胡蝶之夢
「創造神は救いたい」という作品も書いています。そちらが本命なので、こっちにあまり手が届いていない可能性があります。ご了承下さい。
この世界に「裂け目」が生まれたのは、十数年前のことだった。
最初にそれが確認されたのは、とある地方都市の工場跡地。
空気が歪み、無数の光の粒が吸い込まれるように一点へと収束し、ぽっかりと“穴”が開いた。
国は当初、大気現象や地殻変動の副産物と考えたが、その予測はすぐに覆された。
穴の向こうには、別の世界が広がっていたのだ。
こちら側の世界
——通称”表”世界とほとんど同じ地形を持ちながら、そこはまったく異なる歴史を歩んだ“もう一つの世界”だった。
国々は総じて好戦的で、中でも「大日本制覇帝國」と呼ばれる巨大国家は圧倒的な軍事力を誇り、世界秩序を武力で維持しようとしていた。
表政府は急遽、「”裏”世界管理庁」を設立し、穴の先にある裏世界との接触と調査を開始した。
やがて帝國との間に暫定的な交渉が成立し、物資交換が始まると、裂け目は国家にとって不可欠なルートとなった。
だがお互いの信頼は脆く、裏世界の好戦性を前に、表側には常に緊張が漂っていた。
そんな中で、裂け目周辺では不思議な噂も囁かれた。
「霧の中に吸い込まれるような穴を見た」
「行方不明の子どもがいた」
——真偽不明のまま処理されたそれらの噂の中に、ひとつの事実が紛れ込んでいたことに、誰も気づく者はいなかった。
ひとりの少年が、確かにその穴へと消えていた。
虐げられ、逃げるように路地を走り、咄嗟に飛び込んだ狭い隙間。本人は「マンホールだったのだろうか」と記憶を曖昧に語るが、それこそが未発見の裂け目だった。
少年はそのまま裏世界へと渡り、帝國の国民に拾われ、新しい名を与えられて生きていくことになる。
裏世界での名は——春坂智。
その名を、自分の“本当の名前”だと、少年は疑いもせず信じていた。ある時までは。
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胸の奥がじくじくと痛む。誰かが怒鳴る声。何かが壁に叩きつけられる音。
暗い玄関の影にしゃがみ込んで、息を殺していた幼い自分。
視界の端で、伸ばされた手が服をつかもうと迫ってきて——
逃げろ。
あの時、自分の足は勝手に動いていた。
裸足のまま道路へ飛び出し、雨で冷えたアスファルトの痛みもわからなかった。
ただ必死で走り、追いかけてくる足音から逃げることだけを考えていた。
パトカーのサイレンが鳴っている。
誰かが叫んでいる。
誰かが——自分の名を呼んでいる。
だけど、もう思い出せない。あれが誰の声だったのか。
息が切れて倒れ込んだ時、目の前に“穴”があった。
マンホールの蓋が開いていたのかもしれない。
いや、あれは……そんな単純なものじゃなかった気がする。
濃い霧のようなものが、暗い口の中で渦を巻いていた。
怖い。でも、戻ればもっと怖い。
幼い自分は、その黒い裂け目に吸い込まれるように落ちていった———
春坂智は、そこで目を覚ました。
「……また、か」
薄い天幕の天井が視界に映る。
夢の形はいつもぼんやりしているくせに、胸のざわつきだけははっきり残る。
春坂智。今の自分の名前。
拾われたとき、そう名付けられた。
捨てたのは——そう、夢に出てくるあのクソみたいな大人だろう。
顔を洗うと、冷たい水に意識が戻っていく。
軍服の袖に腕を通し、腰のベルトを締め、外に出ると、点呼の準備のために隊員たちが並んでいた。
「春坂、こっちだ」
号令に従い列に加わる。
いつもの体力訓練をこなし、汗で服が肌に貼りつく頃には、夢の残滓はようやく薄れていた。
たった10話前後で終わってしまう作品ですが、どうぞ応援をお願い致します。後日談も書く予定です。




