味噌汁の香りが漂ってくる。
ちらっと後ろを向くと、キッチンには若い女が立っていた。金髪のショートカットで、色の薄いデニムに黒いTシャツというラフな服装だった。目覚めると彼女は既に料理をしており、鬼頭が起きたのに気付くと素っ気なく挨拶をした。鬼頭はろくに返事もできなかった。
脂ぎった顔を洗い、髭を剃って歯ブラシを口に突っ込む。
雑に歯を磨いてると、棚に残った歯ブラシに凝視されてるような錯覚に陥る。乳液やクリームや美容液なども一斉に抗議をしていた。
『あの女は誰?』と──。
口をゆすぎ、深いため息をつく。こっちが知りたかった。
頭痛を我慢し、鬼頭は昨晩のことを思い出す。
昨日はツイてない一日だった。新規の相談が二件入っていたものの、どちらもロクな相手じゃなかった。
一件目は若い男で、ウェブ上で申し込まれた年齢は六十歳だったが、喫茶店に現れたのはパーカーを着た若者だった。代理が来るケースもあるので話を聞くと、自分はフリーターで一人暮らしをしてるが、アルバイトを首になって金がないから死にたいという話を延々聞かされた。
二件目は就労期限の切れたビザを持ったアジア系の外国人が五人も現れ、自分たちは死ぬしかないのかと泣き出したので、相談する相手を間違ってると二時間かけて説得した。
それらが終わって事務所に戻ったら役所から連絡があり、書類の不備がいくつも見つかったから早めに修正してほしいと言われた。
ストレスでイラついてたところで山田に飲みに誘われたので、つい行ってしまった。居酒屋をハシゴして、べろべろになるまで酔っぱらい、道端で盛大に吐きながら家に帰った。ベッドに飛び込みたくなるのを我慢してシャワーを済ませ、水をたらふく飲んでからベッドに倒れ込んだ。
そして今、自宅の安アパートに女がいる。
見知らぬ女と知り合うような出来事はなかったはずだ。
ではこの女は何者だろう、と鬼頭は考える。酔って鍵をかけ忘れたから泥棒が入ったのだろうか。だがその泥棒が親切に朝食を作ってくれてるというのはおかしな話である。
鬼頭の混乱をよそに炊飯器が音を立て、米が炊きあがったことを知らせる。再度振り返ると、女は戸棚から食器を出して、ご飯をよそうところだった。
視線を感じたのか、彼女が鬼頭のほうを向く。
おそろしく不機嫌そうな目で睨まれた。
「準備ができたら座って」
低い声で女は告げた。
鬼頭は最低限の身支度を整えると席に着き、改めて観察した。
女はやはり若く、二十歳くらいに見えた。シャープな顔立ちで、愛嬌とは縁がなさそうだ。鬼頭が起きる前に化粧を直したのか、メイクが崩れた様子はない。家事が得意そうには見えなかったが、朝食を作る姿にぎこちなさはなかった。
女は年代物のテーブルを拭くと、箸や食器を置いていく。炊きたての白米に味噌汁、卵焼き、ほうれん草のお浸し、納豆などが二人分、並べられる。
彼女は自分も席に着くと、両手を合わせて「いただきます」をする。味噌汁とすすってごはんを食べて、出来栄えに満足するように頷いた。
鬼頭はその様子を注視したまま動けなかった。料理に毒が入ってるのを疑ったわけではない。そんなものより着目すべきものが目の前にあった。
包丁が、テーブルに、置かれていたのだ。切っ先を鬼頭のほうに向けて。
「……勝手に作ってごめん。おなかすいてたから」
女は見当違いの謝罪をする。鬼頭は尋ねた。
「あんた、誰ですか?」
その一言がスイッチだった。
女は箸を置き、鋭い目つきで敵意をあらわにした。
「あんたが殺した男の娘だよ」
それを聞き、鬼頭はようやく状況を把握できた。
エンディングプランナーは人が死ぬのを手伝う仕事であり、あちこちから恨みを買いやすい。依頼人の知人や親族に報復される事件が、年に数件は発生している。
順番が回ってきたのかもしれないと、鬼頭は妙に冷静に考えた。
※ ※ ※
朝の事務所は煙草の煙でうっすら白みがかっていた。
ソファーで寝ていた山田は緩慢な動きでテーブルのリモコンに手を伸ばし、テレビの電源をつける。ワイドショー特有の『デデン』という効果音が流れた。
画面の上部には『悲惨! 殺された死神!』とテロップが表示されていた。
どこかでエンディングプランナーが殺害されたらしく、政治家くずれのタレントや毒舌が売りの司会者が、安楽死の是非について真面目ぶって議論していた。
寝ぼけ眼で山田がテレビを見てると、鍵を開ける音がして黒瀬が入ってくる。
次々に照明がつけられ、山田は眩しそうに目を細めた。
「うっわ……また事務所に泊ったの?」
「鬼頭さんと飲んでたら帰るの面倒くさくなっちゃって。人のカネで飲む酒はうまいねえ」
へらへら答える姿に「クズだねえ」と黒瀬はほほ笑む。
換気のために事務所の窓を開けながら、彼女も一本咥えて火をつける。
「鬼頭君がまだ来てないなんて珍しいね。朝一で予定入ってるとか連絡あったっけ?」
「わかんなーい。吐くまで飲んでたから家でまだ寝てんじゃなーい?」
「山田君じゃないんだから」
部屋中の窓を全開にして換気扇を回すと、黒瀬は珈琲を淹れるためにお湯を沸かす。待ってる間に何気なくテレビに目をやり、顔をしかめた。
「うっわー。悲惨ね。19カ所もメッタ刺しだって。チーズじゃないんだし、そんなに穴だらけにしてどうすんのよ。しかもエンディングプランナーだって? ひー。かわいそう」
まるで他人事のように騒ぎ立てる。
「何人も殺してるから、バチでも当たったのかねー」
「そんな馬鹿な話ってある? わたしたちは本人が死にたいっていうのを手伝ってるだけなのに」
口を尖らせて黒瀬が言うと、『凄惨! 死神の末路!』と新しいテロップが表示される。
安楽死が普及した世界にあって、ワイドショーはこの手の話題を取り上げることが多かった。刺激的なニュースは視聴率を稼げるので、ネタがないときに便利なのだろう。
「にしても、死神ねえ。こういう取り上げ方するから、いつまで経っても業界の評判が悪いままなのよ」
二人してテレビを見つつ、示し合わせたように鬼頭のデスクのほうを向いた。
「まさか鬼頭くん、誰かに殺されてるんじゃない?」
「まっさかー」
