第3話 告解室の福音
大勢の修道士たちが、祈るように両手を組み、女神像へ静かに聖歌を捧げていた。
荘厳な旋律が祈祷室に満ちる中、壇上に立つグレヴィノール神父が私の入室に気づき、手を上げて指揮を止めた。
彼の視線が私に注がれた瞬間、聖歌の流れは静かに途切れ、空気は一層重く、厳かに変わった。
「枢機卿グレヴィノール。私も、聖歌を捧げてもよろしいでしょうか?」
私の声は、祈祷室の静けさに溶け込むように響いた。
神父は長い白髭にそっと手を添え、目尻に柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「無論です。いつであろうと、誰であろうと、あなたが主に祈りを捧げることを拒む者などおりません。」
その言葉には信仰に生きる者の揺るぎない慈愛が滲み、まるで幼子に語りかけるようだった。
「告解室は空いていますか?」
私が静かに尋ねると、神父は一瞬だけ目を細め、何かを思案するように息を吸った。
「ええ、告解ですね。承知しました。」
祈祷を中断した神父は、部下の修道士に後の段取りを任せ、私を教会の奥へと案内した。
教会の奥まった一角——厚い石壁に囲まれた静謐な空間に、その部屋はあった。
蝋燭の灯が揺らめく中、重く軋む木の扉を押し開けると、ほのかな蜜蝋の香りと古びた木材の匂いが鼻をかすめた。
中は薄暗く、外界の光はほとんど届かない。
まるで時間が止まったかのような深い静寂がそこにあった。
石壁の部屋の中央に設けられた箱型の告解室を、私はじっと見つめた。
重厚な木材で造られたその構造は年月が過ぎた今では幼い頃の記憶よりも小さく見えた。
左側には司祭が入る扉、右側には信者が入るための扉がある。
私はそっと右の扉を開けて中へ入り、祈祷台の前に膝をついた。
目の前には格子の仕切りがあり、向こう側にいる神父の姿は、ぼんやりとしか見えない。
その格子は、顔をはっきりと見せない程度に視線を遮りながらも、声は通るように造られている。
木彫りの十字架が施された格子を見つめながら、私はかつて感じていた言いようのない息苦しさを、微かに思い出していた。
——弱かった、あの頃の息苦しさを。
「椅子を用意させましょう。」
グレヴィノール神父は一度告解室から退出し、石壁の部屋を出ると、近くにいた修道女に命じて一脚の椅子を祈祷台に設置させた。
その音は静かに響き、まるでこの空間に新たな対話の始まりを告げる鐘のようだった。
「座って話しましょう。」
私は椅子に腰を下ろし、神父も格子の向こうにある椅子に座った。
格子の影が彼の顔に落ちたとき、幼い頃に感じていた記憶が静かに胸の奥で揺れた。
「懐かしいものですね。あなたがまだ小さかった頃を思い出します。」
神父の声には、過ぎ去った年月への慈しみが込められていた。
「ええ……その節はとても——」
私は言葉を途中で切り、小さく息を吸った。
そして、格子の向こうにいる神父に向かって、短く告げた。
「カエルム教皇への伝手をお願いしたいのです。」
神父は眉をひそめ、少しだけ身を乗り出した。
「どのようなご用件でしょうか?」
「ダラゴン家の財産を、寄進したいのです。」
私の言葉に、グレヴィノール神父は一瞬沈黙し、それから大げさに笑った。
その笑いには、驚きと皮肉、そして一抹の警戒が混じっていた。
やがて、彼はひとつため息をつき、声の調子を変えて厳かに言った。
「私も、甘く見られたものですね。ルチェルタ・アルデンティア・セラフィーヌよ。」
「現在の姓はヴァルクロワでございます。そして、グレヴィノール神父——分かっていないのは、あなたの方ですわ」
私はふふふと、挑発めいた笑い声を漏らした。
そして、格子窓の前で肘をつき、じっとその向こうに浮かぶ神父の顔を見つめた。
「神を政に利用するつもりですか。」
グレヴィノール神父は、いら立ったように吐き捨てた。
その目にはダラゴン家の資産を使って事を進めようとする、薄汚い政治家を見るような色が浮かんでいる。
——力を得て変わったものね。まさかあなたが敬虔さを説くなんて……
そんな思いをかみ殺して、私は微笑んだ。
「勘違いなさらないでください。私たちは今、この国の歴史を決める交渉をしているのです。」
「運命は、神にしか分かりません。」
神父は首を振り、もうこれ以上は聞きたくないという素振りを見せた。
私は一瞬だけ迷い、そして静かに口を開いた。
