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蛇王妃の福音書  作者: 夏目佑
第一章
2/11

第2話 祈りと告発

仄暗い橙色の光が、四つ葉のクローバーを静かに照らしている。


私は右手でそのペンダントをそっと掬い上げ、縁を指先でなぞりながら、“幸福”の手触りを確かめていた。


そのとき、隣に座っていたルシアンが、私の袖を引いた。


「お母様、ここはどこなのですか」


甘えるように、ルシアンは私の腕にそっと頭を預けてくる。


私はその小さな体を、優しく抱きしめた。


——この子を玉座に据えなければならない。

——この混沌とした世の中を歩んでいけるように。

——そのために、私の全てをこの子に与えてあげるのよ。


切なさと、確信めいた想いを胸に抱きながら、ルシアンの温もりを確かめた。


やがて、ルシアンの力が少しずつ抜けていくのを感じながら、私は静かに促すように抱擁を解く。


「もうだめよ。」


首を横に振りながら、そっと囁いた。


ギィィ————……


その音に、場内の視線が一斉に扉の方へと向けられる。


重厚な鉄の扉が、軋む音を立てながらゆっくりと開かれていく。


“咎人”の影が、私たちの前へと引き出されてゆく——


 *

 *

 *


ここは、石造りの荘厳な法廷——


高い天井から下がる重厚な燭台の炎が静かに揺れ、厳粛な空間に柔らかな陰影を落としている。


その光と影は壁に並ぶ聖人たちの肖像画に深みを与え、まるで彼らの眼差しを一層克明に浮かび上がらせるようだった。


聖人たちの視線は、みな一様に法廷の中央へと注がれている。


そこには円形の壇が設けられ、一体の女神像が静かに佇んでいた。


白大理石の肌は淡く輝き、両手を重ねて祈るその姿は、異様なまでに美しい。


沈黙のうちに、何か語りかけてくるような印象さえ感じるほどに。


だからこそ、「真実は神の御前にて明らかとなる」と足元に刻まれた銘文は集う者すべてに無言の圧力を与えた。


特に、女神像の前に設けられた被告壇——その低い段に立つ被告人には尚更……


これから被告人は女神に背を向け、正面に審問席に座る黒衣の司祭たちと向き合うことになるだろう。


そして、黒衣の司祭たちが居並ぶその最奥に鎮座する教皇代理の枢機卿と向き合うことになる。


ルシアン……私たちは、審問席の傍ら——この王侯貴族用の特別席からそのすべてを見つめるのよ。


女神像のさらに後方、薄暗い民衆席で息を殺し、ただ神聖な裁きの行方を見守ることしか許されない弱者たちの気配を感じながら——


 *

 *

 *


傍らに座るルシアンから目線を移した時、ちょうど鉄の扉が完全に開け放たれた。


そしてその開け放たれた鉄の扉から、一人の女が入廷した。


粗末な麻の衣をまとった、年の頃は私と同じく三十路に差し掛かった女だった。


彼女は修道士に両腕を掴まれながら導かれ、やがて法廷中央、石の床に設けられた低い壇上に立たされる。


そして足首が鉄製の輪で拘束され、鎖が静かに床に落ちる音が響きわたる。


それは法廷内に反響し続け、少しの時間をおいて静まった。


すると、中央奥の審問席の中央に座していた教皇代理の枢機卿——グレヴィノール神父が、静かに口を開いた。


「神の御名において、異端と魔性を裁く聖なる審問を、今ここに開廷する」


私はグレヴィノール神父に視線を動かし、互いに視線が交差するのを確認した。


グレヴィノール神父が静かに話し始める。


「この場において、クラリモンド・エリラ・ダラゴンに対する告発を受理する。

告発者は、王妃ルチェルタ・アルデンティア・ヴァルクロワ」


私はゆっくりと立ち上がり、あの白大理の女神像を見上げながら息を吸った。