緊張感なく駄弁ってると、事務所の扉が開く。鬼頭がいつものスーツ姿で現れたので、二人は安心したように笑った。
「おはよう鬼頭くん。今さっき殺されちゃったんじゃないかって噂してたところよ」
「……生きてますよ」
疲れ切った様子で鬼頭は答える。テレビ画面をちらっと見ると、物々しいテロップを恨めしそうに睨みつける。
「鬼頭くん、昨日飲みすぎたらしいけど大丈夫? 顔色悪くない?」
「全くもって大丈夫ではありません」
デスクへと向かい、引き出しを漁りながら鬼頭は告げる。
「それとちょっと急用ができまして、今日は休ませて頂きます。……いや、出張扱いでお願いします」
「出張ってー? そんな用事あったっけー?」
山田が間延びした声で言いながらソファーから起きて、くわっとあくびをする。そこで入口に立つ、若い女に気付いた。黒瀬もその視線を追いかけ、女を発見する。
金髪の若い女──ショートカットで、群れるのが嫌いな野良猫みたいな雰囲気の子だった。肩にトートバッグをかけ、扉の向こうから鬼頭を睨み付けている。
「あれ誰? 怖い顔してるけど鬼頭くん何かしたの?」
「……起きたら家にいました。素性は知りません」
鬼頭が呟くと、山田が色めき立った。
「鬼頭さん、あれからナンパして帰ったの? あんなに酔っぱらってたのに?」
渋い顔の鬼頭に、次は黒瀬が静かに言う。
「こんなところまで一緒に来たってことは、避妊に失敗でもしたのかな? アフターピルで済めばいいけど、万一の時は口の固い産婦人科を紹介しようか?」
「そっちかあ。若そうだけど条例とか大丈夫っすか? 鬼頭さん、変なとこで暴走するからなー」
下品な同僚を「ボケどもが……」と小声で罵ったところで、鬼頭は目当ての物を探し当てる。鞄にしまうと、咳払いして告げた。
「……仕事で、これから席を外します。可能なら今日中に戻りますが、無理なら明日は有休を使います。あとあれは依頼人の親族だそうなので、クソみたいな発言は控えてください」
不機嫌さが声から滲んでいたが、黒瀬も山田も大して気にせず「はーい」と間延びした返事をする。
鬼頭はやつれた様子でドアまで行くと、山田のほうを振り返って告げた。
「……後で連絡をするので調べ物をお願いします。すみませんが、至急で頼みます」
「はいよー」とあくび交じりの返事をもらうと、鬼頭は事務所を後にした。
※ ※ ※
扉を閉めると、女にふてくされたような顔で睨まれる。
「ありましたよ。行きましょう」
それだけ言って階段を下りると、女も無言でそれに続いた。
駅に向かってしばらく歩いてると、ねえ、と後ろから声をかけられる。
「……なんで逃げなかったの?」
「なんで、とは?」
「さっさと逃げ出せばよかったじゃん。交番に駆け込むとか、さっきの人たちに助けを求めるとか……」
「用を済ませて解放されたいだけです。牧野さんに用事があるんですよね? 今ならまだ生きてるし、住所もわかりましたから。話があるなら直接会って伝えて下さい。願ったり叶ったりじゃないですか」
女は何か言いたそうにしていたが、鬼頭は無視して先を行く。
駅構内に入り、通路を進んで改札を抜ける。ちょうど来てた電車に乗ると、空いてる席に座った。通勤の時間帯を過ぎてたので車内は空いていたが、女は鬼頭の隣に座った。監視のつもりなのだろう。
電車が動き出すと酷い眠気に襲われた。
朝から色々あったせいで疲労が溜まっていたのだろう。少しだけ寝ようかと思ってると肩に重みを感じた。規則正しい寝息がそれに続く。
お前が寝るのかと呆れつつ、鬼頭は改めて彼女を観察した。色あせたスニーカーは年季が入ってるし、トートバッグもかなり使い込まれてる。どう見ても裕福ではなさそうだったし、どうして鬼頭の家なんかに来てたのか──。
詳細はわからなかったが、よほどの事情があるのだと伺えた。
鬼頭はスマホを出すと、依頼人らに今日の予定の延期と謝罪のメールを送る。その次は山田にメッセージを送った。牧野仁の関係者について一通り調べてもらう必要があった。
女が目を覚ましたのはおよそ一時間後だった。鬼頭にもたれかかってたのに気付くと慌てて頭をひっこめる。
「次で乗り換えますから」
駅に到着すると鬼頭は背後を気にせず電車を下りる。
案内の看板を確かめながら進み、途中、駅弁屋に立ち寄って緑茶と弁当を二つずつ購入する。
新幹線の券売機では切符を二枚買って一枚を女に渡した。ホームに降りてしばらく待つと滑らかな緑色の新幹線がやってくる。
自由席は平日なので空いていた。
鬼頭と女は通路を挟んで別々の席に座った。定刻になると車体が動き出し、ゆるやかに加速を始める。
鬼頭はビニール袋に弁当と緑茶を入れると、無言で女の隣に置いた。
彼女はじろじろとそれを眺め、手をつけようとはしなかった。
昼時には確かにまだ早いが、どうもそれが理由ではないように思えた。
「なにか気になりますか?」
「毒でも入ってないかと思って……」
鬼頭は表情をこわばらせた。
直後に女ははっとなった。失言に気付いたようだった。
「ごめん、なんか。こういうの、言わないほうがよかったかも……」
なぜそれを言う前に気付けなかったのか。鬼頭が相手だからこうなった、という感じでもなさそうだった。
散々な目に遭わされたが鬼頭は怒るより同情してしまった。常にこの調子だとしたら、だいぶ生きづらいだろう。
「それと、ごめんのついでだけど……実は、嘘ついてた。わたし、おじさんの娘でも何でもなくて、単なる知り合いってだけで……」
「知ってますよ」
女は驚いた様子だったが、鬼頭からすれば当たり前の話だった。
「依頼を受ける時点で婚姻歴や子供の有無は調べますし、この状況で相手の言い分を鵜吞みにはしませんよ。萩原七海さん──でしたっけ? あなたのことも調べはついてます」
名前を言い当てられて、彼女はぎょっとした。どうして、という顔をしてたので鬼頭は先に答えた。
「仕事柄、人探しはよくするんですよ。五十年前の初恋の相手とか、みっちゃんとかさっちゃんとか、カスみたいな情報から探さないといけないのに比べれば簡単です。依頼人が死ぬのを知ってるのは、こちらから連絡した相手だけですから」
