第1話 メダイとクローバー
色鮮やかなステンドグラスを貫いて、朝日が女神像を神々しく照らしていた。
そんな鮮やかな光景を見上げながら、わたしは信者たちの狭間に埋もれるようにして影の中で静かに祈りを捧げている。
硬い金属の感触を感じながら、メダイのペンダントをぎゅっと固く握りしめて——
やがて、赤い法衣をまとったグレヴィノール神父が、祭壇の前に静かに立った。
右手で聖典を開き、深く息を吸い込むと、厳かに祈りのプレリュード(前奏)を唱え始める。
無垢なる魂よ、いま、試練の地に立てり
セリカの御目は、すべてを見そなわす
善を選びし者は、光の門をくぐりて天に昇らん
悪に堕ちし者は、火の谷にてその罪を償わん
我らは裁く者にして、赦しを請う者なり
同情は毒、慈悲は試練
信仰の道は清く、貧しく、ただ神のために
いま、セリカの御名によりて、礼を始めん
その声は聖堂の石壁に反響し、祭壇の前で手を合わせる信者たちの頭上に、まるで天から降る雨のように降り注いだ。
わたしは、そんなグレヴィノール神父の豚のように肥えた背中を見つめながら、喉の奥で小さく「あぁ……」と呻いた。
その声はざわめきの中に溶け込み消え去った。
「この前奏の詞にあるように、主はすべてを見ておられるのです。」
女神像を見上げていたグレヴィノール神父は、こちらへと振り返ると、祭壇から降り、かしずく信者たちの前をゆっくりと歩き始めた。
「良き道を歩む者、悪しき道に落ちる者、その境界にわたしたちの魂は在り、だからこそ我々はこうして主に祈りを捧げている」
そして足音が止まる。
「次の一説を読みなさい」
あの日、聖典の一説を詠んだのが誰だったか、私は覚えていない。
ただ、ぼんやりと——女、男、女という順番で三節が読み上げられたような気がする。
わたしは、その間祈るふりをして視線を石畳の上に落とし、メダイのペンダントを両手の中に隠していた。
この世界で唯一「わたしだけの」宝物だから。
金に溺れし心を捨て
清貧の道を喜びて行け
所有を捧げ、信仰を示せ
セリカは汝の善を見たまわん
信者が読み上げた聖典の一節を、神父は厳かに復唱し、ゆっくりと視線を巡らせた。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛しておられます」
金糸や銀糸の精緻な刺繍、サファイア等で飾られた赤い法衣をまとう肥えた神父と、ほつれかけた黒い修道着や麻の服を着た信者たち
その対比を見つめながら、震える手をぎゅっとより強く握りしめた。
神父の視線がこちらをかすめるたび、心臓がひとつ跳ねる。
見つかってはいけない。気づかれてはいけない。
わたしはただの影。誰の目にも映らない、名もない祈り手のひとり。
そう思い込むことで、わたしはその場にとどまっていた。
「ルチェルタ・アルデンティア・セラフィーヌよ」
グレヴィノール神父はわたしの前で立ち止まる。
手を差し伸べ、半ば無理やりにわたしの手を取ると、そのまま祭壇の上へと導いた。
「主に祈りを捧げなさい。」
わたしの掌に握られたメダイを、神父は微笑みながら見つめていた。
それは、この世にたった1つだけの、わたしが生まれた祝福の証。
けれど、わたしを見つめる無数の目には、貴族の屋敷で埃を被った装飾品のひとつとして映ったことだろう。
「セリカの御名によりて我が信仰を捧げん」
わたしは、掌の中に隠していたメダイのペンダントを、グレヴィノール神父へと差し出した。
差し出すことで、わたしの中にあるひどく軽くて脆い何か——それが壊されずに済むのだと、信じたかった。
「「「セリカの御名によりて、我が信仰を捧げん」」」
わたしに続いて、大勢の信者たちが祈りの言葉を復唱し、わたしへと喝采の拍手を送った。
その喝采が沁み込むことなく自分の中で終わりなく反響するのを感じながら、信者たちの群衆の中を見つめ続けた。
——わたしはこうやって何もかもを奪われ続けるのだろうか
わたしの小さな胸を、絶望という大きな針が確かに貫いたような感触がした。
やがて、わたしは気付いた。
また1人、子どもが朝の祈りから姿を消したことを。
どこか遠くから、消えたあの幼い少年の声が聞こえる。
「お母さん……お母さん……」と。
*
*
*
「お母様、お母様」
仕事中、いつの間にか閉じていた瞼を開けた。
すると、私の座る椅子のそばで、ルシアンが小さな手で私の袖を引きながら、何度も呼びかけていた。
「お疲れですか?」
心配そうに見上げるルシアンの頬にそっと手を添え、私は小さく首を振った。
「いいえ、大丈夫よ。ただ、少し目を閉じていただけ」
微笑むと、胸の奥からこぼれた温かな吐息が、ルシアンの額にふわりとかかる。
「何か嬉しいことでもあったのかしら?」
「お母様に渡したいものがあるんです」
ルシアンは少しもじもじとしながら、ポケットの中を探り、やがて小さなペンダントを取り出した。
「これを、お母様にあげたくて……お母様と初めて見つけた“幸福のお花”だから」
聖女の像が刻まれた面の裏に、四つ葉のクローバーが透明な結晶に閉じ込められていた。
「まあ……ありがとう」
私はそっとペンダントを受け取り、静かに首にかけた。
クローバーを見つめ、もう一度ルシアンを見た。
——もう決して奪われない、私の宝物……
ルシアンは本当に嬉しそうで、思わず胸が暖かくなった。
「ふふふ」
微笑みは胸の奥で静かに灯り続け、しばらく消えることはなかった。