【case1】人を送る仕事
待ち合わせ場所は客の指定した喫茶店だった。
珈琲を飲んで待っていると、香水の匂いがふわっと薫った。席に着いた女はまだ若そうだったが、化粧が濃く水商売を連想させるような服を着ていた。
彼女はカプチーノを頼み、簡単な自己紹介を済ませると甘ったるい口調で言った。
「お婆ちゃんを殺してほしいんです」
鬼頭はネクタイに軽く触れ、動揺を表に出すまいとした。
この女は、何を言ってるんだ──。
今のが周囲に聞こえてないか確かめた上で、「もう少し詳しくお願いします」と鬼頭は促した。
「わたし、ちょっとしたところからお金を借りてて、それを返さないといけないんです。でも貯金が底をついちゃって、どうしようもなくって、それでネットをいじってたら、そちらの会社さんのことを知ったんです。お婆ちゃんは生命保険にも入ってるし糖尿病とか体も悪いから、ちょうどいいかなあって思ったんです」
栗色の巻き髪をいじりつつ、目も合わせずに言う。おっとりした喋り方が頭の悪さを引き立てていた。
「ひとつ確認してもよろしいですか?」
「はあい」
「ご本人の同意は取られましたか?」
「いいえ?」
なんでそんなこと聞くの?という声が聞こえてきそうな顔だった。
鬼頭は咳払いをした。
「では、それだと殺人になってしまうというのはわかりますか?」
「合法的な人殺しをする会社だってネットで見たんですけど」
鬼頭は再度咳払いをした。多少の苛立ちも込めて。
「わたしたちの仕事は人殺しではなく、安楽死のお手伝いをすることです。誤解されることもありますが、合法だろうが非合法だろうが人を殺したりはしません。エンディングプランナーの仕事は、自身の最期を決めた人たちが悔いのない終わりを迎えられるよう、サポートすることです」
女はぽかんとした顔をして、首をかしげた。
「エンディングプランナーって、殺し屋のことじゃないんですかあ?」
※ ※ ※
昼飯に牛丼を食ってから鬼頭は事務所に戻った。打ちっ放しのコンクリートの階段を上り、錆びの浮かび上がった扉を開けると「おかえりなさーい」とソファーから声がした。
デスクに鞄を置くとつい、ため息が漏れた。
「今日のお客さん、どうでしたー?」
スマホをいじりながら山田が聞いた。ソファーに寝そべってゲームをしてるのか、音が漏れている。薄汚い金髪は長いこと染め直してないせいで、根元が黒くなっていた。
「若い女性でしたよ。借金があるので祖母を殺してほしいと頼まれました」
「可愛かったっすか?」
「自分が永久に若いと思ってるような女性でした」
「オッパイはデカかった?」
「見てません」
「鬼頭さんは真面目だなあ。そういうのはチェックしとかなきゃ」
山田はへらへら笑いながら煙草に火を付ける。前歯が一本抜けてるせいか、実際以上にマヌケそうに見えた。
鬼頭も一服すると、部屋に飾ってある額縁を眺める。
『必殺』
創業時に社長が書道家に依頼して書かせたものだった。格好いいでしょ、と酒の席で何度、社長に自慢されたことか。
こんなものが飾られてるせいで殺し屋の事務所だなんて誤解されるのだ。
「にしても殺してくれは酷いっすよねー。俺らも頑張ってるはずだけど、なかなか世間様への認知度が足りないっすよね」
「依頼人には法律に関する講義をしてきましたよ。五分で逃げられましたが」
「五分も持ったのかあ。俺なら十秒で逃げちゃうなあ」
鬼頭がだべりながら珈琲を入れてると黒瀬が帰ってくる。
「ただいまー。あ、あんたらまた煙草吸ってんの? 禁煙だって言ってるじゃない」
「そう言う姉さんだっていつも吸ってんじゃん」
「あんたらが吸うからわたしが禁煙できないんでしょ」
珈琲いかがですか、と鬼頭が聞くと、「ありがとー」と笑顔をみせる。華やか、という表現がよく似合った。細身のパンツスーツは安物だし、髪型も化粧も適当に組み合わせてるだけと前に話してた。なのに目を惹くほど様になってるのは遺伝子が強いからだろう。
デスクに鞄を置くと、黒瀬も煙草に火を点ける。テレビのほうを見ると、終末期選択法へのデモの映像が流れていた。プラカードを持って行進する人の姿が映っている。
画面の右上には【徹底討論! 安楽死vs生命至上主義!】とテロップが浮かんでいた。
「暇ねえ。この人たちも」
画面が切り替わり、次に流れたのは“たのしい安楽死けいかく"のCMだ。
ウサギのマスコットキャラクターの終末ちゃんが、補助金のもらい忘れをアニメ声で注意している。
「補助金の貰い忘れなんてあるわけないでしょ。みんなそのために死ぬんだから」
テレビに向かって文句を言う姿を、山田が残念そうに眺めていた。「顔は良いんだけどなあ……」とぼやいてたので、「ボリューム下げたほうがいいですよ」と鬼頭は伝える。
「あ、そうだ山田君。この前の調べ物でちょっと確認したいんだけど」
「はいはーい」
間延びした返事をして山田は黒瀬のほうへ行く。鬼頭は改めてテレビを見た。この手の番組は視聴率が稼げるらしく、どの局でもよく取り上げられている。