牧野の知人はそう多くなかったので絞り込むのは難しくなかった。
彼は昔、同じアパートに住む親子と交流があったと話していたし、そのときの子供くらいしか候補がいなかった。
彼女の年齢は二十歳で、現在は美容師の専門学校に通っている。週6で居酒屋のバイトを入れており、交友関係は狭くて浅い。SNSを調べても恋人らしき人物は見つからなかったし、だいぶ寂しい青春を送ってる──というのが山田の報告だった。
それで、と話を区切り、鬼頭は改めて訊いた。
「どうして血縁者でもないのに、牧野さんのことをそんなに気にしたんですか? 家族だなんて嘘までついて」
「あれは咄嗟に出ただけで……。だって、そうでも言わなきゃ完全に不審者じゃん」
娘だろうが何だろうが不審者で犯罪者なのは間違いないが、その辺はピンと来てないらしい。
「じゃあ、これから牧野さんに会ったら何をどうしたいとかはありますか?」
話題を変えると、七海は急に不機嫌そうになる。
「文句を言いたい。勝手に死のうとするなんて信じらんないし許せない。母さんとも会ってほしい」
「お二人はどういう関係だったんです?」
「母さんはおじさんのことが好きだったの」
初めて耳にする話だった。
「本当はわたしじゃなくて母さんが来るべきだったんだけど、手紙を読んでも動こうとしなかったから。いい歳して素直じゃないんだよ。おじさんも薄情だけどね」
「恋仲だったんですか?」
「わかんないけど互いに好き同士だったよ。それは間違いない」
鬼頭の知らない情報だった。もしそれが本当だとすると揉め事の種になりかねない。
「詳しい経緯を教えてもらって構いませんか? 何も知らされていないので」
「いいよ。お弁当くれたし」
お礼のつもりなのだろう。快諾してくれた。
鬼頭はお茶を一口飲むと、買ってきた弁当を開ける。食欲はなかったが義務感で食事をするのには慣れていた。七海もそれに倣って食べ始める。満足げに頷いてたのでお口に合ったようだった。
新幹線の窓から外を見ると、ビルの群れが立ち並んでいた。あと一時間もすれば田園風景が広がるようになるだろう。
萩原七海が牧野に出会ったのは、小学四年生の頃だった。
当時住んでいたのは家賃が四万円のアパートで、柱や階段には錆びが目立っていた。母親は七海が幼い頃に離婚したためフルタイムで働いていたが、非正規雇用だったため給料は少なく残業が多かった。七海は放課後は学童で過ごしたり友達と遊んだりしていたが、夜は基本的に一人で過ごしていた。親が家にいないのには慣れていたし、たまに寂しくなるのを除けば特に不自由はしてなかった。
きっかけはちょっとした怪我だった。
放課後に友達と遊んだ帰り道、坂道を自転車で走っていたら滑って転んでしまったのだ。腕や膝を擦りむいてしまい、何とか家に帰ったものの救急箱のありかがわからなかった。母親が帰ってきたら手当をしてもらおうと思ったが、その日は急な残業のせいで、いつまで経っても帰ってこなかった。七海はアパートの階段に座って帰りを待った。周囲は暗く、頼りない街灯の明かりだけがぼんやりと光っていた。空腹で肌寒かったけど、一人ではどうしようもなかった。
そこを通りかかったのが牧野だった。
お互いに存在くらいは認識してたが、交流はほとんどなかった。七海から助けを求めたわけではなかったが、牧野は一旦家に帰ると、消毒液や絆創膏を持って現れた。
『……自分でやれそう?』
その問いに七海が首を横に振ると、彼は迷うような素振りを見せてから手当てをしてくれた。
七海は痛みに顔をしかめつつ、牧野の手先を見た。分厚い手や太い指はいかにも男の人という感じだったけど、丁寧に傷口の手当てをしてくれた。
予期せぬ親切に戸惑いながらも七海は礼を言って、家に帰ろうとした。そのとき。
ぐう、とお腹が派手に鳴った。
恥ずかしい思いで家に帰って、十数分が過ぎた頃だろうか。空腹のままテレビを見てるとチャイムが鳴った。
のぞき穴を覗いてみたら、さっきの人がお皿を持って立っていた。
『作りすぎちゃったんだけど……いる?』
扉をあけて顔を合わせると男の人はそう言った。
皿に乗ってたのはチャーハンだった。かすれた声でお礼を言って受け取ると、急いで食べた。火加減が強すぎたのか、ところどころ焦げていた。一粒残らず平らげると、皿を洗って引き出しに隠した。すぐ返せばよかったのかもしれないけど、母親が帰って来るかもしれなかったし、知らない人からご飯をもらったなんて、知られてはいけないような気がしたのだ。
皿を返したのは数日後で、母親が帰りが遅くなると言って家を出た日の晩だった。部屋で耳を澄ませていた七海は、隣の家のドアが開く音を聞くと、皿を持って飛び出した。
食器を返して終わりになるはずだった。なのにチャイムを鳴らして顔を突き合わせた途端、またも盛大にお腹が鳴った。
親切な隣人は今度はケチャップたっぷりのナポリタンを用意してくれた。七海はもりもり食べると、洗った皿を再度引き出しに隠した。
そんなことが何度かあって、母親もそのうち様子がおかしいと勘付いた。帰ってきたら娘がたらふく何かを食べているようなのだ。
彼女は何かを悟ったような顔をして、深刻な様子で問い詰めた。
『……貧しくても、しちゃいけないことがあるんだよ。正直に話して』
母親は娘の万引きを疑っていた。
隣のおじさんが作りすぎた料理をくれた、と答えたら彼女は心配そうな顔をした。七海が絆創膏のくだりから一通り話をすると、今度は頭を抱えた。一緒に謝りに行くことになり、コンビニで菓子折りを買って持っていった。
謝りに来た親子に対して、牧野は照れ臭そうに言った。
『作りすぎちゃっただけなので大丈夫ですよ。食べてくれて助かってました』
当然、社交辞令だったが、七海は言葉通りに受け取った。
その後も事あるごとに食べ物をねだるようになり、二人のやり取りに母親も巻き込まれていった。
七海の家から料理をおすそ分けするようになると『お料理が得意なんですね』とお世辞を言われて、母親は得意げな顔をしていたという。
次第に三人は一緒に外に出かけるようになった。
