第4話 崩御と蜂蜜酒
私は静かに扉を開け、王の寝室へと足を踏み入れた。
刹那、薬草と焚かれた香の匂いが私を包み込む。
それは、病の不浄さや残酷さと命への祈りが溶け合ったような、胸を締めつける哀しい香りだった。
広々とした部屋の中央には、深紅の天蓋が垂れた大きな寝台が据えられている。
その上で、病の影を纏った王——アラリオン・セレヌス・ヴァルクロワ——は、静かに横たわっていた。
青白い頬に、厚いカーテンの隙間から差し込む月光が淡く射し込み、まるで石像のように冷たい印象を私に与えるのだった。
「……ゴホッ、ゴホッ……」
静寂を破るように、アラリオンの咳が微かに響いた。それは、揺らぐ命の灯火のような音だった。
私は寝台の傍らに歩み寄り、彼の顔を見下ろした。その瞳はぼんやりと天蓋を見つめたまま、現実の輪郭を曖昧にしているようだった。
「起きていらしたのね……」
囁くように声をかけると、その瞳が微かに震えるように動いた。
「……ああ……」
その声は、石壁の中に染み入るように消えゆく。
「アラリオン、遺言を書いてください。ルシアンに玉座を譲ると。」
私はまるで独り言を呟くような心持ちで言った。
彼の答えなどもはやどうでもよかったから。
「私の言葉に……一体何の意味があろう。誰も聞き入れはせぬというに。」
「それでも、あなたは王でしょう。その肩に課せられた定めの重さを、忘れることは許されない。」
しばらくの沈黙が続いた。やがて、アラリオンはかすかに笑った。
「……はは……そうだな。君の言う通りだ。だから、これは……きっと許されぬことなのだろうな……」
彼は再び激しく咳き込み、背を丸めた。何度も何度も咳き込んだ後、ゆっくりと呼吸を整えていく。そして今度は、天蓋ではなく、私の顔をまっすぐに見つめた。
「余はこの玉座を誰にも継がせる気はない。王政を終わらせるつもりだ」
——王政を終わらせる?
——一体どんな理由があれば自ら弱者に成り下がるなんて考えが思いつくの?
彼の言葉に、私は思わず嗤った。
彼の考えも、彼自身も、そしてそれらを形づくった彼のすべてを。
「余は本気だ。ルチェルタ、民はもう、王を必要とはしていない。」
夢を語る時、彼はいつも、この澄みきった温かい眼差しを湛えていた。
その記憶が、心を侵すような切なさを微かに胸に掠めさせる。
だからこそ、私はこぶしに力を込め、語気を強めた。
「ならば、なぜ治世は混乱しているの?」
問いかけに、彼は黙したままだった。
「民が愚かで、導くべき王がこうして床に伏しているからよ。」
私の言葉は、アラリオンの顔に複雑な影を落とした。
「違う。」
「何が違うの? あなたは何も分かっていない。あなたが志す理想の果てにあるのは道標を失った民だけよ。ずっと昔に、国が一つそうして滅んだわ。」
「アウレリアを訪れた君なら、民が愚かではないことを知っているはずだ。我が国には教育が必要なのだ。導く者がいなくとも群れが正しく進めるように。」
あなたはそうやって眩しい理想を語り、私を騙してきた。
——あなたなら、あなたの力ならそんな馬鹿げた理想だって叶えられると……
今は遠いその夢物語に酔っていられたら、私はどれほど幸福だっただろうか……
「民の中に賢明な者がいることと、民全体が賢明であることは別問題でしょう。それにどれほど教育を施したところで、民は必ず過ちを犯すもの。現に、この国で高等な教育を受けたはずの聖職者が、魔女狩りという愚行を繰り返している」
アラリオンは、何も言わなかった。その沈黙が、彼の限界を物語っていた。
「あなたの考えは理想論に過ぎない。そして、その理想を実現する力も、もうあなたにはない。」
私は、傍らの卓上に置かれた杯を手に取った。中で、甘く香る蜂蜜酒が静かに揺れている。その表面に広がるごくわずかな油膜が、鈍く光を反射していた。