「この国はまもなく王を失います。それは宗教的一体性の崩壊を意味し、その隙を突いて、大勢の異教徒がヨルシアへと流入する。
やがてこの地は大規模な宗教戦争の舞台となるでしょう。」
そう言って私は、懐から一通の手紙を取り出し、格子窓の隙間から差し出した。
それは、ナーイル教の総本山——カディマ―ラ連邦との同盟交渉に関する文書だった。
グレヴィノール神父はしばらく黙って手紙を見つめ、それから受け取って目を通した。
やがて、彼は小さく息をのみ、ゆっくりと目を閉じて、深く思案に沈んだ。
「だからこそ、私は戴冠式にて新たな王の信任を要求するつもりです」
しばしの沈黙の後、グレヴィノール神父は静かに頷いた。
「教皇様へお伝えいたします。」
交渉はここが頃合いだろうと思い立ち上がろうとしたとき、突然、告解室の外側——石壁の部屋の木扉が叩かれる音が響いた。
それは、殊にこの空間において、あるはずのないことであった。
私は思わず身構えて、告解室の木扉の窓枠から外側の石壁の木扉を注視した。
ゆっくりと、静かに扉が開かれてゆく。
薄暗いこの部屋に、忍び寄るように日の光が差し込む。
やがて、扉の隙間から見えたのは純白の法衣を纏った背の高い男の陰であった。
「先客が、いたのですか。」
逆光で顔は見えなかった。
しかし、私はその場で跪き、両の手を合わせて首を垂れた。
祈るように手を組んだまま、コツコツと近づいてくる足音に耳を澄ませる。
司祭側の扉が一度開かれ、グレヴィノール神父の震えた声が微かに聞こえた。
そして、誰かが石壁の部屋から出ていく音がした。
「こんにちは。本日は、どのようなご用件でしょうか?」
格子窓の向こうから聞こえてきた声は、先ほどとはまるで違っていた。
低く、穏やかでありながら、言葉の一つ一つに威厳が宿っている。
私は恐る恐る格子窓へと視線を向けた。
そこにぼんやりと浮かぶのは、左手に黒い書物を開きながら、こちらを見つめる男の影だった。
その姿に、私は確信した。
カエルム・アンビティオール・サンクトヴァール教皇その人だと。
私は静かに口を開き、修道院で教わった古式の挨拶を唱えた。
「主の光は我が歩みに、主の御声は我が沈黙に。
いま、我が魂は御前に伏し、真理の御名を讃え奉る。」
その言葉は、空気を震わせるように告解室に響いた。
カエルム教皇は書物を閉じ、静かに頷いた。
「よく来られました。あなたの願いと、あなたの信仰の深さを、ここで聞きましょう。」
私は深く垂れていた頭を上げ、格子窓の向こうにいる教皇へと話しかけた。
「私は、戴冠式において教皇より新たな王の信任を賜りたいのです。
ダラゴン家の資産の寄進をその一助とし、この国の信仰の灯を絶やさぬために、努めたいのでございます。」
格子窓の向こうで、教皇はしばし手を口元にあてて考え込み、やがて静かに語り出した。
「もし神があなたに声をおかけになるとしたら、最初に何を問うと思いますか?」
私はその問いの意味を測りかねた。
——権力の頂点に立った人間が一体何を思い、何を欲すのだろうかと。
一瞬、思考を巡らせようと側頭部に手を伸ばしかけたが、すぐにやめ、心のままに答えることにした。
「なぜお前は生まれたのかと、主はそのように問うでしょう。」
「そなたの答えは?」
返ってきた声は、感情を感じさせない冷ややかな響きだった。
「調停するためです。この、混乱した世の中を。」
私はただ、今この瞬間に私の前に横たわる現実を、そのままの形で答えた。
「そうですか。」
教皇は静かな声でそう言い、確かな笑みを口元に浮かべた。
そして、手に持っていた黒い書物を、格子窓の下の隙間から私の方へと差し出した。
その書物は、まるで夜そのものを閉じ込めたかのように、光を吸い込むような深い黒に包まれていた。
表紙には何の文字も紋章もなく、ただ冷たい重みだけがそこにある。
私は恐る恐るその書物に手を伸ばし、間近で見たとき、ようやくこれが神の真の言葉を記した、世界にただ一冊の福音書であることに気づいた。
その瞬間、胸の奥に何かが崩れ落ちるような感覚が走った。
——私が王妃になったあの日と同じ、震えるようなこの感覚……
——力を得た余韻に残るこの安堵感……
私は思わず首を垂れた。
教皇は、そんな私に何も言わなかった。
静かに、本当に静かに、まるで風のように——
扉の開く音だけを残して、私の眼前から姿を消したようだった。