休日は公園やショッピングモールを並んで歩き、フードコートでご飯を食べた。二人の関係に気付いたのもこの頃だった。七海がトイレで席を外して戻ってくると、母親が安心しきった顔で牧野と言葉を交わしてたのだ。何かが芽生えつつあるのを七海は感じた。月日が重なれば二人の関係は進展していたかもしれない。
だがそうはならなかった。
急に牧野が引っ越すことになったのだ。
新しい職場には社宅があるのでそこから通うと彼は言っていた。住所も教えてもらったが電車で一時間以上かかる距離だったため、一回だけ会いに行って、あとはそれきりだった。距離が離れると以前のように気安く連絡を取れなくなった。七海らも引っ越したせいか、関係が切れてしまった。初めから何もなかったように、親子は二人での暮らしに戻った。
年齢を重ねた七海は高校を卒業し、手に職をつけるために美容師の専門学校へ進んだ。学費の足しにするためにバイトに励み、忙しい日々を過ごした。
そんな折、アパートに一通の手紙が届いた。
差出人は牧野の代理人で、彼が安楽死するという内容だった。
手紙には『お世話になりました』とか『ありがとうございます』とか表面的な言葉が並んでいた。封筒の裏には事務所の住所が書かれていた。
七海は家を出て、その住所まで電車で向かった。目的の建物のそばまで行って、正気に戻り、立ち尽くした。
何をするつもりなのか、考えていなかった。
自分らは数年前にちょっと交流があっただけの他人だった。止めたいのかどうかさえわからなかった。向こうだって、今になって七海が現れても戸惑うだけだろう。連絡を取る機会はいくらでもあったのに、手紙が来るまで彼のことなどすっかり忘れていたのだ。
その日は暗くなるまでそこにいたが、結局なにもできなかった。
母親も手紙を読んだはずなのに、お互いに牧野の名前を口には出さなかった。
今度も何もなかったように時が過ぎるのを待ったものの、ある日、奇妙な巡り合わせが生じた。
その日はバイト先の居酒屋で酔っ払いに絡まれて、憂鬱な気持ちになっていた。店で中年のサラリーマンに愛想がないと難癖をつけられ、鬱陶しさを顔に出したら執拗に責められた。電車でも寝落ちして乗り過ごしてしまい、気付いたときには目的の駅を五つも通り過ぎていた。
ため息をつき、次で降りようとしたときだ。
同じ車両に、人殺しがいた。
安楽死の事務所まで行ったときに見かけた男だった。牧野の顔が頭をよぎり、七海はその場に留まった。手紙が届いてから一ヶ月以上が経っていた。もう色々と終わっていてもおかしくなかった。だけどこれが牧野と自分を繋ぐ、最後の糸のように感じた。
男が電車を降りたので、七海も後を追った。酔っぱらってるのか足取りが危うく、後を尾けられてるのにも気付いてなかった。
男が最終的に降りたのは、七海もよく知る駅だった。
建物への道のりにも覚えがあった。記憶にあるお店がいくつか新しいものに置き換わってたが、数年前とほとんど変わっていなかった。
何かに導かれるように足を動かし、まさかという思いで、七海はその建物に帰り着いた。
アパートは彼女が幼い頃に住んでいた建物だった。
七海が立ち尽くしてる間に、男は階段を上って隅の一室に入っていった。そこはかつて牧野が住んでいた部屋だった。長いことその場から動けなかった。動悸が収まってから郵便受けを確認しにいき、部屋の主が『鬼頭』という名だと知った。
逡巡しつつ部屋まで行くと、窓の向こう側は暗かった。鍵がかかっていたら帰ろうと思ったのに、ドアノブに手をかけると、抵抗なく開いてしまった。
恐る恐る足を踏み入れ、体中の力が抜けた。懐かしさで胸が溢れた。内装は変わっていたが、確かに同じ部屋だった。空間に漂う微細な何かが記憶を刺激した。涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
そこまできて、ようやく自覚した。
自分は、会いたいのだ。
もう手遅れだとしても、伝えたいことが一杯あった。一人でも料理を作れるようになったし、二人で何とか暮らせてると言いたかった。母にも会ってほしかった。墓前で語るだけになったとしても、相手をどう想っていたのか、きちんと伝えてほしかった。
そのためには朝になるのを待たねばならなかった。交渉も必要だった。膝を抱えて『鬼頭』とどう駆け引きするかを考えてると、トイレに行きたくなった。立ち上がってお手洗いを借りて、手を洗うところで七海は見た。
洗面所に並ぶ女性用の化粧水や乳液や美容液──。
歯ブラシも二本用意されている。
どうやら『鬼頭』はこの部屋で、二人で暮らしているみたいだった。
淀みなく語られていた言葉が急に途切れた。
七海は何かを考える風にして、あのさ、と声をかけた。
「普段、料理ってする?」
いえ、と鬼頭は返した。質問の意図がわからなかった。
「アパートに誰かが来たってバレないかな」
「誰に?」
「同居人に」
何を当たり前のことを、という風に七海は言う。
鬼頭は目を逸らして、「大丈夫ですよ」とだけ答えた。
でも、と彼女は食い下がった。
「恋人とか付き合ってる人がいるんでしょ? 洗面所にそういうの置いてあったし。ろくに料理もしない人が朝からご飯炊いてたら怪しまれるよ」
「戻ってきませんから」
「夜勤とかってこと? それでも今日中には帰ってくるじゃん。わたしのせいで関係が壊れるとか嫌だし、言い訳とか──」
「もう、帰ってきませんから」
少しだけ語気を強めて、鬼頭は言った。
含みを持たせれば察して引いてくれるはずだと期待した。だが彼女は鬼頭に視線を向けたままだった。急かすでもなく、直接訊くでもなく、鬼頭の準備が整うのをただ待っていた。
喋るつもりはなかった。
沈黙したままでいると、固い調子の声が飛んだ。
「順番」
続く言葉はなかった。委ねられてる、と鬼頭は受け取った。
話をする義理はないけれども、相手の話だけ聞いてこちらは隠し事を貫くというのは卑怯な気がした。彼女とはもう会わない、という関係の希薄さも背中を押した。
たどたどしい言葉で、鬼頭は語り始めた。