終末期選択法が導入されて十年以上経つが、市民からの反発は根強い。
きっと何十年経ったとしても、こういった声は消えないだろう。一度根付いた常識を消し去るのは難しい。天動説や人種差別が正しいと信じた人達と同じなのだ。古い世代が仲良く全員くたばるまで、常識が完全に切り替わることはないだろう。一市民としてやるべきは、懸命に仕事に励むことだけだ。
鬼頭は珈琲を啜り、午後の仕事を考える。
こちらの依頼人は午前の厄介な客と違い、ごく一般的な相手だった。
仲野秀子、七十五歳──。
安楽死を希望する人は、何だかんだで年寄りが一番多い。
※ ※ ※
鬼頭は電車から外を眺める。
下校の途中なのだろう、小学生たちの姿が目立った。まだ低学年くらいの背格好の子たちが友達とはしゃぎ回っていた。
小児人口の急激な増加により、近年、騒音問題が話題になっているそうだ。定年を迎えた老人が子供の騒ぎ声にクレームを入れる数が急増してるのだという。
『自分らが大事にされてないって感じると弱い相手に攻撃的になるのよねー』
職場で黒瀬がそう言っていた。
終末期選択法の影響かどうか鬼頭にはわからなかったが、年寄りが生きづらい世の中になってる気はする。
喫茶店に到着するといつものように珈琲を頼む。店内は空いており、グループやひとりの客が数組いるだけだった。
十分ほど待ってると声をかけられた。
「……鬼頭様ですか?」
しゃがれた、陰鬱な声だった。
顔をあげて目が合い、年齢を十歳間違えたかと鬼頭は思った。仲野様ですか、と確認すると、立って挨拶をする。
彼女は着席すると震えた手でメニューを開き、カフェオレを注文した。
「今日中に契約することは可能ですか」
挨拶もそこそこに夫人は切り出した。
とりたてて珍しい質問ではなかった。
「申し訳ございません。確認することが色々とありますので、まずはご相談という形を取らせて頂いてます」
ため息が返ってきた。疲労が滲み出たようだった。
そのことを気にしつつも、鬼頭は話を進めた。
「安楽死をご希望される、詳しい理由をお聞きしてよろしいですか?」
鬼頭が促すと、夫人は俯いたまま話を始めた。
「……病院で調べたところ認知症の気があることがわかったんです。その、まだ一歩手前らしいんですが、進行して自分のことがわからなくなるのが嫌なんです。それだったら、できるうちに終わらせてしまおうかと思って……」
「主治医にご相談はされましたか?」
「いえ。必要ですか?」
「健常者と認知症の中間であれば改善する可能性があります。それが無理でも今後、どのように病気が進行するかは主治医から説明を聞いたほうがいいでしょう。契約を急ぐメリットはありませんから」
「……必要ないと思います」
鬼頭は鞄からA4の用紙を取り出した。
安楽死の適用除外について記されたものだった。
『1 生活保護を受けている者。
2 五十歳未満である者。
3 日本国籍を有さない者。
4 判断能力の欠如した者。
5 別に定める特定の疾患を抱えている者。』
夫人に見えるようテーブルに置くと、鬼頭は4と5を指した。
「社会的弱者の保護という観点から、これらに該当する方は、終末期選択法に基づく安楽死を受けられなくなります。
仲野様の場合、認知症の程度によってはこれらに当たる可能性がありますので、診断書が必要になります。ですので主治医へのご相談をお願いします」
「……わかりました」
それから彼女は免許証とマイナンバーカートを出した。用意周到だった。
「これが必要なんですよね」
薄気味悪さを感じつつ、鬼頭は確認させてもらい、業務の説明を続けた。
死後の役所への手続きや、友人や近隣住民への説明、親族の説得、財産管理のサポート及び葬儀等の生前の意思尊重など。
これらの守秘義務と報酬に関しての確認等。
「加えて、国からの補助金です」
安楽死を希望する者には国から終末補助金が支給される。
これは税や社会保障費の支払いや医療費の給付額により、金額が計算される。個人差はあるが持病や既往歴のない七十五歳の女性であれば数百万円は固い。
鬼頭が概算を提示すると、夫人はぼそっと呟いた。
「これがわたしの命の値段なんですね」
同情してほしいわけでもなさそうだったので、鬼頭は淡々と応えた。
「笑って死ぬには金がいります。重要なのは、これで何をしたいかです」
次に鬼頭が取り出したのは薄い冊子だ。
バゲットリストに使うものだった。
「仲野様には今後、最後の日を決めて頂きますが、その前にバゲットリストを作成していきましょう」
バゲットリストとは“死ぬまでにやりたいこと”を書き記したものだ。
エンディングプランナーの仕事は全体的に暗くなりがちだか、この部分だけは明るくなることが多かった。
終末補助金は安楽死の準備や葬儀のためとされているが、それだけで全ては使い切れない。依頼人は余った補助金を使い、自分の人生でやり残したことや、やりたかったことを叶えていく。
使い道は人それぞれだ。
