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呪われ姫と仮面の宮廷魔術師

作者: 百鬼清風

 リュシアンナ・エル=クラウディアは、王宮の片隅にある離宮で暮らしていた。かつては賓客を迎えるために建てられた優美な館だったが、今では壁紙は褪せ、庭は荒れ果て、静寂だけが支配している。世話をする者も最低限しかおらず、彼女の周囲は常に空虚だった。


 理由は一つ。彼女が「呪われ姫」と呼ばれていたからだ。


 生まれ落ちた瞬間から、胸には黒い紋章が刻まれていた。それに触れた者は必ず不幸に見舞われる、と囁かれてきた。乳母は彼女を抱き上げた翌日に階段から転げ落ちて大怪我を負い、遊び相手だった侍女は高熱を発して命を落とした。偶然だったのかもしれない。けれど、誰もそれを信じようとはしなかった。


 以来、リュシアンナは宮廷の人々から遠ざけられ、存在していながら存在しない者のように扱われてきた。毎日の食事は扉の前に置かれるだけ。声をかけてくれる者もいない。彼女の耳に届くのは、廊下を通る侍女や兵士たちのひそひそ声ばかりだった。


「まだ生きているのかしら、呪われ姫は」

「触れたら災厄が降りかかるんだろう。気味が悪い」


 リュシアンナは幼い頃こそ涙を流したが、いつしかそれすらなくなった。感情を失った人形のように、ただ一日をやり過ごす術だけを覚えてしまったのだ。


 そんなある日のこと。王命を受けて、珍しく侍女が部屋へと入ってきた。まだ若く、恐怖を押し隠すように笑顔を作っているが、その目は怯えていた。


「姫さま、衣を整えるよう仰せつかりました」


 リュシアンナは黙って立ち上がり、裾を広げる。彼女に近づくこと自体が侍女にとっては苦行なのだろうと察していたから、できる限り動かずにいた。


 しかし、次の瞬間。侍女の指先が彼女の手にかすかに触れた途端、廊下の向こうから悲鳴が上がった。別の侍女が大きな花瓶を抱えたまま足を滑らせ、階段を転げ落ちていく。重い音が響き、静寂が訪れた。駆けつけた者たちが慌ただしく叫び、泣き声が混じる。


「まただ……呪いだ……!」


 リュシアンナの胸が冷えきった。自分が望んだわけではない。けれど周囲の目は、まるで彼女こそが死を呼んだ張本人であるかのように突き刺さる。恐怖と嫌悪と、そして蔑みが。


 その日を境に、彼女はさらに厳重に閉じ込められることとなった。


 だが数日後、意外な命令が下る。国王自らが、彼女を宮廷へ呼び出したのだ。


 久しく足を踏み入れたことのない謁見の間は、燦然と輝いていた。大理石の床、黄金の装飾、色鮮やかなタペストリー――どれも彼女の住まう離宮とはあまりに対照的だ。廷臣たちが整列し、ざわめきを押し殺して彼女を見つめていた。


 王は冷厳な眼差しを向ける。

「リュシアンナよ。お前の呪いを解明するため、宮廷魔術師に身を預けよ」


 驚きと動揺が広がる。誰もが彼女を遠ざけようとしてきたというのに、今になって王自らが呼び出すとは。廷臣たちの視線は好奇と恐怖で渦を巻いていた。


 そのとき、重い扉が開き、黒衣の男が歩み出てきた。


 背は高く、肩まで流れる白銀の髪が蝋燭の光を受けて輝く。だが顔は仮面に覆われていて、その素顔は窺えない。漆黒の仮面には古代文字のような紋が刻まれ、冷たくも荘厳な雰囲気を放っていた。