「……煙草をよく吸う人でした。社交的で、友人は多かったと思います。大学の研究室の近くに喫煙所があって、そこの常連だったんです。吸わなそうなタイプなのに、しょっちゅういたので、気になってて……」
改めて言葉にすると、知らない人の話をするようだった。実際、自分は何もわかっていなかった。
声をかけたのは鬼頭からで、彼女のライターが切れてたので自分のを貸したのだ。笑顔で礼を言われ、顔見知りになった。すれ違うと挨拶する程度の仲になり、喫煙所で会えば雑談をした。
食事に誘ってファミレスにも行った。思ったよりも話が弾んだ。何度かまたメシを食いに行き、女の喫煙を咎めないのを気に入られて、付き合い始めた。煙草を吸いながら夜の公園を散歩するのが好きだった。晩酌にもよく付き合った。
一緒に暮らすようになった。
就職がピンとこないので卒業してからはバイトで生活した。友人が仕事の愚痴を言ったり結婚したりして、少し焦った。遅めの就活をして、働き始めた。会社がよくなかった。鬼頭はグレーで、あちらはブラックだった。彼女がメンタルクリニックに通い始めた。しんどいと笑って言っていた。すれ違いが増え、顔を合わせる頻度が減った。言葉を交わさなくなった。家にゴミが増えた。部屋が汚れた。よくない兆候だった。
貯金があると告げた。結婚資金のつもりだと伝えた。口座の暗証番号も。きつければ仕事は辞めようと言った。わかったと彼女は答えた。笑顔がなかった。
しばらくして。
全額引き出されて消えた。
探した。必死で。裏切られたかもと思った。数週間後に見つかった。離れた土地で。水の中に。いた。自殺だった。
葬儀が終わった後。彼女の母から知らされた。奨学金を借りてたこと。思った以上に追い詰められてたこと。涙まじりに謝られた。鬼頭も頭を下げた。
アパートが広くなった。私物は送った。消耗品が残った。化粧品。洗顔料。歯ブラシ。煙草。着古した衣類は取っておいた。安い茶碗も。箸も。枕も。生活の痕跡が焼き付いていた。残り香の中で生活した。仕事はやめた。生活が荒れた。食えなくなって。眠れなくなった。たびたび思った。何か。何か。何か。できたんじゃないか。SOSが。あったんじゃないか。手を差し伸べてれば。気付いてあげられれば。何か。何か。何か。暗い部屋で考えた。
自分は。人殺しだ。
──話が終わって少しすると七海は眠ってしまった。窓のほうを向いたまま、いつの間にか穏やかな寝息を立てていた。
鬼頭は気分転換したくて、喫煙室を探しに行った。どれだけ歩き回ってもそれらしい場所は見つからず、調べてみると随分前に廃止されたとわかった。そのまま戻るのも癪だったので、新幹線内の自販機で飲み物を買い、口寂しさを紛らわすことにした。
無糖の珈琲を飲んで一息つくと、先程の七海の話を考える。
彼女は牧野仁との昔話を語ってくれたが、それは鬼頭の印象とはかなり異なっていた。
※ ※ ※
牧野仁が安楽死の相談に訪れたのは半年前だった。
鬼頭の事務所は小規模だが新規の相談はそれなりにある。初回は相談無料ということもあり、とにかく会って話したいという人が大半だ。ウェブの申し込み画面には安楽死を希望する理由や近況を記入する欄があるものの、空欄で出す者も多い。
その中にあって、牧野はかなり詳しく自分の状況を書いていた。印象的だったのが、彼が最初に適用除外について言及していたことだ。
冒頭、彼は次のような文章を載せていた。
『1 生活保護を受けている者。
2 五十歳未満である者。
3 日本国籍を有さない者。
4 判断能力の欠如した者。
5 別に定める特定の疾患を抱えている者。
※私はこれら適用除外の項目には該当致しません。』
適用除外とは安楽死における一連のルールだ。
これがあるからこそ安楽死は無秩序な殺人にならずに済んでいる。逸脱した場合、補助金は取り消しになり、関係者が起訴されるリスクも上がる。とは言えこれらは周知されてるとは言い難いし、関係者の大半もそれで構わないと思ってる。
安楽死の相談をする人間はほとんどが実行には移さない。
登録だけして、『いつでも死ねる状態』をお守り代わりにするだけだ。その気になれば死ねるというのは、ある種の人々にとって安心に繋がり、それ自体に価値がある。
事務所側としても、登録させれば手数料が取れる。更新料も毎年頂くので、適用除外の話は初回アンケートにはあえて載せない。病歴や精神疾患の有無には軽く触れるが、条件のいくつかは状況次第で変わりうるからだ。
にもかかわらず最初から適用除外に言及する依頼人は一定数おり、そうした人たちは死という選択を現実として捉えている。それが牧野仁だった。
彼は一言でいえば、氷河期世代の犠牲者だった。
牧野は東北のN市出身で、学生時代の成績は優秀だった。高校は県で二番目の進学校へ進み、卒業後は関東の有名大学へ入学した。優秀な成績で卒業したものの、不況と重なったため正社員では就職できなかった。
非正規の仕事は低賃金で奨学金の返済も苦しく、学生時代の恋人ともじきに別れた。両親は彼が二十五歳の頃に事故で亡くなったため、地元に戻るのも難しかった。職を転々とする中で法改正があったが雇い止めされ、安定した身分にはなれなかった。
日々の営みの中で神経をすり減らし、疲弊し、そこで人生を終わらせようという考えが芽生えたのだという。
実際に会って話を聞くと、文章の印象通りの人だった。真面目で気配りができ、まっとうな社会人として働いてる姿が容易に想像できた。街を歩けば牧野のような人物はいくらでもいるだろう。生まれる時代が違っていれば家庭を築いて順調に出世しただろうな、と思えるような人物だった。
牧野はすぐにでも安楽死を望んでいたが、医師の審査が必要な旨を伝えて、専門のクリニックを受診してもらうことにした。これは一定期間を置いて、複数回行われることが義務付けられていた。どれだけ熱心に安楽死を望んでても、時間が経てば心変わりするものだ。一貫した意思を確認するには必要なプロセスだった。
依頼人が若年者の場合、高齢者に比べてカウンセリングの回数が増える。これは税収の問題が絡んでいる。まだ働ける人には税金を収めて、社会を支えほしいという国側の事情によるものだった。