旅行に行ったり、古い友人に会いに行ったり、子供たちと話をしたり、寄付をしたり、高級車を乗り回したり、思い出の土地に足を運んだりと様々だ。
バゲットリストを作る中で、その人の価値観が見えることも多い。
だが夫人は首を横に振った。
「……わたしは楽になれれば、それで構いません」
鬼頭は嫌なものを感じた。
バゲットリストの作成は安楽死のハイライトだ。
短期間で数百万を自由に使う経験は、ほとんどの者にとって初めてだ。戸惑う者はよく見るが、その権利を捨てる変わり者はそういない。
何か隠し事があるから早く終わらせたがってる、というのが最もありそうだった。
「今日はご家族は来られないのですか?」
鬼頭は当てずっぽうで聞いてみた。
夫人は震える声で答えた。
「わたくし、家族はおりませんので……」
下手くそな嘘だった。
※ ※ ※
鬼頭はデスクに座ると、レンジで温めた蒸しタオルを目に当てた。
上を向いてため息をついたところで黒瀬の声が飛ぶ。
「どうしたの? また変な客にでも当たった?」
「……今日は厄日です」
「変じゃない客のほうが少ないでしょ」
笑い飛ばすと黒瀬はタバコに火を付ける。
「話なら聞くよ。こっちの依頼人はファーストクラスで海外行ってるから。しかもガイドブックに乗ってるような超有名どころ。手配も楽だし助かるわー」
「羨ましい限りです」
「それで? 生き別れた兄弟でも探してほしいって頼まれたの?」
「そっちじゃありません」
鬼頭は黒瀬に大まかに事の成り行きを説明した。
「あー、そっちか」と黒瀬は頭を抱えた。
「どう思います?」
「その感じだと家族がいそうだよね。どっちみち調べないと」
「ですよね……」
終末期選択法が制定されてから何年もたつが、死後に依頼人の家族から訴えられるのはよくあるトラブルだった。
家族の安楽死に納得して同意書にサインしても、実際に亡くなると、喪失感を恨みに変えて訴訟を起こすのだ。安楽死の訴訟は諸外国でも大きな社会問題となっていた。それらを防止するために考えられたのがバゲットリスト──つまり“死ぬまでにやりたいことリスト”だった。
国が安楽死を推奨するのは、それが国家にとって好都合だからだ。老人が減れば財政問題の解消に役立つし、整備が遅れていると非人道的な国家として国際的な非難を浴びる。
一方で、終末補助金はそれに伴う社会の混乱を抑制するための“苦肉のバラマキ”だと言われていた。
バゲットリストを作成し、それを叶えさせるのは本人のためではない。
望みを叶える姿を記録することで、残された家族が死を受け入れやすくなるのだ。笑って逝った姿を覚えていれば訴訟を起こす確率は低くなる。
「……でもそのお婆ちゃん、バゲットリストに興味ないんでしょ?」
「ええ」
「精神疾患は? 鬱とかあるとアウトでしょ。適用除外に引っ掛かっちゃうし」
「確定してるのは高血圧だけです。認知症がどうのと言ってましたが、薬は無かったのでリスクを指摘されただけだと思います」
「ふーん。だとしても面倒そうな依頼人よね。一旦契約して、後から不都合な事実が色々出てきて大揉めしてとか──色んな可能性を考えちゃうよね」
「大手では面倒そうな依頼人は門前払いしてますからね。そのほうが合理的なんでしょうけど嫌な予感がするんですよね」
「なにそれ」
「妙に準備がよかったんですよ。不利になりそうなことは隠してましたし。おそらくよそで何度か断られて、うちに来たんだと思います。
それにバゲットリストや補助金が不要なら、一人で終わらせてもいいはずです。そうしなかったのはSOSのサインかもしれません。それを見逃して死なれたら気分が悪い」
「わたしたちもバッシングされるしねえ……」
エンディングプランナーは人から好かれる職業ではない。ハイエナと呼んで軽蔑する者もいるくらいだ。
相談した記録があれば、なぜ断ったり放置したのかなどと叩かれ、ただでさえ悪いイメージがさらに悪化する。
「安楽死を手伝えば人殺しなんて言われて、放置すれば人でなし扱いだもんねー。ほんっとに嫌になるわ」
「ろくでなしで間違ってないでしょう。面倒を起こさずに死んでくれる依頼人は大歓迎ですし」
「ちょっと。一緒にしないでくんない? わたしは誰が死のうと心の中では毎回、号泣してるんだから」
納得いかない鬼頭は「……そうですか」と低い声で応じる。
「それはそれとして山田さんを借りてもいいですか? 仲野さんについて調べてもらいたいので」
「わたしは知らないわよ? 鬼頭さんが仕事お願いしてるのかと思ってた」
「パチンコですかね」
スマホでメッセージを送ったところ、五秒で返事が来た。
「なんだって?」
「パチンコじゃなくスロットだそうです」
「勝ってんの?」
「三万飲まれたそうです」
チッと黒瀬が舌打ちした。勝ってたらタバコを強請るつもりだったのだろう。鬼頭がヒットマンなら黒瀬はチンピラだ。すばらしい職場環境だ。
放っておいても深みにハマるだけなので、山田には一旦帰ってもらうことにした。
※ ※ ※
報告が上がってきたのはそれから一週間後だった。