「宮廷魔術師ゼルヴァン。お前に、この娘を託す」


 王の言葉に応じ、男は無言で一礼した。そしてゆっくりとリュシアンナへ顔を向ける。


 仮面の奥の瞳がどんな色をしているのかは見えない。けれど、確かに彼女をまっすぐに見ているのがわかった。


「……君が、呪われ姫か」


 低く落ち着いた声。その響きは不思議と彼女の心に染み込んできた。怯える彼女に、ゼルヴァンは仮面越しに微笑んだように見える。


「安心しろ。俺は恐れない」


 その一言が胸に突き刺さる。誰もが彼女を避け、恐れ、存在を否定してきた。けれど、この男は違った。


 謁見が終わり、人々の視線から遠ざかったとき、ゼルヴァンは彼女の耳元に静かに囁いた。


「君の呪いは、ただの絶望じゃない。形を変えれば、力に変わる。俺は必ず証明してみせる」


 リュシアンナは言葉を失った。誰もが呪いを憎しみ、恐怖し、彼女自身の存在を否定する中で――初めて「希望」として語ってくれた人が現れたのだ。


 胸の奥で、凍りついていた心に小さな炎が灯る。

 その微かな火が、これからの運命を照らすものになると、彼女はまだ知らなかった。


 リュシアンナが連れて行かれたのは、王宮の外れに聳える古い塔だった。灰色の石を積み上げて造られたその姿は陰鬱で、長年人が寄りつかぬ廃墟のようにも見える。だが近づいてみれば、扉には精緻な魔法陣が刻まれており、窓からは奇妙な光が漏れている。そこが宮廷魔術師ゼルヴァンの居所であると告げられ、彼女は小さく息を呑んだ。


「ここが……」


 従者に促されて中へ入ると、目に飛び込んできたのは壁一面を覆う本棚だった。羊皮紙や魔術書が乱雑に積まれ、机の上には試験管や水晶玉が所狭しと並んでいる。生活の場というよりは、研究にすべてを捧げるための空間だった。


 ゼルヴァンは仮面越しに彼女を見て言った。

「今日からここがお前の住まいだ。助手として、俺の実験を手伝ってもらう」


 助手――聞き慣れぬ言葉に、リュシアンナは戸惑った。これまで「呪われ姫」と呼ばれるばかりで、誰かの役に立つことなど許されなかったのだ。


「私に……できることなど……」

「できるさ。君にしかできないこともある」


 そう断言され、彼女は言葉を失った。


 最初の数日は、混乱の連続だった。

 魔法陣に粉末を撒けば爆ぜ、調合した薬液は泡を吹いて飛び散り、魔力を測定する水晶球は音を立てて割れた。


「ひっ……!」


 破片が飛び散り、思わず身をすくめる彼女を、ゼルヴァンが咄嗟に庇う。厚い外套が火花を受け止め、彼の腕が彼女を包み込んだ。


「大丈夫か」


 低い声が耳元に落ちる。

 リュシアンナの心臓は大きく跳ねた。これまで他者に触れられることは災厄を意味した。だが彼は恐れず、むしろ当たり前のように守ってくれる。


「……ごめんなさい、私のせいで」

「謝るな。失敗は学びのうちだ。お前の呪いが暴走したわけじゃない。俺の調整不足だ」


 慰めの言葉に、胸がじんと温まった。


 その夜。

 ベッドに横たわっても眠れず、リュシアンナは窓辺に座り込んでいた。月明かりが白い頬を照らし、溢れ出した涙が頬を伝う。


 自分は役立たずだ。呪いを持つだけで、失敗ばかりで、ゼルヴァンの足を引っ張っている。そう思うと、心が重く沈んだ。


 そのとき、静かな足音が近づいた。

「眠れないのか」


 振り返ると、ゼルヴァンが湯気の立つカップを持っていた。琥珀色の液体から漂う香りは、宮廷では滅多に嗅ぐことのない紅茶だった。


「……これは?」

「俺の好物だ。苦いが、心は温まる」


 カップを差し出され、彼女はおずおずと受け取った。指先が彼の手袋に触れる。ぞくりと背筋が震えたが、不思議と嫌悪はなかった。むしろ温もりに心が揺れる。


 一口すすると、温かな味が胸に広がった。

「どうして……私なんかに……」

「君なんか、ではない。君だから、だ」


 その言葉に涙があふれ、止まらなくなった。彼は黙って隣に腰を下ろし、ただ夜が明けるまで共に過ごしてくれた。


 翌日も実験は続いた。失敗もしたが、少しずつ慣れ、彼女は役割を見つけていった。書物を整え、薬草を刻み、魔法陣を清める――小さなことでも「自分にしかできない」と感じられた。