「彼女の家門、つまりダラゴン家は長らくセリカ・アナスタ派を擁護し、王国の宗教的一体制を揺るがしてきました。そして、それが遂に一線を越えてしまった……」


蝋燭の火が揺れ動く……


「クラリモンド・エリラ・ダラゴンは、禁書を密かに所持し、異端の思想を領地で広めていたことが確認されています。

また、嵐もない海域で貿易船が沈没した事件ではクラリモンドが呪術を用いたとの証言が複数寄せられています。

さらに、王子が病に伏した際、彼女が呪詛を行っていたという証言もあります。

この裁判は、王国の未来と信仰の純潔を守るためのもの。

クラリモンドの罪は、神と王に対する重大な反逆です」


私は高台の傍聴席からクラリモンドを見下ろした。


彼女は真っ直ぐにこちらを見返してきた。


その深い青灰色の瞳の奥に、蝋燭の灯がチラチラと揺らめいている。


まるで、静かに燃える意志がそこに宿っているかのように。


「クラリモンド・エリラ・ダラゴン。汝は3つの罪に問われている。

悪魔と契約し、異端の書を隠し持ったこと。

領地にて異端思想を広めたこと。

貿易船を呪術によって沈没させ、王子に呪詛を施したこと。

汝はこれを否認するか?」


クラリモンドは、グレヴィノール神父への問いかけに対して、彼ではなくただ私だけを射抜くように見つめたまま唇を開いた。


「私はこの王国に生まれ、王国の西境を守護する役目を担い、先の戦では三度敵軍を退け、王家より勲章を賜りました。

その私が異端者と呼ばれ、魔女と断じられるとはあまりにも滑稽です」


ああ懐かしい……

クラリモンドの凛としたあの声……


「私が持っていた書は、戦場で命を落とした兵士の遺品であり、彼の信仰の記録です。それを禁書と呼ぶならば、王国は忠義を尽くした兵の魂までも異端と見なすのでしょうか。

貿易船の沈没を私の呪術のせいとする証言も、王子への呪詛という虚言も、すべては私を陥れるための作り話にすぎません。

私は騎士です。剣を掲げ、命を賭してこの国を守ってきました。もしこの裁きが真実を求める場であるならば、私の武功と忠誠を、どうか忘れないでいただきたい。

私は神にも王にも背いてはいない。背いているのは真実を見ようとしない者たちです」


かつて私と王妃の座を争ったときも、あなたは高潔で、誠実で——それゆえに無能だったな。


胸中で十数年の時を遡りながら、あの深い青灰色の瞳が、再び憎しみの影で濁る様を思い描いた。


どれほど清くあろうとも、そこに横たわるのは「支配する私と、隷属するみすぼらしい一人の女」という現実だけ。


私はグレヴィノール神父に視線を向けた。


「証人をここに」


短くそう告げると、どこから連れてこられたのかも分からぬ村民の老女、商人、軍人たちが修道士に伴われながら入廷し、クラリモンドの右手に設けられた証人席へと並び立った。


「わたしゃね、ダラゴン家の領地——ブレナ村に五十年も住んどりますが、クラリモンド様が治めるようになってからというもの、ほんとに妙なことばかり起きるようになったんですよ。夜になると、屋敷の方から、なんとも言えん声が聞こえてくるんです。歌のような、泣き声のような……。

それに、若い者たちがねぇ、あの方と話した後は、みんな村を出て行ってしまって。あれは、きっと人の心を惑わす何かを使ってるんですよ。

わたしゃ、そうとしか思えませんねぇ。」


「自分ぁ、ダラゴン領に何度も品を卸してきやしたが、クラリモンド様が監督されるようになってから、妙なことが続きやしてね。

取引のたびに、帳簿にない“特別な税”を要求されるんですよ。しかも、支払いを渋ると、次の月には荷が腐ってたり、馬が急に倒れたり……。あれは偶然じゃありやせん。呪いだとしか思えやせんよ。他の商人たちも、みんなあの領には近づかなくなりやした。今じゃ“魔女の領地”って呼ばれてるくらいですよ」