予想した通り、仲野秀子には配偶者がいた。
仲野敏夫は元市議会議員で、昔から亭主関白で鳴らしていた。子供は長男と次男がいたが共に独立して家を出ている。かなり抑圧されて育ったらしく、自立してからはほとんど連絡を取っていないらしい。
夫の敏夫は十数年前に糖尿病を患い、病院にも通わず放置したため左足を切断している。
全面的な介護が必要だったが、ヘルパーなど外部の人間は入っていない。食事の世話や入浴や排泄の手伝いなどは夫人が一手に引き受けている。噂では家族以外が出入りするのを、敏夫が頑なに拒んでいるのだという。
近隣のスーパーで敏夫が妻を怒鳴り散らす姿が目撃されてて、顔に痣ができている夫人の姿も確認されている。
調査報告書には、実際にわめき散らしてる写真がいくつも添えられていた。
※ ※ ※
「この件はなかったことにさせてください」
翌日のことだ。
鬼頭が話を始める前に、夫人が震えながら言った。
テーブルには用意した写真や調査報告書が散らばっていた。
鬼頭が軽く息を吐き出すと、彼女は絞り出すように言葉を発した。
「……嘘をつくつもりはありませんでした。その、話してしまえば、断られてしまうと思っただけで……。本当に、ご迷惑をおかけするつもりはなかったんです」
「気付かずに話を進めていたら、ご家族から訴訟を起こされていたでしょうね」
嫌味っぽく言うと恐縮したように体を縮こまらせる。
「本当に死ぬ気があったんですか?」
夫人からの返事はない。
鬼頭は煙草に火を付けた。
「怒っているわけではありませんよ。ただなぜ死にたいと思ったのかを知りたいと思いまして。あちこちでも断られてきたようですから」
顔をあげた夫人は素直に驚いていた。そこまで調べたのか、という顔だった。
やがて観念したように息を吐くと話し始めた。
「鬼頭さんは独身でいらっしゃるの?」
「女性は身勝手なので苦手です」
「随分と正直なのね」
夫人は口元に手を当て、苦笑する。
「今はすっかり変わってしまったようだけど、わたしの時代は男女の役割がはっきり別れていたの。男は外で働いて、女は家を守る。今よりも景気がよかったから、男性だけが働けば経済的にも足りてたのね。女は外の世界を知る必要なんてなかった。
ずうっとそれが当たり前だと思ってたけど、今は違うの。
人生の終わりが見えて、改めて振り返ると自分は今まで家族のために生きて来たから、最後くらいわがままを通したいと思ったの」
「それが人生を終わらせたい理由ですか?」
「半分くらいはね。後は衝動とやけっぱち」
「ご主人には話をされたんですか?」
「相談なんてしませんよ。怒られるに決まってます。あの人はわたしを、ただで雇える家政婦くらいにしか思ってませんから」
夫人は物悲しい表情をみせた。
「ご迷惑をおかけしてごめんなさい。調べるのにかかった費用は後でお支払しますから、請求書を送ってください。」
「断るとは言ってませんよ」
立ち上がりかけた夫人に鬼頭が言う。彼女は戸惑っていた。
「引き受けていただけるんですか?」
鬼頭は頷いた。
「あなたは安楽死を希望されていて、揉めそうな家族がいる。こんなのはよくあることですから」
「でも他のところでは──」
「大手は揉め事を嫌いますから仕方ないです。少なくともうちは門前払いしませんし、家族の方とも話します。でないと仲野様自身、本心から納得できないでしょう」
「……お気持ちはありがたいですが、主人は承知しませんよ。わたしがいなくなった後に外部の方が来るのでは駄目なんです。見ず知らずの人が自分の生活に関わるのを極端に嫌がるんです。そういう人たちだとワガママを聞いてもらえませんから……」
「暴力を振るわれるのは今の時代、普通ではありません」
急に切り出され、夫人は言葉を失った。
「ご主人は車椅子になったと聞きましたが、今でも暴力を振るわれてますよね?」
「誰からそんなこと……」
「あちこちで聞けましたよ。飲み屋やパチ屋を巡ったり、住民への聞き込みをしたりで。一週間ほどかかりましたが、色んな人に知られていたみたいですね」
「それは──」
「暴力は若い頃からですか? 暴言などでも構いません。日記などで形に残ってるものはありませんか?」
「……そんなものをお聞きしてどうするんです?」
「赤の他人であれば、人の安楽死にとやかく言う権利はありません」
鬼頭は夫人の目を見て言った。
「離婚という選択肢もありうるという話です」
※ ※ ※
待ち合わせの時間から三十分は経っていた。
冷めた珈琲を前に、鬼頭はじっと待ち続けた。時間通りに来るとは思ってなかったし、すっぽかされるのも大いにありうる。スマホでも弄ってればいいのだろうが、できれば万全の状態で向き合いたかった。
何気なく時計を眺めたところで、喫茶店の自動ドアが開いて、人のやってくる気配がした。
仲野敏夫は車椅子に乗り、夫人が後ろから押していた。
敏夫はでっぷり太っており、顔の皮が余っていた。目の下には大きな隈があり、顔色は灰色に近かった。見るからに不健康だが眼光は鋭く、怒りのせいかギラついていた。