 あるとき、机の上で彼女が試験管を倒しかけた瞬間、ゼルヴァンの手が伸び、彼女の指と重なった。手袋越しの感触が鮮烈に伝わり、思わず息を呑む。


 長い沈黙。互いの視線が絡み合い、時間が止まったように思えた。


「……怖くないのですか」

 震える声で尋ねると、彼は仮面越しに微笑んだ。

「君に触れることを、怖いと思ったことは一度もない」


 リュシアンナの胸が熱くなる。生まれてからずっと「触れれば不幸になる」と恐れられてきた自分が、今はただ一人の手に守られている。


 夜。暖炉の前で静かに本を閉じたゼルヴァンが、ふいに言った。

「リュシアンナ。君が望むその時まで、この仮面を外すことはない」


「……なぜ?」


「俺の素顔を知るのは、君が望む瞬間でなければならない。強制ではなく、選んだうえで受け入れてほしいからだ」


 彼の言葉は厳しくも、優しさに満ちていた。リュシアンナはただ頷き、胸の奥に芽生えた感情を確かめるように瞳を閉じた。


 呪いに縛られた彼女の世界に、初めて温もりが差し込んでいた。


 宮廷でリュシアンナが暮らすようになってから、わずかながら日々に彩りが生まれていた。ゼルヴァンの塔で過ごす時間は、これまでの孤独な日常とはまるで違った。彼は仮面の奥から冷たい視線を向けることもなく、役に立たぬと切り捨てることもない。ただ、ひとりの人間として彼女を見てくれる。その温もりに触れるたび、胸に小さな灯がともるのを感じていた。


 けれど、宮廷という場所は残酷だった。呪われ姫に希望を与えることを、誰もが快く思ってはいなかったのだ。


「国外追放の勅命が近いらしいぞ」

「いや、むしろ修道院に閉じ込めると聞いた」


 廊下を通る廷臣たちの囁きが、耳に刺さった。彼女は足を止め、背を壁に寄せて震える。追放という言葉は、ただの噂ではない。これまでも幾度となく囁かれ、現実味を帯びていた。王が気まぐれに守っているだけで、政敵や王妃派が望めば、たちまち処分される。それが彼女の立場だった。


「呪いを国境の敵へ送りつければ、兵を使わずとも勝てる」

「だが、もしも暴走すれば我らが滅びる。やはり消し去るべきだ」


 彼らの声は冷たく、刃のようだった。リュシアンナは拳を握り、ただ俯いた。


 数日後。国王の誕生日を祝う盛大な舞踏会が開かれることとなった。宮廷に仕えるすべての令嬢、貴族たちが集められる大行事。王の命によって、リュシアンナも参加を命じられた。彼女にとっては数年ぶりに大勢の前に姿を晒す機会であり、それはすなわち人々の好奇と嘲笑を浴びることを意味していた。


 煌びやかなシャンデリアの下、絹の衣を纏った令嬢たちが色とりどりの扇を手に談笑している。リュシアンナが姿を現した瞬間、場の空気がぴんと張り詰めた。音楽が途切れ、視線が集中する。


「まあ……あれが呪われ姫」

「思ったよりみすぼらしいわね」


 ささやき声はやがて笑い声へと変わった。彼女のドレスは王の命で誂えられたものだが、他の令嬢に比べれば質素である。磨き上げられた宝石もなければ、鮮やかな羽飾りもない。


 取り囲むように近づいてきた三人の令嬢が、扇で口元を隠して嘲る。

「呪いを振りまく姫さまが、舞踏会に出てくるなんて」

「踊りの相手を務める殿方は気の毒ですわね。命が惜しくなければ、ですけれど」


 侮辱の矢は容赦なく彼女を貫いた。笑いをこらえるように肩を震わせる令嬢たちを前に、リュシアンナは足を動かせず、ただ俯いて唇を噛んだ。


 そのとき、重い足音が響いた。


「――俺が相手を務めよう」


 会場に現れたゼルヴァンの声は低く、しかしはっきりと響き渡った。人々の視線が一斉に彼へ注がれる。仮面をつけた宮廷魔術師が舞踏会に現れることなど滅多にない。それだけで場はざわめき、空気が一変した。


