もう逃げない。終わらせる。
春坂は夜の闇に紛れて、監視の目をくぐり抜けた。冷たい風が顔を撫で、街灯の影が長く伸びる通りを、誰にも気づかれぬよう足早に進む。心の奥では、淡い恐怖と熱い決意が入り混じっていた。
「……もう、逃げる必要はない」
握りしめた拳に力を込め、過去の記憶を押し流すようにして、一歩一歩足を進める。目の前に見えるのは、かつて自分を虐げた家の姿だ。雨に濡れた瓦や、薄暗い窓。あの頃、幼い自分を押さえつけた影が、今もそこに立っているような錯覚に襲われる。
心臓が跳ね、吐き気がわずかに混じる。しかし、恐怖を押し殺す力の源は、すべての怒りと悔しさだ。戦場で鍛えた意志、藤宮との訓練で培った覚悟、そして自分を守るために身につけた冷静さ──すべてが今、ひとつの方向に向かって流れ込む。
「……終わらせる」
春坂の目に、決意の光が宿る。後悔も迷いもない。復讐の対象が、自分の過去の影であろうと、もはや怖れるものはない。
背後には、戦場で得た確かな力がある。藤宮の存在が、心の片隅で微かに支えとなっていたことにも、春坂は気づいていた。あの目の奥にあった、
ほんの少しの嫉妬の色──それも、今は自分の歩む道の力になる。
夜の闇を抜け、春坂は家の前に立ち止まる。ここから先は、自分一人の戦いだ。しかし、心は揺るがない。
──この夜、春坂は、過去の影と真正面から向き合うために、静かに、しかし確実に歩を進めるのだった。
春坂は家の扉に手をかけた。雨で濡れた木製のドアは、冷たく、硬い感触が手に伝わる。息を整え、深く息を吸い込む。今までの自分の人生のすべてが、この一歩の先に結晶として待っているかのように感じられた。
足音を忍ばせ、そっと家の中に入る。
室内は薄暗く、かつて自分を抑えつけた空気がまだ残っているような錯覚に襲われる。
だが春坂は、怯えることなく視線を前に向けた。心の中で、自分に言い聞かせる。
「もう逃げない。終わらせる」
自分に言い聞かせるように、言う。
幼い頃に感じた恐怖、屈辱、絶望──そのすべてを力に変え、春坂は家の奥へと進む。脳裏には、戦場で培った冷静さが働き、感情に流されることはない。すべて計算され尽くした動きで、一歩一歩、過去と向き合う。
視線の先には、影のように立つ人物。春坂は一瞬、かつての自分の恐怖を思い出すが、それでも足を止めずに進む。胸の奥の怒りが、静かに、しかし確実に燃え上がっていた。
──これが、春坂の復讐の始まりだった。
いや、そのはずだった。
失敗しちゃいましたね。理由は来週の金曜日までには出すはずの、後日談で明かされるはずです。