夫人は敏夫を鬼頭のいるテーブルまで連れてくると、会釈をして去っていった。そうするよう夫から命じられていたのだろう。彼女の顔に痣がないのを確かめ、鬼頭は安堵する。
向かい合った敏夫は仏頂面だった。鬼頭は彼の息子とそう変わらない年齢だ。彼からすれば目の前の男は、ひよっこの小僧にしか見えないのだろう。
「家内がお世話になったようだねえ」
場違いな大声だった。
店内にいた客の視線が一斉に集まった。店員らも互いに目配せした。
当の敏夫まるで気にしない様子だった。意図して威嚇したのだろうから当然か。王様にでもなったつもりなのかと鬼頭は思う。きっと若い頃からこんな感じだったのだろう。
敏夫はわざとらしく咳払いすると、しゃがれた声で喋り出した。こちらも桁外れもボリュームだった。
「おたくの話は家内から伺いました。なんでも安楽死だかで家内をそそのかしたようじゃないですか。わざわざ話をしたいということでしたが、わたしもこういう体なものでしてねえ。手短に済ませてもらえるとありがたいんですが」
鬼頭は軽く頭を下げて名刺を差し出した。
「……はじめまして。わたくし、福富終末事務所でエンディングプランナーをしている鬼頭と申します」
敏夫は差し出された名刺には目もくれず、鬼頭を睨みつけた。
「おたくはいいですねえ。五体満足で人のことを呼び出して、ここまで歩いて来られて。車椅子で移動する人間の苦労なんてわかりゃしないんですかねえ? それで、なんですか? 家内を殺して金までせしめようって魂胆なんですって? それで仕事だなんて羨ましい限りだなあ」
「……敏夫様、なにかお飲み物は……」
「おたくに名前を呼ばれる筋合いなんてないよ! 馴れ馴れしい!」
爆弾のような怒鳴り声だった。ただでさえ視線が集まった状態だったので不穏さが一段と増した。
黙った鬼頭に見て気分を良くしたのか、敏夫はわざとらしく「これは困ったねえ」とこぼした。
それから、嫌々といった風に語り出した。
「わたしは見ての通り体が不自由なんですよ。持病もあるし人の手を借りないと生活できない。家内がいなくなったら、わたしは飯も風呂もトイレだってまともにできやしない。あんたらの金儲けでどれだけ迷惑を被るか想像したことがありますか?」
鬼頭は大きく息を吸うと目を閉じる。
それを諦めだと受け取ったのだろう。敏夫は粘着質な笑みを浮かべた。
「……では奥様のご希望には添えないという立場を取られるんですね?」
「おたくはわたしに死ねとおっしゃるんですか?」
鬼頭はわずかにうつむき、口に手を当てた。
ふふっと息が漏れ出した。
「そおおおですか。それはよかったあああ」
やけになったような大音量に、今後は敏夫があっけに取られた。
見かねた店員が駆け寄ってきたので、鬼頭はビールを注文した。店員は戸惑いながらもごもご言ってたので、鬼頭は改めて「ビールを。二つ」と伝えた。店員は涙目で去っていった。
鬼頭は煙草に火を付けると、敏夫に向かって箱とライターを差し出した。
そちらもどうぞ、という動作だった。
むすっとして敏夫は言った。
「煙草は医者から止められてるんだ」
鬼頭は周囲を見回した。
「医者なんていませんよ?」
ここで引き下がったら負けだと思ったのだろう。
敏夫は手を伸ばして奪うと火を付け、大きく吸った。何年ぶりかの煙草だったのだろう。大層うまそうな顔をした。
それは鬼頭が普段吸ってるものではない。敏夫が昔吸っていた銘柄だった。
「前に加熱式ってのも試しましたが、あれは駄目ですね。あんなもんは煙草じゃない。あれを作った奴はきっと一本も吸ったことがないんでしょう」
鬼頭がそう呟いたのを、敏夫はチラっと見た。
彼は加熱式や電子煙草を嫌ってると、山田の報告書に記されてあった。
「おたくは俺と交渉しに来たんじゃなかったのか。気でも狂ったのか」
「いえいえ」
店員がビールを運んできた。グラスは敏夫の前にも置かれた。
一瞬だけ迷った様子だったがヤニを吸ってタガが外れたのだろう。ぐいぐい飲むと、これまたうまそうな顔をする。
「離婚はしないぞ。あらかじめ調べたんだ。あんらたみたいな連中は、そういう卑怯な手段でくるんだってな。残念だったなあ」
「そんなものハナから期待しちゃいませんよ」
「あん?」
「いえね、ご主人が協力的で助かったんですよ。そりゃ祝杯でもあげたい気持ちになる。
うちは小さな会社で、頭のおかしなルールがたくさんある。大手なら面倒そうな案件は門前払いできるのに、こっちは明確な理由がないと断れないんです。奥様みたいのに相談に来られて困っていたんですよ」
鬼頭は煙草の灰を携帯灰皿に落とした。
「奥様はブラックリストに入ってる方でしてね。色々な事務所に相談に行って、何度も追い返されてるんです。うちでも一度は断ったんですが、もう他に行くところが無いんでしょうね。昼夜問わず百回近くも電話をよこしてくるし、頭がおかしいとしか思えない」
「あんた、人の家族に向かって──」