 彼は迷いなくリュシアンナへ歩み寄り、その腰を抱き寄せる。仮面の奥の視線が、彼女だけに注がれていた。


「……っ!」


 会場が息を呑む。

 ゼルヴァンは彼女の耳元に口を寄せ、囁いた。


「君は美しい。誰に何を言われようと、それが真実だ」


 頬に熱が広がり、心臓が高鳴る。彼の声は優しく、それでいて力強かった。周囲の嘲笑など一瞬でかき消える。彼女は震える手で彼の外套を掴み、必死に涙をこらえた。


 音楽が再び流れ始める。二人は視線を浴びながらも、ゆっくりと舞踏を始めた。

 人々のざわめきの中で、リュシアンナの世界には彼の腕の温もりだけが残っていた。


 だがその夜、宮廷の奥の一室では別の会話が交わされていた。


「やはり呪いの力は使える」


 囁いたのは宰相エルドラン。分厚い書物を前に、狡猾な笑みを浮かべている。


「彼女を国外に追放するなど愚策だ。あの力を兵器として操れれば、隣国を屈服させるのも容易い」


 側近が不安げに尋ねる。

「しかし制御は困難かと……」

「制御できぬならば、制御できる者を見つければよい。宮廷魔術師ゼルヴァン――あの男ならば可能だろう」


 宰相の目が怪しく光る。

「二人を絡め取れば、王国は無敵になる」


 その言葉は、これから渦巻く陰謀の影を示していた。


 秋の夜は冷たく澄み、研究塔の窓から見える庭園には銀色の霧が漂っていた。リュシアンナは眠れず、廊下を歩いていた。昼間の舞踏会での出来事――ゼルヴァンが自分を堂々と庇ってくれたあの瞬間――が胸に焼きつき、気持ちが昂ぶっていたのだ。


 彼の言葉は本心だったのだろうか。あれほど多くの人々の前で、恥辱を救い、美しいと囁いてくれた。その余韻に包まれながらも、ふと彼の心の奥にあるものを知りたくなる。仮面の奥に隠された素顔を。


 気づけば、彼の私室の前に立っていた。扉はわずかに開いており、暖炉の灯が隙間から洩れている。無意識のまま、彼女は足を踏み入れた。


 そこにいたのは、仮面を外したゼルヴァンだった。


 白銀の髪が肩に流れ、炎の光に照らされて輝く。整った横顔はどこか既視感を覚える――王宮の玉座に座る国王の面影に酷似していた。仮面がない彼の顔は驚くほど端正で、冷たい印象よりも寂しさが滲んでいた。


 リュシアンナは思わず息を呑んだ。床がきしみ、彼が振り返る。


「……見たのか」


 低い声が鋭く響く。彼女は慌てて頭を下げた。

「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」


 仮面を手にしたままのゼルヴァンはしばし沈黙し、やがて深く息を吐いた。

「謝る必要はない。いずれ知られることだと思っていた」


 彼は仮面を机に置き、真正面から彼女を見た。目の色は深い青。冷たさよりも、強い孤独を秘めた光だった。


 リュシアンナの脳裏に、玉座に座る国王の姿が浮かぶ。威厳ある眼差し、彫りの深い面立ち――ゼルヴァンはまるで若き日の王を写したように見えた。


「まさか……あなたは」


 言葉が喉に詰まる。だが確信はあった。彼が王の隠し子であることを。だからこそ仮面で素顔を隠し、宮廷に仕えるしかなかったのだ。


 ゼルヴァンは苦笑した。

「鋭いな。そうだ、俺は王の落とし子だ。宮廷の誰も公には認めないがな」


 声に滲むのは憎悪ではなく、諦観だった。


「王妃にとって、俺の存在は不都合でしかない。王にとっても、正妻の子でない俺は重荷だ。だからこうして、仮面の魔術師として影に生きている」


 リュシアンナは胸が締めつけられる思いだった。自分と同じだ、と。血筋に生まれながら疎まれ、居場所を奪われて生きる孤独。


「……私も、同じです」


 彼女は震える声で告げた。

「生まれた時から呪われていると恐れられ、家族からさえ遠ざけられました。私の存在は、国にとっても重荷……」


 ゼルヴァンは目を細め、彼女に歩み寄った。

「孤独は人を蝕む。だが、同じ孤独を知る者が隣にいれば、救いになる」


 彼の声は仮面を外した素顔そのままに、真摯で、どこか甘かった。

 リュシアンナは涙を堪えきれず、頬を濡らした。ゼルヴァンの手が伸び、そっと拭う。手袋のない素手だった。触れられた瞬間、恐れていた災厄は訪れなかった。代わりに、ただ人の温もりがあった。