同時並行で、バゲットリストを作って進めてほしいという話もした。
これは納得のいく死を迎えるためであり、突発的な自殺を防ぐためでもあった。
安楽死を希望する者と単なる自殺志願者は、線引きが極めて難しい。
本来はこころの相談ダイヤルやメンタルクリニックにかかるべき人が、エンディングプランナーの元に来てしまうケースはどうしてもある。思いとどまらせて然るべきところに繋ぐにしても、下手に扱えば逃げられるし、どの依頼人を医療機関に繋ぐかは判断が難しい。そこでまずバゲットリストを作らせて、『これが済むまでは死んではならない』という約束をさせる。
リストをこなすうちに生きる方向に心変わりすればいいし、周囲がSOSに気付いて手を差し伸べるでもいい。それらが無理でも時間を確保できれば、医療機関を強制的に受診させられる。
適用除外を伏せるのもこれが理由だ。エンディングプランナーが自殺のストッパーとして働くので、死にたいという訴えは極力受け止めるのが理想なのだ。
牧野はこれらのプロセスを順当にこなした。
目的は伏せたまま、疎遠になっていた知人や恩師に会いに行って言葉を交わした。多くで歓迎されたようだが、そこから親密な関係や繋がりが生じたりはしなかった。
肉体面や精神面での異常もなく、カウンセリング時の死の意思も一貫していた。
鬼頭は依頼人がシニア世代でない場合、安楽死を慎重に進めるようにしている。高齢者差別ではないが、きっかけがあれば若い人間は引き返せる。五十歳になったばかりの牧野はその典型だったため、可能な限り引き延ばしていた。
だが物事には限度があるし、条件も整ってたので、いよいよ具体的な手続きを始めなければならなかった。
国側に安楽死の申請をして予算の確保をする必要があったが、ここが最も憂鬱だった。
補助金は契約者が納めた税や年金、社会保障費をベースに計算されるが、非正規で収入が低ければ納付額は少なくなり、支払われる額も減る。年齢による調整もあり、依頼人が若ければ若いほど減額される仕組みだった。
これも労働力を確保したい国側が、少しでも死ぬ気を削ごうとするための措置だった。逆に高齢者には給付額が上乗せされていた。
最終的な金額が決まったのは、最初の面談から五か月後だった。
その日、鬼頭は個室の貸し会議室で牧野と向き合っていた。テーブルには数字の書かれた書類が置かれていた。
「命の値段みたいですね」
苦笑しつつ、牧野はこぼした。
「小学生くらいの頃に誰でも考えますよね。命は大事っていうけど、お金に換算したらどのくらいになるんだろうって。数億円とか数千万とか……手の届かない金額をイメージしてましたよ。命はそれくらい尊いものだって、思い込んでました」
書類に記された数字は百万にも満たなかった。
これを牧野がどう受け取るか、鬼頭は承知していた。
鬼頭はペンを出し紙に0、24、65、と数字を書き出した。
「この中で、どの命が一番、価値が高いと思いますか?」
唐突な問いかけに、牧野は戸惑った様子だった。
「独断と偏見で構いません。数字は年齢です。価値があると思う順に、1から3で順位をつけて下さい」
ペンを渡されると、少しだけ迷って牧野は数字を書き込んだ。
0歳に1を、24歳に2を、65歳に3の順位をつけた。
牧野に視線を向けられたので、頷いた。鬼頭も同意見だった。
「補助金は、納めた額と給付された額の差で計算されるので、もし安楽死に年齢制限がなかったとしたら、支払われる金額は次のようになります」
鬼頭は65歳に1を、0歳に2を、24歳に3の順位をつけた。
「生まれたばかりの赤ん坊はゼロです。成長するまでは公共サービスや学校など公教育の世話になるので、働いて納税するまでは差し引きでマイナスです。そのマイナスを徐々にプラスにしていって、定年直前に最もそれが大きくなります」
ですが、と鬼頭は数字に大きくバツをつけて、忌々しげに言った。
「老人の命の価値が一番高いだなんて絶対にないし、若い人間の命が安いなんてこともありえません。
この金額は、単なる制限です。死ぬ前にやることを決めるための条件の一つに過ぎません。それを踏まえたうえで考えましょう。死ぬまでの時間で、一体何をしてみたいか」
牧野は気圧されたように頷き、しばらく経ってから「ハワイかな……」と言った。
「行ってみたかったんですよね、ハワイ。子供の頃に雑誌か何かで読んだんです。あったかくて、幸せそうな感じがするなって思いました」
「行ってみますか?」と鬼頭が振ると、牧野は疲れたように首を振った。
「やめときます。一人で行ったって楽しめないですし。周りが幸せそうにしてる中で自分だけ一人なのは辛いですから」
牧野はそれ以上、その話題には触れなかったので鬼頭もそっとしておいた。
それから二人は改めて話し合って、現実的な金の使い方を探った。
結局、牧野は故郷に帰って一人で静かに暮らしたいと希望した。鬼頭はその要望を叶えるよう古民家を借りる手続きをして、移動の足となる車を手配した。魚を釣って料理をしたり、読めずにいた本を開いたり、誰とも関わらず、穏やかに過ごせるよう環境を整えた。
それが一か月前のことだった。
※ ※ ※
新幹線が目的の駅に到着した。
七海を起こして在来線に乗り換え、そこから移動してからさらに別の路線に乗り継いだ。過疎化の影響か利用者は少なく、車内は空いていた。
列車はタタン、タタンと規則正しい音を立てながら進み、自然と一体になったような踏切を幾つも通り過ぎた。しばらく揺られると遠くに海が見えてきて、開け放たれた窓から潮風が吹き込んでくる。
牧野とは新幹線に乗ってるときに連絡を取っていた。七海のことを伝えると会ってくれると話していた。優しい人だから、押しかければ拒否はされないだろうと思っていた。
七海を覚えてるか聞いたところ、もちろんと答えたうえで、「……忘れられてると思ってました」と寂しげな声で答えた。
終点駅につくと鬼頭たちは切符を回収用の箱に入れて外に出た。周囲は駅前とは思えないくらい閑散としていた。