「私は王国軍の斥候として、ダラゴン領の周辺を巡察していた。

ある夜、森の奥で異様な儀式を目撃した。焚き火を囲み、黒衣の者たちが何かを唱えていた。その中心にいたのが、クラリモンド氏だった。

彼女は両手を天に掲げ、何かを呼び出そうとしていたようだった。

我々の教義に照らせば、あれは明らかに異端の儀式だ。私は任務として、そして信仰の名のもとに、この事実を報告する。」


目の前で次々と並べ立てられる口上を、私は鼻の奥で嗤いながら、クラリモンドの様子を観察した。


彼女は侮辱の言葉に震えているようだった。


「老女、そなたが言った“歌声”とやらは、私が夜に捧げていた聖歌だ。それを“泣き声”と聞き違え、恐れに変えるのは——そなた自身の信仰の欠如ではないか?


商人よ、“帳簿にない特別な税”を私が課したと言うが、それは誰の指示で徴収されたのか?私の名で発行された命令書はあるか? 領主としての署名は?税の徴収は執政官と会計官の管理下にある。私が勝手に金を取るなど、制度上あり得ない。そして、荷が腐った? 馬が倒れた? それを呪いと決めつける前に、保管状況や獣医の診断を確認したのか?

商売の失敗を私のせいにするのは筋違いだ。


そして軍人——森で儀式を見たと言ったな。ならば、なぜその場で私を止めなかった?

私が行っていたのは、戦で倒れた兵の魂を弔う祈りだ。それを“異端”と断じるならそなたの剣は何のためにある? 腐った忠誠心で騎士の誇りを穢すな。私は潔白だ。神に誓って、何ひとつ恥じることなどしていない!」


私は枢機卿席へ視線をやり、進行を促した。


「して、クラリモンドよ。その主張を裏付ける証拠はあるのでしょうか?」


「その前に、その証言者たちの証言が真実かどうかを示す証拠を!」


「問われているのはあなたです、クラリモンドよ。証拠のない主張は、魔女の嫌疑がかかっている以上、認められません。なにせ、魔女は我々をも惑わしかねませんから」


グレヴィノール神父の左右に座した他の枢機卿たちがクラリモンドを見下ろしながら問う。


両手足を拘束された、今ではただの女に過ぎないクラリモンドと、その左隣にある空白の弁護席を静かに見つめながら——


「私は潔白です。証言者たちの言葉は、恐れと誤解、あるいは意図的な偏見に満ちています。それをもって断罪するならば、この裁きは真実を求める場ではなく、権力の都合を押し通す儀式に過ぎません」