「……どうして、恐れないのですか」

「恐れる理由がない。君は呪いなどではなく、一人の人間だ。俺にとっては、それ以上でも以下でもない」


 胸の奥に熱が広がり、彼女は小さく頷いた。

「あなたが隣にいてくれるなら、私は……」

 その先の言葉は涙に飲まれ、声にならなかった。


 二人の間に流れる沈黙は、これまでの孤独を埋め合わせるように優しかった。


 しかし、そのひとときは長く続かなかった。


 廊下の奥、闇に潜む影が二人を見つめていた。宮廷に仕える下級役人――王妃派に忠実な密偵である。彼は扉の隙間からすべてを目撃していた。


「……やはり、そういうことか」


 彼は口元に薄笑いを浮かべ、静かに立ち去った。報告すれば、呪われ姫と魔術師の秘密は王妃派の格好の武器となるだろう。


 知らぬまま寄り添う二人の背後で、確実に陰謀の糸が絡み合い始めていた。


 その日、宮廷は異様な熱に包まれていた。謁見の間に人々が詰めかけ、宰相を先頭とする王妃派がざわめきながら進み出る。玉座の前に立たされたのはリュシアンナとゼルヴァンだった。


「呪われ姫と、王の隠し子の魔術師――二人が結託し、王国を転覆しようと企んでいる!」


 宰相の声は大広間に響き渡り、廷臣たちの表情が一斉に変わる。恐怖と憎悪、そして好奇心が入り混じった視線が二人に注がれる。


「違う!」リュシアンナは声を震わせた。「私たちはただ――」


 だが、宰相がその言葉を遮った。

「黙れ! 舞踏会での狼藉、そして密かに仮面を外した現場を目撃されている。証拠は揃っているのだ!」


 人々の間にどよめきが広がる。ゼルヴァンの正体が王の隠し子であるという噂は、ついに公然の事実として突きつけられてしまった。王妃派の者たちは口々に叫び、断罪を迫る。


「反逆者を牢に!」

「呪いの姫を処刑せよ!」


 王は沈黙していた。玉座から視線を落とし、ただ深い皺を刻んだ顔を伏せる。彼にとっても、ゼルヴァンの存在は不都合だったのだろう。


 そして――決定は下った。二人は反逆の嫌疑で牢獄へと送られることとなった。


 冷たく湿った石の牢獄に、二人は鎖で繋がれ座っていた。外から聞こえるのは看守の足音と水滴の落ちる音だけ。静寂が、絶望をより重くする。


 リュシアンナは壁に背を預け、うつむいた。

「……私、やっぱり呪われているんですね。あなたを巻き込んでしまった。私と関わらなければ、あなたは……」


 その言葉を遮るように、ゼルヴァンは首を振った。

「違う。俺は後悔していない。君に出会わなければ、俺はただ王に捨てられた影として朽ちていた」


 彼女は驚いたように顔を上げる。仮面を奪われたゼルヴァンの素顔が、薄暗い光の中で真っ直ぐに彼女を見つめていた。


「リュシアンナ。俺は今、生きていると感じられる。君に会えたからだ」


 涙がにじむ。彼女は声を震わせた。

「……私も、あなたに会えて幸せです」


 ゼルヴァンは微かに笑った。

「幸せにするのは、これからだ」


 その言葉に胸が熱くなる。牢獄という絶望の中で、彼の声は希望の灯だった。


 沈黙が訪れ、やがてゼルヴァンはそっと身を寄せた。彼の手が彼女の頬に触れる。これまで恐れていた「触れれば不幸を呼ぶ」という呪いは、奇跡のように発動しなかった。むしろ、温かな手が彼女を包み込む。