「疲れたでしょう……もう、終わりにしましょう。」
囁くように語りかけると、アラリオンはわずかに頷いた。その仕草は、私の言葉に応えたのか、それともただ夢の中で揺れたのか、判然としなかった。
私はそっと杯を彼の口元へ運び、細く静かにその液を注いだ。
私の指先が、微かに、ほとんど意識されないほど震える。液体は揺らめきながら彼の喉を通り過ぎ、やがて彼は静かに目を閉じた。
「……すまない。」
その言葉が、彼の唇からこぼれ落ちた最後の音だった。
部屋は、まるで誰も存在しない闇の底に沈んだように、何の音も聞こえなかった。
ただ、月光だけが静かに天蓋を照らし続けていた。
*
*
*
窓から差し込む朝日を、椅子に腰かけながらぼんやりと眺めていた。
胸の奥に、骨が引っ掛かっているような痛みが、ずっと消えずに残っている。
膝の上に広げた黒い福音書の中に、何も記されていないのはなぜだろうか。
カエルム教皇は、なぜこの白紙ばかりの書物を私に託したのか。
頭の中に浮かぶ疑問は、どこにも着地することなく、ふわふわと宙を漂っている。
その浮遊する思念を、白昼夢を見るような心地で眺めながら、私は誰かがこの部屋へやってくるのを待ち望んでいた。
そうしている間、外では時折、鳥のさえずりが聞こえ、風に流される枯葉の音が耳をかすめるのだった。
やがて、部屋の扉の方から足音が近づいてきた。
その音を、部屋の前で止まるまで追いかけた。
次の瞬間、トントントン——三度、素早く扉が叩かれる。
私は、急ぐでもなく、焦るでもなく、しかし、確かな速度で声を紡いだ。
「入りなさい」
「ルチェルタ様!」
勢いよく扉を開けて入ってきたのは、私の世話係であり、メイド長のアリーナだった。
「王が……崩御なさいました!」
「そう。すぐに葬儀の手配を」
私が眉ひとつ動かさず、無機質な声でそう告げると、アリーナはその場で言葉を失い、動きを止めた。
私が立ち上がり、再び指示を出そうとしたその時、アリーナの背後から執事頭のレジナルドが姿を現した。
「奥様。王の崩御と、書簡についてお伝えに参りました」
「あなたが直接?珍しいわね」
レジナルドは黙って私に書簡を差し出した。それは、テネブリア王国とロムセリカ聖国からのものだった。
私は思わずその場で封を切り、綴じられた紙面を引き出した。戴冠式における王の信任について書かれているはず——そう信じて目を走らせたが、次の瞬間、視線は止まった。
それは、宣戦布告の通達だった。
経緯、要求事項、署名、相手国の名——すべてが記されているはずなのに、目が文字の上を滑っていく。
なぜ。どうして、このようなことが……
顔を上げてレジナルドを見た瞬間、軍部大臣のオルドリック卿が現れた。
「……ご報告いたします」
その声は低く、抑えられていたが、言葉の端々に緊張が滲んでいた。
「西のテネブリア王国と東のロムセリカ聖国が、同時に進軍を開始しました。西部は……すでに壊滅しております」
その言葉が空気を裂いた。部屋の温度が一瞬で下がったように感じた。
「……壊滅?」
私は問い返すこともできず、ただその言葉を胸の奥で繰り返した。
——なぜ和平条約が唐突に破られた?
——西境がこんなに早く落ちたのは、私がダラゴン家を潰したせいだわ……
——私はどこで何を間違えた?
——あの子の未来のために、力を欲したことの何が間違っていたというの?
音が遠のいていく感覚が、次第に強まっていく。視界が揺らぎ、膝が折れそうになったところを、アリーナが肩を支えて私を抱き起こした。
王妃として、何か言わねばならない——その重圧が胸を締めつける。
明滅するような景色の中で、私はようやく「……対策を」と、絞り出すように言った。