「あなたには証人を呼ぶ権利も弁護人を立てる権利も保証されていますよ」


グレヴィノール神父は、微笑みながらクラリモンドを見下ろしていた。


いつまで経っても来るはずのない彼女の弁護人と証人を、私を一瞥して思い浮かべながら。


「あなたには、ひとつ潔白を証明する術があります。」


私はクラリモンドにそう告げると、ゆっくりと視線を枢機卿席の左端へと移した。


そこに座していたのは、異端審問庁総長——イグナティウス・クラーマー枢機卿。


深紅の法衣に身を包み、顔の半分を覆う影の中から、冷たい光を宿した瞳でクラリモンドを見下ろしていた。


その指には黒曜石の十字架を象った指輪が輝き、まるで死神の指のようだった。


場内が静まり返る中、クラーマー枢機卿は、ゆっくりと立ち上がった。


その動作ひとつで、法廷の空気が張り詰める。


「魔女判別法により、真実を明らかにするのが妥当でしょう」


その声は低く、しかし確かに場内の隅々まで響き渡った。まるで死神が裁きを告げるかのように。


「水試し、針刺し試験、審問室送り——いずれも、神の御目にかなう方法です。

この者が異端であるか否か、我らが信仰の光のもとに、明らかにいたしましょう」


クラリモンドは、運命を悟ったように目を閉じ、やがて視線を私の方へと向けた。


私には分からなかった。なぜあの深い青灰色の瞳の中に浮かぶのが憎しみの影でなく、悲しみの光であるのかが。


しかし、やがて気がついた。彼女の瞳が捉えていたのは私ではなく、私の傍らだったことに。


「母様、なぜあの人は、あのような目に遭っているのですか?」


ルシアンは不安そうに私を見上げ、震える手で私の袖を強く引いた。


ルシアン——きっとあなたはもう気づいているのでしょうね。

私が、どんな人間なのかを。


「あなたは王になるのよ。だから見ておきなさい……」


私は袖を掴むその小さな手を静かに振り払い、ゆっくりと立ち上がってクラリモンドのもとへと歩み寄った。


「ルチェルタ。私は、あなたに何をしたというのだ」


「……何もしていないわ」


「この裁判を、この不正義を、どうか、やめてくれないか」


彼女の言葉を無視するように、私は彼女の前に膝をつき、祈るように両手を組んで言った。


「どうか、あなたが魔女ではないことを祈ります」


クラリモンドの深い青灰色の瞳に憎しみの影が差す。


その瞬間を見届けた私は、枢機卿席へと視線を送った。


「彼女を審問室送りに。魔女判別を執り行う」


その言葉を受けて、イグナティウス・クラーマー枢機卿が静かに頷いた。


その瞬間、傍聴席からルシアンが駆け出してきた。


「母様、お願いです。助けてあげられないのですか」


彼が私の足元に縋り、痛切な声で訴えるのを、私は黙って見下ろしていた。


やがて、私はかがみ込み、ルシアンの肩に手を置いて言った。


「ならば、あなたが助けてあげなさい」


私はルシアンの背後に回り、法廷に集う人々を見せつけた。誰ひとりとして、クラリモンドを救おうとしない現実を。


「お願いです。この人を、助けてくれませんか!」


ルシアンは法廷中に向かって叫んだ。


しかし、その声に応える者は誰もいない。


何度も、何度も問いかける声が響いたが、それが止んだのは——


「もういいんだ」


クラリモンドの、力ない一言があったときだった。


「ルシアン。これが“民”よ。そして、あなたがこれから従えなければならない“現実”なの」


ルシアンは、修道士に連れられていくクラリモンドの姿を、ただその場に立ち尽くしたまま見送っていた。


私はその小さな背中を、傍聴席から重い気持ちで見つめ、深くため息をついた。


「仮にクラリモンドが魔女であった場合、ダラゴン家への処遇は?」


私は枢機卿席の右端に座る法律家に問いかけた。


「我が国の法およびロムセリカ聖国の法に照らせば、財産の没収が妥当かと存じます」


「……そう」


それからおよそ一時間後、イグナティウス・クラーマー枢機卿が鉄の扉から姿を現した。


「審問の結果、クラリモンド・エリラ・ダラゴンを魔女と断定する」


誰もその言葉に声を返さなかった。


静寂の中、グレヴィノール神父が木槌を三度打ち、閉廷を告げた。


「母様、あの人はどうなったのですか……」


「——死んだわ」


傍聴人たちが一人、また一人と法廷を後にする中、私とルシアンの周囲だけが、まるで時間が止まったかのように静かだった。


「なぜ、同じ心を持ち、温かい血の流れる民を、死なせなければならないのですか」


ルシアンは膝の上に涙をこぼしながら、膝の衣の生地をぎゅっと握りしめていた。


「民は王のために在る。その前提を、為政によって示さねばならないのよ」


そう答えると、ルシアンは大粒の涙を流しながら、真っ直ぐに私の目を見て言った。


「僕は、そんな王にはなりません。僕は、民を守れるような、強くて賢い、偉大な王になります」


私は彼をなだめるように、穏やかな声で言った。


「そんな王も、そんな王を正しく慕う民も、この世には存在しないわ。お伽噺の中だけよ」


「母様がそう思うのなら、きっと僕と母様は、違う道を行くことになるのですね」


その言葉が、その優しさが、心の底から愛おしく思えた。


しかし同時に、あまりにも拙く、弱いその姿に焦りと苛立ちが胸をかすめた。


——あの光景を見て、なぜお前の優しさが力に破壊されることに気づかないのか


私とルシアンだけが取り残された法廷の中央で、女神像が静かに祈りを捧げていた。


あの日と何も変わらない、色鮮やかな美しい姿で。


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