「……」


 ゼルヴァンはゆっくりと顔を近づけ、リュシアンナの頬に唇を触れさせた。短く、しかし確かな口づけ。


 リュシアンナは目を閉じ、震えながらその感触を受け止めた。

「……本当に……いいのですか。私と……」

「いいも悪いもない。俺は君を選んだ。誰が何を言おうと、それは変わらない」


 頬に残る温もりが、彼女の心を満たしていく。二人は互いの想いを確信し合った。


 その夜更け。牢獄の奥で奇妙な光が揺らめいた。ゼルヴァンが低く呟く。

「このまま処刑を待つつもりはない。君の呪いと、俺の魔術を重ねれば、道は開ける」


「でも……私の呪いは災厄しか呼ばない」

「力は使い方次第だ。君を傷つけるものではない」


 ゼルヴァンは鎖に手をかざし、呪文を唱える。青白い魔力が溢れ出し、鎖を包む。その力に反応するように、リュシアンナの胸の紋章が赤く脈打った。


 痛みが走り、彼女は呻く。

「っ……!」

「耐えてくれ。君の力が必要だ」


 光が重なり合い、牢の壁に魔法陣が浮かび上がる。石が震え、崩れ始めた。看守が駆け込むが、呪いの力が嵐のように吹き荒れ、誰も近づけない。


 ゼルヴァンはリュシアンナを抱き寄せ、声を張り上げた。

「俺たちの未来を、ここで掴む!」


 轟音とともに石壁が砕け散り、夜の風が流れ込む。鉄格子は跡形もなく吹き飛び、牢獄は出口を開いた。


 リュシアンナの瞳に涙が浮かんでいたが、それは恐怖ではなく希望の光だった。

「ゼルヴァン……!」

「行こう。君と共に」


 二人は闇夜へと駆け出した。呪いと魔術が融合した奇跡の力を背に受け、追手の声を振り切りながら。


 鎖を引きちぎったその瞬間から、二人の運命は大きく動き始めていた。


 夜の森を駆け抜け、追手を振り切った二人は、王国の古い修道院跡へと辿り着いた。ひび割れた石壁、崩れかけた祭壇――長い間放置され、祈りも絶えたその場所には、古代の書物が眠っているとゼルヴァンは言った。


「ここならば、真実に近づける」


 彼は廃墟の奥にある封印庫を開け、埃にまみれた文献を引きずり出した。羊皮紙に描かれた褪せた文字と、幾重もの呪符。リュシアンナには判別できないが、ゼルヴァンの指は迷いなく走っていく。


 蝋燭の明かりの下、彼は低く呟いた。

「やはり……。君の呪いの正体は、呪いなどではなかった」


 ページに描かれていたのは、漆黒の影に封じられる古代の神。千年前、世界を滅ぼしかけた破滅の存在を、王家の血筋と契約によって封じ込めた記録だった。


「君の胸に刻まれた紋章――それは破滅の神を封じる器の証だ。生まれながらに刻まれたのは偶然じゃない。君は選ばれ、宿命を背負わされた」


 リュシアンナは耳を疑った。自分が災厄を呼ぶ呪われ姫だと信じてきたのに、その正体は「神を封じる器」。


「じゃあ……私が不幸を呼んできたのは」

「器の力が暴走し、周囲に影響を及ぼしていたのだろう。本来は人々を守る楔のはずだった」


 ゼルヴァンは言葉を選びながら告げる。だが、リュシアンナの心は重く沈んでいった。


「……私は、器でしかないのですね」


 声は掠れ、震えていた。

「人を守るために作られた道具。自分ではなく、神を封じる器。それが私の存在理由……」


 彼女は膝を折り、両手で顔を覆った。涙が指の隙間からこぼれる。これまでずっと呪いを否定され、存在を責められてきた。ようやくゼルヴァンに受け入れられ、心を開きかけたのに――結局、自分はただの器にすぎないのだと突きつけられた気がした。


「私は……人間じゃなかったのですね」


 嗚咽が廃墟に響く。ゼルヴァンはしばし黙って彼女を見つめ、やがてゆっくりと膝を折った。


「違う」


 短い言葉は静かに、しかし強く響いた。


「君は器なんかじゃない。呪いに縛られた存在でもない。君は――俺が愛する人だ」


 リュシアンナは涙に濡れた目を見開いた。ゼルヴァンの顔が近づき、迷いのない瞳が彼女を映していた。


「……ゼルヴァン」


 彼の手が頬に触れ、優しく撫でる。その温もりはこれまでの孤独を溶かすようだった。


 次の瞬間、唇が重なる。


 初めての口づけは驚くほど柔らかく、温かかった。呪いの発動を恐れて身を固くしたが、災厄は訪れなかった。代わりに胸の奥で光が弾け、深い安心が広がる。


 長い孤独の果てに、ようやく繋がったもの。それは呪いではなく、愛だった。


 唇が離れ、彼女は涙を流しながら笑った。

「……私、生きていていいのですね」

「当たり前だ。これからは俺と共に、生きていくんだ」


 ゼルヴァンの言葉が、彼女の世界を塗り替えていく。


 だが安堵の時間は長くは続かなかった。


 廃墟の外で、不気味な鐘の音が鳴り響いた。大地が震え、空気が重苦しく沈む。ゼルヴァンは顔を上げ、険しい表情を浮かべる。


「……始まったか」


 遠く王都の方向で、黒い光柱が立ち上るのが見えた。夜空を裂くようなその光は、ただの魔術ではない。


「王妃派が動いた。破滅の神を復活させる儀式を始めたのだ」


 リュシアンナの心臓が凍りつく。器である自分を追放しようとしたはずの王妃派が、今度は器ごと封印を破り、神を解き放とうとしている――。


「急がねばならない。君の力がなければ、この国は滅ぶ」


 ゼルヴァンは立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。リュシアンナは震える指でその手を握り返した。


