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蛇王妃の福音書  作者: 夏目佑
第二章
11/13

第11話 母の影

パタン、と背後で扉が閉まった。


たぶん、重さでひとりでに閉じたのだろう。


音が消えると、部屋の静けさが際立つ。


中はひろく、窓際のテーブルに置かれた一本の蝋燭の光だけが頼りなく揺らめいている。


壁に伸びる影がその揺らめきと同じリズムで揺れている。


「お母さま……」


部屋の奥、暗闇に沈むベッドに腰かけた人影に、私は声をかけた。


でも、反応はない。うつむいて、自分の手元を見ているみたいに動かない。


——次は、何て言えばいいんだろう……


その人影は、闇の中にぽつんと置かれたマネキンのようだった。


不気味で、怖くて、でも、ずっと恋しかったお母さま。


「……あの、私です。えっと、あの、絵を描いたんです。お母さまに見てほしくて……あ、でも、絵は今、お部屋に……」


私がしどろもどろに話しかけても、お母さまは何も答えない。


どんな表情をしているのか、蝋燭の明かりが届かなくて見えなかった。


カーテンの隙間から漏れる月明りが、まるで道しるべみたいに床を照らしている。


もっと近くへ行きたくて、その光の道をたどった。


人影の輪郭がしだいに明瞭になっていく。


私はその人影にそっと手を伸ばした。 お母さまに、触れたかったから。


伸ばした指先がその足に触れた、そのとき——


パチン、と乾いた音がした。


気づけば私の手は、弾かれて宙に浮いている。


初めは何が起きたのかわからなかった。けれどすぐに、お母さまが私の手を払いのけたのだと理解した。


どうして——


悲しみが、一瞬胸をかすめたその瞬間、初めてお母さまの顔が見えた。


「……ルチェルタ……?」


乱れた金色の髪の中に病人のようにやつれた顔。


唖然と目を見開いて、まるで何かを奪われたような表情をしていた。


「なぜお前がここに……どうして来てしまったの」


——ああ、そうか。お母さまは、私に会いたくなかったんだ。


頭の片隅にあった嫌な予感が、突然、ずしりと重い現実になった。


その瞬間、自分があの子供部屋でどんな日々を送っていたのかを思い出した。


生まれてから、ずっと見ていた乳母たちの顔。

最低限の世話と食事を与えてすぐに帰っていく乳母たちの後ろ姿。

私がどれだけ泣いても、縋っても、誰もあやしてはくれなかった。

やがて泣くことはなくなって、何も感情を発露しない人形みたいになった。

そのうち、押し殺した心が癇癪になって、物や自分を壊すようになって、私はあの鍵付きの部屋に閉じ込められたんだ。


涙が頬を伝って、ぽたぽたと服の染みになった。


「どうして、会いに来ちゃ、いけないの?お母さまは、私のお母さまなのに……どうして、私に会いに来てくれないの?」


「……やめて……お願いだから」


お母さまは、聞きたくないというように耳をふさいだ。


その姿を見て、私の寂しさは、こうしてまた無かったことにされるんだと思ったとき、胸の奥が怒りで熱くなった。


「ずっと、お母さまが来てくれないから! 私はあの部屋に閉じ込められて、誰も会いに来てくれなくて! 自分で自分がわかんなくなるくらい、寂しかったのに……どうして、来てくれなかったの……!」


私の中に生まれた初めての怒りを、お母さまにぶつけた。


そして、その言葉が引き金になった。


バシンッ!!


頬に走る衝撃とともに、世界がぐらりと傾いだ。


ドサッと体が床に打ち付けられ、遅れて左の頬がじんと熱くなる。


目の前に立ち上がったお母さまの顔を、月明かりが照らした。


そこでようやく、私は自分が叩かれたんだと理解した。


——何が、どうして……


暗闇に浮かぶのは、激しい怒りをたたえたお母さまの顔。


——いやだ


涙が胸の奥からこみ上げ、ひっと息が詰まる。


「……ぁ」

「なんで……? お前のせいで私は……! お前が女として生まれたせいで、3つになっても言葉も話せない欠陥品だったせいでッ、私がどれだけ惨めな思いをしたか!」


お母さまが、私に覆いかぶさってくる。


そして、月明かりに白く光る手が、私の首を掴んだ。


目の前に、狂気に歪んだお母さまの顔が浮かび上がる。


病的なほどにやつれ、髪を乱したお母さまの姿——


——私はどうして、勘違いをしていたのだろう。


昨日、セバスが私に言った「リヴィア様は体調が優れない」という言葉。


身体じゃない、お母さまが病んでいるのは——心なのね。


お母さまのやせ細った手が、私の首に食い込む。


息が、できない。苦しい。


首が折れてしまいそうな力。 もうだめだと思った。


それでも私は、闇に浮かぶお母さまの瞳を、じっと見つめ返した。


「お前さえいなければ、私は期待に応えられた……! お前が、お前のせいで……!」


——私はなぜ生まれたんだろう。この世界の誰一人喜んでくれないに。


お母さまの悲痛な叫びを聞きながら、心が冷たく凍って、死んでいくみたいだった。


——死ぬ前に、生まれてきた理由が知りたかったな。


お母さまの腕を掴んでいた手から、力が抜ける。


もう、いいや。


そう思って目を閉じ、遠のいていく意識に身を任せようとした、そのときだった。


バタン!


扉が激しく開け放たれ、廊下の光が暗闇を裂いた。


次の瞬間、誰かがぶつかる鈍い音と、何かが倒れて花瓶が割れる甲高い音が響く。


目を開けると、目の前にいたはずのお母さまの姿はなかった。


代わりに、白く細い腕が、震えながら私を抱きしめていた。


腕を辿って顔を見上げると、そこにいたのはセリスだった。


いつも氷のように冷たい彼女の顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいた。


抱きしめられた強さと温かさが胸に届いたとき、私の中で何かが弾けた。


「うぅ……うぁあああああんッ!」


自分の泣き声が、どこか遠くで聞こえる。


扉の外では、騒ぎに気づいた人々の慌ただしい足音が近づいてきていた。


けれど、周りの喧騒が嘘のように私の世界は静かだった。


まるで、花瓶の割れたあの音を合図に、時が止まってしまったかのように。


砕けたガラスの破片が、きらきらと舞い落ちるのが、ただ見えていた。


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