第11話 母の影
パタン、と背後で扉が閉まった。
たぶん、重さでひとりでに閉じたのだろう。
音が消えると、部屋の静けさが際立つ。
中はひろく、窓際のテーブルに置かれた一本の蝋燭の光だけが頼りなく揺らめいている。
壁に伸びる影がその揺らめきと同じリズムで揺れている。
「お母さま……」
部屋の奥、暗闇に沈むベッドに腰かけた人影に、私は声をかけた。
でも、反応はない。うつむいて、自分の手元を見ているみたいに動かない。
——次は、何て言えばいいんだろう……
その人影は、闇の中にぽつんと置かれたマネキンのようだった。
不気味で、怖くて、でも、ずっと恋しかったお母さま。
「……あの、私です。えっと、あの、絵を描いたんです。お母さまに見てほしくて……あ、でも、絵は今、お部屋に……」
私がしどろもどろに話しかけても、お母さまは何も答えない。
どんな表情をしているのか、蝋燭の明かりが届かなくて見えなかった。
カーテンの隙間から漏れる月明りが、まるで道しるべみたいに床を照らしている。
もっと近くへ行きたくて、その光の道をたどった。
人影の輪郭がしだいに明瞭になっていく。
私はその人影にそっと手を伸ばした。 お母さまに、触れたかったから。
伸ばした指先がその足に触れた、そのとき——
パチン、と乾いた音がした。
気づけば私の手は、弾かれて宙に浮いている。
初めは何が起きたのかわからなかった。けれどすぐに、お母さまが私の手を払いのけたのだと理解した。
どうして——
悲しみが、一瞬胸をかすめたその瞬間、初めてお母さまの顔が見えた。
「……ルチェルタ……?」
乱れた金色の髪の中に病人のようにやつれた顔。
唖然と目を見開いて、まるで何かを奪われたような表情をしていた。
「なぜお前がここに……どうして来てしまったの」
——ああ、そうか。お母さまは、私に会いたくなかったんだ。
頭の片隅にあった嫌な予感が、突然、ずしりと重い現実になった。
その瞬間、自分があの子供部屋でどんな日々を送っていたのかを思い出した。
生まれてから、ずっと見ていた乳母たちの顔。
最低限の世話と食事を与えてすぐに帰っていく乳母たちの後ろ姿。
私がどれだけ泣いても、縋っても、誰もあやしてはくれなかった。
やがて泣くことはなくなって、何も感情を発露しない人形みたいになった。
そのうち、押し殺した心が癇癪になって、物や自分を壊すようになって、私はあの鍵付きの部屋に閉じ込められたんだ。
涙が頬を伝って、ぽたぽたと服の染みになった。
「どうして、会いに来ちゃ、いけないの?お母さまは、私のお母さまなのに……どうして、私に会いに来てくれないの?」
「……やめて……お願いだから」
お母さまは、聞きたくないというように耳をふさいだ。
その姿を見て、私の寂しさは、こうしてまた無かったことにされるんだと思ったとき、胸の奥が怒りで熱くなった。
「ずっと、お母さまが来てくれないから! 私はあの部屋に閉じ込められて、誰も会いに来てくれなくて! 自分で自分がわかんなくなるくらい、寂しかったのに……どうして、来てくれなかったの……!」
私の中に生まれた初めての怒りを、お母さまにぶつけた。
そして、その言葉が引き金になった。
バシンッ!!
頬に走る衝撃とともに、世界がぐらりと傾いだ。
ドサッと体が床に打ち付けられ、遅れて左の頬がじんと熱くなる。
目の前に立ち上がったお母さまの顔を、月明かりが照らした。
そこでようやく、私は自分が叩かれたんだと理解した。
——何が、どうして……
暗闇に浮かぶのは、激しい怒りをたたえたお母さまの顔。
——いやだ
涙が胸の奥からこみ上げ、ひっと息が詰まる。
「……ぁ」
「なんで……? お前のせいで私は……! お前が女として生まれたせいで、3つになっても言葉も話せない欠陥品だったせいでッ、私がどれだけ惨めな思いをしたか!」
お母さまが、私に覆いかぶさってくる。
そして、月明かりに白く光る手が、私の首を掴んだ。
目の前に、狂気に歪んだお母さまの顔が浮かび上がる。
病的なほどにやつれ、髪を乱したお母さまの姿——
——私はどうして、勘違いをしていたのだろう。
昨日、セバスが私に言った「リヴィア様は体調が優れない」という言葉。
身体じゃない、お母さまが病んでいるのは——心なのね。
お母さまのやせ細った手が、私の首に食い込む。
息が、できない。苦しい。
首が折れてしまいそうな力。 もうだめだと思った。
それでも私は、闇に浮かぶお母さまの瞳を、じっと見つめ返した。
「お前さえいなければ、私は期待に応えられた……! お前が、お前のせいで……!」
——私はなぜ生まれたんだろう。この世界の誰一人喜んでくれないに。
お母さまの悲痛な叫びを聞きながら、心が冷たく凍って、死んでいくみたいだった。
——死ぬ前に、生まれてきた理由が知りたかったな。
お母さまの腕を掴んでいた手から、力が抜ける。
もう、いいや。
そう思って目を閉じ、遠のいていく意識に身を任せようとした、そのときだった。
バタン!
扉が激しく開け放たれ、廊下の光が暗闇を裂いた。
次の瞬間、誰かがぶつかる鈍い音と、何かが倒れて花瓶が割れる甲高い音が響く。
目を開けると、目の前にいたはずのお母さまの姿はなかった。
代わりに、白く細い腕が、震えながら私を抱きしめていた。
腕を辿って顔を見上げると、そこにいたのはセリスだった。
いつも氷のように冷たい彼女の顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
抱きしめられた強さと温かさが胸に届いたとき、私の中で何かが弾けた。
「うぅ……うぁあああああんッ!」
自分の泣き声が、どこか遠くで聞こえる。
扉の外では、騒ぎに気づいた人々の慌ただしい足音が近づいてきていた。
けれど、周りの喧騒が嘘のように私の世界は静かだった。
まるで、花瓶の割れたあの音を合図に、時が止まってしまったかのように。
砕けたガラスの破片が、きらきらと舞い落ちるのが、ただ見えていた。