 二人は霧深い夜の森を抜け、再び王都へと向かう。背後には、封印を打ち破ろうと蠢く破滅の気配が迫っていた。


 王都の空に、黒い光柱が立ち上っていた。稲妻のように夜空を裂き、雷鳴の轟きが街を揺らす。人々は悲鳴を上げ、広場に逃げ出し、教会の鐘が狂ったように鳴り響く。


 王宮の中央広間――千年にわたり王家の象徴とされてきた大理石の床が、音を立てて割れた。ひび割れから黒紫の瘴気が噴き出し、床を這い、柱を侵し、天井を崩していく。


「……出でよ、破滅の神よ!」


 王妃派の神官たちが血を捧げ、呪文を唱える。祭壇に縛られた供物が叫び声を上げ、その声がかき消されると同時に、地下に眠る封印が砕けた。


 宮廷の奥深くから、恐ろしい咆哮が響き渡る。


 それは言葉にならない呻き。人の理解を超えた存在の目覚めだった。


 地鳴りと共に、巨影が現れた。

 四本の腕を持ち、頭部には角のような黒い結晶を突き出した異形の巨人。瞳はなく、空洞からは漆黒の炎が吹き出している。周囲の兵士は一瞬で塵となり、宮廷の壁は触れられることなく崩壊していった。