電話をかけると軽自動車がやってきて、牧野が降りて来た。彼と会うのは一ヵ月ぶりだった。日焼けして顔立ちが精悍になり、体も前より引き締まっていた。
ふと七海の方を見ると硬い表情のまま視線を逸らし、思春期の子供みたいになっていた。牧野もどう接すればいいかわからないようで、当事者らが固まってしまっていた。
話ができそうな店はないかと鬼頭が聞くと、海辺の喫茶店があると牧野が答え、そこに向かうことになった。
地方の田舎町なので道は広く、田畑が太陽の光を浴びて輝いていた。ドライブといった雰囲気ではなかったが車はアスファルトの上を軽快に走っていった。
着いた店はレトロという表現では誤魔化せない古さだった。外壁の塗装は剥げて、店の名前も読めないほどになっていた。積もる話もあると思い、鬼頭は外で待つことにした。
潮風を浴びながら、のんびりと煙草を吸った。波の音がうっすら聞こえ、海鳥がミャアミャア鳴くのを眺めた。
吸い殻が三本ほど溜まった辺りで何気なく店のほうを見ると、硝子窓の向こうで、七海が牧野を引っぱたくところだった。
何かを叫び、彼女は店を飛び出してくる。鬼頭の視線に気付くと彼女は獣のような眼差しで睨み付けた。八つ当たりをされるのではと身構えたが、そこまで冷静さを失ってはいないらしく、七海は早足でその場を後にする。
鬼頭は煙草の吸殻を処理して、喫茶店へ向かった。
扉に付けられた鈴が鳴り、「いらっしゃーい」とエプロン姿の女性が声をかける。内装は年季の入った昭和風で、古びたテーブルや椅子が並んでいた。やや場違いな薄型テレビでは野球中継が映っている。
七海の席にはクリームソーダのグラスが残っていた。
牧野は落ち込んでるのか、うなだれていた。鬼頭に気付くと、彼は会釈をして自虐的に笑った。
「怒られちゃいました」
鬼頭は軽く頷き席に座ると、珈琲を注文する。クリームソーダを下げてもらい、テーブルに残った水滴がさっと拭かれた。
鬼頭は改めて頭を下げて、今回の件を謝罪した。
牧野は「やめてください」と言い、珈琲に手をつける。
「謝るのはこっちの方ですよ。本当は自分から会いに行くべきだったんです。なのに……逃げたんです。怖かったんです。時間も経ってるし、こっちのことなんか忘れてるかもしれなかったから。そのくせ手紙を送って何かを期待してたんです。未練がましくね。今さらこんな人間と関わるべきじゃないんですよ」
牧野の話が終わっても、鬼頭は頭を下げたままだった。
彼は訝しむような顔をした。
「いったい何に謝ってるんです?」
「これから伝えることに関してです」
鬼頭は鞄から書類を出すと、牧野に差し出した。
さっき新幹線で作った手書きのもので、計算式や数字が並んでいた。
「安楽死の中途解約について、説明をしに参りました」
鬼頭の言葉に、牧野は愕然とした。
A5サイズの小さな紙には、現時点で解約した場合に、返済する額がどのくらいになるかが記されていた。今まで使った額に手数料を加えても、金額は七十万程度だった。
「……中途解約はいつでも可能だとお話ししましたが、具体的な金額には触れてこなかったので」
牧野が何か言いかけるのを制するように、鬼頭は続けた。
「牧野様の経済状況を考えると、この額を返済するのが難しいのは承知しています。ですが生計を共にする相手がいれば、生活費は下がります。金銭的に余裕のない人間が身を寄せ合うのは、経済的には理に適ってます」
強く、机を叩く音がした。牧野が拳を握っていた。
珈琲がテーブルに零れてしまい、彼は卓上の紙ナプキンで拭った。手が震えて、表情は強張っていた。
「この期に及んで知らせなくてもいいですよね。もうすぐ終わるんだから。解約なんて、僕は望んでませんよ。正当な手続きは踏んでるし、放っておいてくれてもよかったじゃないですか」
「安楽死は究極的には自殺です」
しんと静寂が降る。
牧野は傷ついたような顔で鬼頭を見つめた。
それに応えるように淡々と告げた。
「死ぬことで解決する問題や、死ぬことでしか解決できない問題は確かにあります。我々の仕事は死ぬ手助けをすることですが、だからこそ死ぬ以外の選択を常に考えなければなりません。死を推奨すべきではないんです。これはこの仕事の最低限のルールです」
「……それはあなたたちの都合ですよね」
「ごもっともです」
「だったら金額の説明なんていらないですよね? 必要ないんだから」
「もう引き返せないと思ってる相手にこそ、この話をする意味があります」
「だからもういいんだって!」
「もし一緒に暮らしたいと言われたら?」
牧野の表情が緩んだ。直後に、彼はくしゃくしゃに顔を歪めて、うなだれた。
意地の悪い発言だったが、今のが彼の本心だろうという気がした。
「今すぐ決めろとは言いません。七海さんのお母様にも会ってみて、その気になったら彼女たちのそばにいてあげてください。死ぬなら死ぬで構いませんから」
「……そんなの駄目でしょ」
なぜ、と鬼頭が訊くと、牧野は顔を上げ、当惑した様子で言った。
「そりゃそうでしょう。もしわたしが結論を変えなかったら、全部が無駄になりますよね。わざわざ会いに来て親しくしたって、結局死ぬなら傷が深くなるだけじゃないですか」
「今よりはマシですよ」
鬼頭は視線を落として言った。
「このまま死ねば後悔が残ります。何かできることがあったんじゃないかとか、してやれたんじゃないかとか──そういう気持ちがずっと残ります。顔を合わせて、思う存分優しくできれば、向こうの気が済みます。何もできないで死なれるより、はるかにマシな終わり方ですよ」
牧野は何か言いかける素振りをみせたが、口を閉じ、結局言葉を飲み込んだ。
これだけ肩入れすれば、何かあると疑われても仕方ないだろう。それを指摘しなかったのは牧野の優しさだ。
二人して黙り込むと、野球中継がCMに切り替わり、『たのしい安楽死けいかく』の歌が流れる。マスコットキャラクターのウサギが愛嬌を振りまきながら踊り、『たのしく逝こう!』と笑っていた。
「……ド畜生が」
鬼頭が悪態をついてると、店員の女性が珈琲を運んでくる。話し込んでたから、持ってくるタイミングを見計らっていたのだろう。気まずい思いをさせたに違いない。