「こっちだって困っていたんですよ。断るに断れないのにしつこく何度もかけてきてねえ。こっちだって客くらい選びたい」
「さっきから何だその口の聞き方は!」
「だってそうでしょう!」
声のボリュームを上げると、鬼頭は大げさな身振り手振りを交えた。
「ご主人がさっき言ったように、自分の我が儘でご家族を見捨てるようなことをしてるわけです。残された人間がどれだけ困るかまるで考えてない。下手したらご主人の命まで危ぶまれる状況になるわけです。そんなの勝手すぎるでしょう? だから今日、ご主人がはっきり言ってくれて助かったんです。これで体よくお断りできるって」
敏夫の額には脂汗が浮かんでいた。
鬼頭は話は終わったとばかりに視線を逸らした。
「ちょっと待て。おかしいぞ。百回も電話してたって? そんな素振りはなかったぞ」
「隠れてやってただけですよ。同じ家に住んでても全てを把握できるわけじゃありません」
「どうしてそんなに……」
「死にたがっていたかって?」
続く言葉を鬼頭は横取りする。
「死にたい理由なんてたくさんありますよ。毎日ご主人の世話をして自由な外出も許されず、お金を使ったら逐一報告をしなければならない。歳を取れば自分の体も自由が利かなくなるし、疲れてしまっても無理はありません。安楽死というのは要するに、他人から許可をとっただけの自殺ですから。サポート付きなら周囲に迷惑はかかりませんが、正規の方法が許されなければ、自分勝手に一人で終わらせるでしょうね」
敏夫は沈黙した。考えを巡らせてるのか、難しい顔をしていた。
「ご主人はまだ運がいい。こういうのは安楽死が認められる前なら、当人が亡くなって初めて発覚するものでしたから。今ならまだ手遅れではない。説得するなり話し合うなり頑張ってください」
伝票を取って行こうとしたときだ。
「見殺しにするつもりか」と敏夫が言った。背を向けたまま答える。
「今さら止めようとしても無理でしょう。本気でやろうって人は、放っておいても一人でやります。家のどこかに首吊り用のロープでも置いてありますよ」
「そこまでわかってて放っておくのか。あいつが死んだら俺も危ねえって話はしたよな。それでハイ、サヨナラなんて、あんまりじゃねえか?」
この期に及んで、上から目線の被害者面だった。
「依頼が取り下げられるなら、我々の知ったことじゃない。赤の他人ですし、無償でトラブルに首突っ込んだりはしませんよ」
「それは、そうだが──」
「ではお元気で」
「……客ならいいのか」
来た、と鬼頭は思った。
こういう輩には下手に出ても無駄なのだ。ゴマをすったり媚びを売る連中には慣れてるだろうし、会話をしたければ強引にでも主導権を握らなければならない。
「座れ。客なら話を聞くんだろう」
鬼頭は面倒そうに振る舞うと席に着いた。
「続行するなら本人をお呼びしましょうか。当事者不在で話しても仕方ないですし、ご主人には色々と負担をかけてしまったので、ここでお帰りになられても……」
「必要ない」
「は?」間の抜けた声が出た。
予定にない展開だった。
敏夫は邪悪な笑みを浮かべると、愉快そうに言った。
「俺がおたくの客だよ」
※ ※ ※
事務所の時計の針は午後八時を過ぎていた。
鬼頭が眉間に皺を寄せたままパソコンに向かい合ってると、「ただいまー」と黒瀬の声がした。「おかえりなさい」と鬼頭は小難しい顔のまま応えた。
黒瀬はドーナツの袋を置くと、しげしげと鬼頭のことを眺めた。
「仲野さんの件がどうなったか聞こうと思ったけど……何だか忙しそうね」
「ご主人の敏夫さんも追加されました」
黒瀬はドーナツをかじりながら首をかしげた。
「なにそれ? どういうこと?」
「ご主人のほうも安楽死したいと申し出たんですよ」
「はあ?」
黒瀬は素っ頓狂な声をあげた。
「ちょっと理解が追い付かないんだけど……ご夫婦を仲直りさせる方向でやってたんじゃなかったっけ?」
「ええ」と鬼頭は答えた。
当初の予定では仲野夫妻の関係修復を考えていた。
離婚という考えも一瞬浮かんだが、息子二人がどう動くかがわからない以上、避けるのが無難だった。
一方、夫人の希死念慮は夫が原因なので、それさえ変えられれば安楽死にこだわる必要はないと考えたのだ。離婚をちらつかせて動揺を誘い、どうにか敏夫の態度を改めさせるというのが当初のブランだった。
息子たちもそれなりの会社に勤めてるので、うまくやれば謝礼を期待できるだろうという思惑もあった。
「途中まではこちらの思惑通りに進められたんですが、ご主人の思い込みは想定外でした。あまりに能天気で笑うしかないのですが……奥様との食い違いがこれほど凄まじいとは思わなかった」
「何言ってるかわかんないんだけど……鬼頭君、その依頼を引き受けちゃったの? 旦那さんも安楽死させるって難しいんじゃない?」
「適用除外に引っかかりますからね」
終末期選択法による安楽死は誰でも行えるわけではない。
敏夫の場合、糖尿病で足を切断してるくらいなので適用除外の五番目──特定疾患の部分に間違いなく引っかかる。