「破滅の神……」


 リュシアンナの声が震える。胸の紋章が熱を帯び、鼓動が苦しくなる。神は彼女に反応し、咆哮を上げた。


 ゼルヴァンは剣を抜き、彼女の前に立つ。

「ここで止めねば、国が滅ぶ」


 瘴気が渦巻き、王都全体を飲み込もうとしていた。


 混乱の中、王が逃げ惑う廷臣たちを押しとどめて叫んだ。

「封印を強めよ! 姫を祭壇へ!」


 だがリュシアンナにはわかっていた。自分の命を捧げれば、神を再び封じることはできる。器としての役目を果たせば、この国は救える。


 彼女は静かにゼルヴァンを見上げた。

「……私が犠牲になれば、国を救えるのです」


 ゼルヴァンの顔に怒りが走る。

「馬鹿を言うな!」


「私の命には、もともと意味がなかった。呪いとして生まれ、人を傷つけてきただけ……。でも、最後に国を救えるなら、それがせめてもの償いです」


 涙を滲ませながらも、彼女は微笑んだ。


「ゼルヴァン、あなたと出会えたことだけは、幸せでした」


 その言葉に、ゼルヴァンは彼女の肩を強く抱いた。

「やめろ。そんな別れを口にするな」


 彼の瞳は深い青に燃え、決意に満ちていた。

「君を犠牲にはしない。呪いを背負うなら、俺も共に背負う」


 彼は胸元の仮面を外し、床に叩きつけた。硬い音を立てて仮面が割れる。封印の紋が砕け、隠されていた力が溢れ出す。


「この命に誓う。俺はお前を守り抜く」


 ゼルヴァンの体から青白い魔力が迸り、リュシアンナの紋章と共鳴した。炎と闇の奔流が渦を巻き、巨大な魔法陣が空に描かれていく。


 破滅の神が咆哮を上げ、四本の腕を振りかざす。大地が裂け、塔が崩れる。だが二人は怯まなかった。


「リュシアンナ、俺の手を取れ!」


 ゼルヴァンの叫びに、彼女は震える手を伸ばす。指先が触れ合った瞬間、光が爆発した。


 紋章が脈打ち、リュシアンナの胸から黄金の輝きが溢れ出す。ゼルヴァンの体を包む魔力と融合し、二人を中心に巨大な光の翼が広がった。


 周囲の闇を押し返し、神の咆哮さえもかき消す。


「これが……私たちの力……!」


 リュシアンナは涙を流しながら叫ぶ。

 ゼルヴァンは剣を掲げ、光の翼を纏った二人の力を収束させる。


「終わらせるぞ!」


 破滅の神が腕を振り下ろす。その一撃は宮廷を根こそぎ破壊するはずだった。だが、二人の放った光が黒炎を切り裂き、神の体を貫いた。


 轟音。瘴気が散り、空が裂ける。


 ゼルヴァンの素顔は汗と血に濡れながらも、揺るぎなかった。

「共に生きると誓っただろう!」


 二人の声が重なり、最後の魔術が発動する。


 黄金の鎖が天空から降り注ぎ、破滅の神を縛り上げる。呻き声が空を震わせ、やがて巨影は光に呑み込まれた。


 闇が消え、夜空に星々が戻る。


 瓦礫の中で、二人は互いの体を支え合って立っていた。

 ゼルヴァンの仮面は砕け、隠されていた素顔が全ての者に晒されている。だが、もはや誰もそれを咎めることはできなかった。彼こそが国を救った英雄だったからだ。


 リュシアンナの胸の紋章は穏やかに輝き、呪いではなく守護の証として鼓動していた。


「……終わったのですね」

「ああ。だが、俺たちの未来はこれからだ」


 二人は倒壊した宮廷の中央で、しっかりと手を取り合った。


 夜空を覆っていた黒い瘴気が散り、星々が顔を覗かせていた。轟音は止み、破滅の神は光の鎖に封じられ、再び地の底へと沈んでいった。王都を覆っていた恐怖の影は消え去り、静寂が訪れる。


 瓦礫の中で、リュシアンナは膝をつき、震える指先を胸に当てた。そこに刻まれた黒い紋章は、今や穏やかな光を放っている。呪いではなく、国を守る力として。


 周囲では逃げ惑っていた人々が次々に戻り、目にした光景に息を呑んでいた。倒壊した宮廷の中央で、ゼルヴァンとリュシアンナが寄り添って立っている。二人の力が国を救ったことは、誰の目にも明らかだった。


「……神は封じ直された。王国は救われたのだ」


 老いた王が呟いた。杖をつきながら近づき、瓦礫に覆われた広間を見渡す。その声には驚きと畏怖が入り混じっていた。


 廷臣たちも次々に跪き、口々に祈りと感謝を捧げる。もはや誰も「呪われ姫」と嘲る者はいなかった。


 人々の前に進み出たゼルヴァンは、仮面の砕けた素顔のまま堂々と立った。蒼い瞳が王をまっすぐに射抜く。


「陛下。俺は確かに王の血を引いている。しかし……王位には就かない」


 ざわめきが広がる。王の隠し子である事実は衝撃的だったが、それ以上に「王位を辞退する」という宣言が人々を驚かせた。


 ゼルヴァンは振り返り、リュシアンナの手を取った。

「俺が欲するのは王冠ではない。ただ、この人と共に歩む未来だ」


 その声は力強く、嘘偽りのない響きを持っていた。王族としての権利よりも、ただ一人の女性を選ぶ――その潔い宣言に、民衆は息を呑み、やがて大きなどよめきとなった。


 王は長く沈黙し、やがて深い皺を刻んだ顔に小さな笑みを浮かべる。

「……そうか。ならばその選択を尊重しよう。国を救った英雄として、二人の未来を祝福する」


 歓声が広場に満ちた。


 リュシアンナは胸の紋章に手を当てた。かつては恐怖と嫌悪の象徴だった印は、今や温かく脈打ち、彼女自身の鼓動と重なっていた。


「……これは、呪いじゃありません」


 彼女は静かに言った。

「私と彼を結ぶ力です。孤独に耐えてきた意味も、すべてこの瞬間のためだったのだと、ようやくわかりました」


 ゼルヴァンは彼女の肩を抱き寄せ、頷いた。

「君がそう思えるなら、この印は確かに力だ。俺たちを繋ぐ証だ」


 彼女は涙を浮かべながら微笑む。長い孤独の果てに、ようやく自らの存在を受け入れることができた。


 民衆の歓声の中、ゼルヴァンは彼女の手を強く握りしめた。そして、誰もが見守る広場の中心で、ためらいなく顔を近づける。


 仮面を外した彼の素顔は、堂々と人々の前に晒されていた。もう影に隠れる必要はない。


 唇が重なる。


 歓声が一層高まり、鐘の音が鳴り響く。人々はその光景を「国を救った愛の奇跡」と呼び、涙を流しながら称えた。


 ゼルヴァンは口づけを終え、彼女の耳元に囁いた。

「呪いはもう、君を縛らない」


 リュシアンナは瞳を閉じ、微笑みを返した。

「ええ。だって……呪いは愛になったのだから」


 二人は互いの手を取り合い、未来へと歩み出した。

 夜空には星々が瞬き、王都は新たな時代の始まりを告げていた。

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