「煙草、あります?」
牧野が聞いた。
テーブルには灰皿が置いてあり、店内での喫煙は都内ほどうるさくなさそうだった。
鬼頭は一本差し出し、ライターの火をかざした。自分の分にも火をつけると、煙を吐き出し、乾燥した口を珈琲で湿らせる。
「もし会うことになったとして……」
鬼頭は言った。
「修羅場になったら、殺される前に逃げてください。先に死なれるとややこしくなるので」
牧野は苦笑し、それに頷いた。
※ ※ ※
翌朝、事務所にて。
黒瀬が感心したように言った。
「いやー、そんなことになってたなんてねえ。家に押し入られるなんて、そうそうない経験でしょ。死ななくてよかったじゃない」
お土産の味噌せんべいを齧りながら山田がぼやく。
「鬼頭さんズルいよお。有給使って温泉宿に二泊もしたんでしょー? 俺も仕事サボってフーゾクで豪遊したーい」
カスだねえ、と黒瀬が息をするように暴言を吐く。
「……対応次第で刺されてたかもしれないんで、その埋め合わせです。精神的苦痛を受けたのに労災は降りないとか社長が言うので」
「刺されてたら見舞金くらいは出てたんじゃない?」
黒瀬は煙草を咥えながら、キッチンに向かう。
嫌な冗談だなと思いながら、鬼頭はデスクで書類仕事に取り掛かる。山田は饅頭と煎餅を掴んでソファーに寝転がると、携帯ゲームをやり始める。いつもの日常だった。
「それで? その牧野さんって人は結局どうするの? まだ結論は保留なんだろうけど」
黒瀬が茶を煎れながら聞く。
「急かすわけにもいきませんから」
「鬼頭くんはどっちにすると思ってるの?」
「撤回なんかしませんよ。こっちは正当な手続き踏んで、死ぬって結論になってるんですから。昔の知人に会ったくらいで辞めるなら、真面目に仕事するのが馬鹿馬鹿しくなるでしょう」
「悲しいけどそんなもんよねえ」
「母親はどうすんのー? 娘が言うにはいい感じの関係だったんじゃないのー?」
「そんなの子供の無垢な願望に決まってるじゃない。稼ぎもない男にバツイチ子持ちの女が惹かれるわけないでしょ? 仮に男女の仲だったとして、十年も昔なら心変わりしてるに決まってる」
「夢がナイなあー」
「でも鬼頭くん、死ぬって思ってるならよく依頼人のところまで連れてったね。結果が同じなら会わせないほうが幸せだったんじゃない? 余計な波風も立たなかったし」
「同じことを依頼人にも言われましたが、興味があったんですよ」
「どういうこと?」
「間に合ってれば死なずに済んだのか。……条件次第で止められるのかどうか、とか、そういうのを知りたかったので」
黒瀬が首をかしげて、じっと見つめてきた。
鬼頭は視線には気付いたが、話したくないので知らんぷりした。
「好奇心で無駄な仕事するとか鬼頭さんマジメだねー。超プロフェッショナルじゃん」
山田の解釈に、黒瀬も一応は納得した。
「業界的には価値のある情報かもね。これで撤回するようなら、安楽死のプロセスに問題ありって話になるし」
「と言うか、無視するわけにもいかないでしょう。関係者が会いに来てて、依頼人も生きてるんだし。黒瀬さんなら無駄だからって門前払いしますか? 多少なりとも可能性がある状況で」
「そりゃそうか。人の生き死にをこっちで決めちゃうなんて責任重いもんね」
話がひと段落したので各々がそれぞれの作業に戻る。
鬼頭は依頼人に連絡を取ったり書類仕事を片付けたりすると、煙草を取り出し、休憩する。思い出したように引き出しを開け、整理された書類の中から一冊を抜き取った。
「予算はまだ余ってるんですよね……」
鬼頭が呟くと、黒瀬が興味を示したように覗き込んだので冊子を掲げてみせた。
鬼頭が手にしていたのはエンディング写真のパンフレットだった。
表紙には爽やかな印象の家族写真が印刷されてて、下部には《残された人のために》と記されてある。フォトウエディングや記念日の撮影みたいに着飾る人もいれば、カメラマンに出張してもらい日常の写真を撮る人もいる。
これは安楽死が決まった人向けのサービスで、家族に対する精神的なケアを目的としたものだった。
親族などの死に、最後まで納得できない人はいる。
悲しみは残るにしても、当人にとっては満足のいく最後だったと知れば、それが心の整理に繋がる。亡くなるという結論が同じでも、笑顔で映ってる写真を見れば、いずれは折り合いをつけられる。
費用は数万円かかるが、余った予算で支払える額だった。
「このままだと後味も悪そうなので勧めてみます。安楽死に納得してもらえるかは微妙そうでしたから」
「なるほどね。いいお金の使い方だと思う」
「俺それキラーイ。死体に群がるハイエナみたいな感じ気がして嫌なんだよねー」
「わたしらがそれ言う?」
生産性のない話を聞きながら、鬼頭は牧野に連絡を取り、こういったサービスがあるのだと知らせた。
※ ※ ※
しばらく経った頃、事務所に手紙が届いた。
宛名は牧野仁で、ここ二週間ほど音沙汰がなかった。開封すると中には写真が入っており、それを目にして鬼頭は眉間に皺を寄せた。
写真は牧野と七海と母親の、三人で撮られたものだった。
記念写真を撮る場所なのだろう。『南国のスパリゾート!』と書かれたボードの周囲には、熱帯を思わせる植物や巨大な民芸品のオブジェが飾られている。
七海はフラガールのような衣裳にカラフルな髪飾りや首飾りを身につけて、カメラマンに向かってピースしていた。母親も似たような格好で、照れ臭そうに笑っている。
牧野は、飛び上がっていた。
民族衣装のような腰巻をつけ、葉っぱで作った髪飾りを巻き、力いっぱいジャンプしていた。両手でピースして、目も当てられないほど浮かれていた。
言いようのない理不尽さを感じて、鬼頭は頭を抱えた。
写真の裏にはこう記されてあった。
『いつか本物のハワイに行ってみせます!
キャンセルの手続きをお願いします!』
躍動感あふれる文字を見て、鬼頭はくつくつと笑いがこみ上げてきた。笑うくらいしか反応のしようがなかった。
幸せそうな写真を破り捨て、ゴミ箱へ放り込む。
二度と顔を見せるなと呪いながら、鬼頭は解約の手続きを開始した。