適用除外の五項目は安楽死が無秩序な殺人にならないための線引きであり、これを破ると相応の罰が待っている。
「確認を怠ったケースでは、見せしめで懲役刑を喰らってましたからね。普通に考えれば無理ですが、やりようがないわけではないですよ」
「いやいや、ルールはルールでしょ。鬼頭君、刑務所に行きたいの?」
「大抵のルールには穴があります」
「人の話を聞けよ。──って、ひょっとして途上国の事例でも漁ってるの?」
ええ、と鬼頭は答えた。
適用除外のルールは海外でもほぼ変わらない。WHOの安楽死のガイドラインに則って法整備がされているためだ。先進国で安楽死を行おうとした場合、細かな条文は異なるものの、五原則から外れた事例は許可されない。
例外は発展途上国の場合だ。
「途上国なら先進国ではバッシングされるような安楽死でも決行できます」
いわゆる安楽死ビジネスだ。
適用除外に該当する場合でも受け入れている国がある。それらの国は見返りに、死後、資産の一部ないしは全額寄付することを求めている。
独裁政権や、これといった観光資源のない小国がこれを実施している。国際的な非難はあるものの需要があり、かつ内政干渉にあたるため強制的にやめさせることができないのが現状だ。
「こういう情報は表には出ませんが同業者なら情報は持っているはずです。向こうも表沙汰にはしたくないでしょうから交渉は難しそうですが……下手なところに依頼人を送れないですからね」
体が不自由な金持ちがなんて、鴨が葱を背負って歩いてるようなものだ。治安の悪い国なら安楽死どころか空港を出た途端に襲われるだろう。
「仮に成功したとしても貧乏くじよね」
黒瀬の指摘に鬼頭は頷く。
途上国で安楽死した場合、資産の大半が消えることになる。それは鬼頭たちが受け取る報酬にも影響する。
適用除外の穴をつくこと自体も本来ならばルール違反だ。他の事務所に借りを作ることになるし、好き勝手やりすぎれば摘発の対象になる。
「……利益は出ませんが、夫妻のことを考えればこれが一番の落とし所です」
「鬼頭君って厄介ごとが嫌いなくせに、進んで地獄に足を突っ込むところあるよね。破滅願望でもあるんじゃない?」
「積極的に違反してるわけではありません。こっちはグレーなことをやってる会社を調べるだけで、実際に連絡を取るのは本人ですから」
「──って自分に言い聞かせてるんだ」
呆れたように言うと、黒瀬はドーナツの袋を鬼頭のデスクに置いた。残りは食べろということだろう。長丁場になりそうだったので助かった。
「で? なんで旦那さんは自分も死にたいなんて言い出したの?」
「言えません。守秘義務がありますので」
「いいじゃない。秘密にしろってのは外の人間に対しての話でしょ。言っちゃったほうがスッキリするわよ?」
「言いたくないです」
鬼頭が突っぱねると、黒瀬は真顔になった。
「鬼頭さんが誰かの逆恨みで刺されて死んだら、引き継ぎするのわたしでしょ? そうなったときに情報が足りてないと困るからさっさと吐けって言ってるの」
鬼頭はカツアゲに遭ってる中学生の気分を味わった。
休憩がてら、一服してから伝えた。
「プロポーズのときに言ったそうです。死ぬときは二人一緒に逝こうと」
黒瀬の眉間に皺が寄る。
「敏夫さんは五十年間その約束を覚えており、奥様も同じ気持ちだと思ってたそうです。介護をしてくれるのも面倒を見てくれるのも、かっとなって殴ったり怒鳴ったり、度重なる不倫や隠し子を許してくれたのも、一途な愛情から来てるものだと考えてたようです。秀子さんが安楽死を望むのは、ご主人が病気の関係で先に逝くのを見てられないから、悲しみのあまり命を絶とうとしてるのだろうと……」
話の途中で鬼頭は押し黙った。
黒瀬が汚物を見るような目を向けていたからだ。
「……馬鹿じゃないの? それって絶対許したわけじゃない。ありえない。人格を疑うわ」
「わたしが言ったわけではありません」
「奥さんはなんて言ってたの?」
「隠し子のことは知らなかったそうです」
「知らなかったのにバラしちゃったの!?」
「敏夫さんが当然のように話してたので……」
「うっわあ……。これだから男って駄目なのよ。大体どうしてそんな思い込みを五十年もするかなあ。染色体にバカが刻まれてるんじゃない?」
「落ち着きましょう。主語がデカいです」
「しっかり息の根止めなさいよ」
怒る黒瀬を冷静にたしなめると、鬼頭は作業に戻った。結局、三日がかりの仕事になった。
※ ※ ※
鬼頭は行き交う人々を眺めていた。
大半の人はキャリーケースを持ち、そうでない者も巨大なリュックを背負っている。
空港内の喧噪に湿っぽさはなく、誰もがどこか浮かれている。天井は広く開放的で、白く透明な光が降り注いでいた。
鬼頭がそれとなく周囲を気にしてると、数十メートル先で手が上がった。
はじめ、それが誰だかわからなかった。
近づいてみて、ようやく秀子夫人だというのがわかった。
白髪でぼさぼさだった髪は艶のある茶色に染められていた。くすんだ色合いだった服装も鮮やかで真新しいものに変わっていた。何より表情が生き生きしていた。
「来て下さったんですね」
嬉しそうな彼女に「見違えましたね」と鬼頭が言うと、照れくさそうな顔をした。
「服を買うのなんて何年かぶりです。髪を染めるのも主人は嫌ってましたから。若作りして誰に見せるんだとか言って」
「そちらのほうがずっとお似合いです」
「ありがとう。社交辞令でも嬉しいものね」
彼女も他の人と同じようにキャリーケースを引いていた。体格に比べて大きめだったが、バランスは悪くない。スポーツクラブに通って体力をつけたと話していたせいか、背筋が伸びて姿勢も良くなっていた。
彼女のバゲットリストは旅行が大半を占めていた。
国内や海外など行きたいところが無数にあったので、期間内に全てを回れるようスケジュールを調整するのは骨が折れた。
「今日からは海外ですね?」
「ええ」
「十数カ国、回るんでしたね」
年齢を考えればかなりハードなスケジュールだった。
「行ってみたい場所がたくさんあったの。今までは主人の世話を見ないといけなくて行けなかったから」
ご主人の敏夫は先週、とある途上国にて安楽死を迎えた。
日程をずらしたのは夫人の強い希望からだった。
ご主人の“約束”を伝えたときは鬼の形相だった。
「一緒に死にたいというご主人の希望に沿うつもりは?」と聞いたところ、「それだけはお断りです」ときっぱり断られた。
一芝居打つ必要があったので、鬼頭は二人を隔離した。
夫人は国内で死ぬことができるので、最後の瞬間はリモートでどうかと提案すると敏夫は激怒した。二人とも途上国で終わらせるとなると、治安の面で不安が残ることを伝えたが駄目だった。
なだめた後に、夫人が「勝手をしてしまった自分には合わせる顔がない」と言ってたと伝えると、敏夫の態度が軟化した。
決め手となったのは『あの人ならわかってくれると信じてます』という一言だった。それを聞くと敏夫は「あいつは昔からワガママな女だったんだ」と満足そうに笑って受け入れた。
最期は遠く離れた場所でお互いベッドで横になり、モニター越しに終わりの時を迎えた──ように見せかけた。
旦那の最期を見届けると夫人はてきぱきと身支度を整えて「天ぷらを食べにいきましょう」と言い出した。鬼頭もご一緒したのだが、彼女はうっとりした表情で特上を平らげていた。
夫人は当日のことを思い出したのか、胸に手を当てた。
「どうしようもない人でしたが、幸せに逝けて何よりです」
そう言えることが立派だった。
「今ならまだ安楽死を取り下げることが可能ですよ」
鬼頭の発言が意外だったらしく、夫人は驚いていた。
「ご主人が亡くなられて状況も変わりましたし、死ぬ必要もなくなったのでは?」
考える素振りを見せたものの、彼女は首を横に振った。
「おとなしく死にますよ。そうでないとあなたが働き損になってしまうでしょう?」
「そうなったら息子さんたちに経緯を話して、金をせびりに行きます」
冗談だと思われたらしく、強めに肩を叩かれた。
「別にもういいんですよ。最後に自分の人生を取り戻したかっただけですから。歳をとって病気になったりすれば子供にも迷惑をかけますし。やりたいことが済んじゃったら退屈しそうだもの。……それにあの人がいなくなった後に寂しい思いをするのが嫌なのよ。あの人にほんのちょっとでもそんな感情を抱きたくないの」
鬼頭はうなずいた。
彼女にとって敏夫は人生の一部だったのだろう。善人であれ悪人であれ、半身であり、パートナーだったのだ。
「よい旅を」
手を振ると彼女はキャリーケースを引いて去っていく。
旅を終えて帰ってくれば彼女は人生に幕を下ろす。
エンディングプランナーに、最後の瞬間に立ち会う義務はない。事務上の手続きは済んでるので正真正銘のお別れだった。
見送りを済ませると、鬼頭は空港内の喫茶店で食事をとることにする。
珈琲とカレーを頂きながら、飛び立っていく飛行機を窓から眺めた。
生きる方を選べば、あと十年は長生きできたかもしれない。でもその時間を彼女は拒んだ。そちらを選べば様々なしがらみにより、自分らしく生きられないと思ったのだろう。最期の時を自分で決めれば、それも変わる。周囲も咎めはしないだろう。この先、何十年かけても得られないであろう経験や歓びを彼女は手にするのだ。
安楽死について様々な意見があるが、鬼頭は存続してほしいと願っている。
終わりを意識すれば、時間と金を有意義に使えるようになる。選択肢が増えれば、後悔のない終末を迎えられる人も増えるだろう。
苦労のない人生などない。
だが精一杯生きてきた者の最期が不幸だなんて、あってはならないはずだ。
「さて──」
珈琲を飲み終えると鬼頭は立ち上がる。
そろそろ次の依頼人との待ち合わせだった。これから会うのは、出張だらけの人生に嫌気が差したという五十代のビジネスマンだ。
鬼頭は会計を済ませると颯爽と歩いていく。
今日も仕事だ。人を殺そう。




