似てるけれど、違う
朝の食卓に、父の姿はなかった。
「もう出たの?」
真帆が尋ねると、母は味噌汁をかき混ぜながら答えた。
「庭に出てるだけよ。最近、朝は必ず草むしりするの。黙って、ずーっと」
「……そんなの、する人だったっけ?」
母はふっと笑った。
「しなかったわよ、昔は。家のこと、何一つ。でも今は、それしかすることがないみたい」
ふと、窓の外を見やると、確かに庭の隅にしゃがみこんだ父の姿があった。小さな草を、指先で丁寧に引き抜いている。かつての堂々とした“家長”の面影は、そこにはなかった。
(人は、変わるんだ……時間がかかっても)
あの夜、母が言った言葉が、胸の奥にゆっくりと溶けていく。
「“似てる”だけで、すべてを決めつけないことよ。人は、似てても違うの」
***
家を出る前、玄関で靴を履いていると、父がゆっくりと戻ってきた。
「もう、帰るのか」
「ああ」
それだけで会話が終わりそうになって、けれど何かを言いかけているような空気が、父の動作の隙間に見えた。
「……あのさ」
父の声は、ひどくかすれていた。
「昔は……悪かったな。お前にも、母さんにも」
真帆は顔を上げた。
父は正面を見ていない。足元の石畳に視線を落としながら、どこか遠くを見るような目をしていた。
「……そう思ってたんだ」
「ああ。思ってる。今さらだけどな」
それだけだった。でも、たった一言が、胸の奥に重く響いた。
真帆は何も言わず、ゆっくりうなずいた。返事の代わりに。
***
駅に着くと、スマホを取り出して、画面をしばらく見つめた。
浮気相手との履歴は消してある。それでも、彼の名前を見ると胸がざわつく。
——連絡、してみようか。
何を話せばいいのか分からなかった。でも、“もう会わない”と決めるなら、その言葉は自分の口で言いたかった。逆に、まだ何か残っているなら、それを確かめる権利くらいは自分にある。
意を決して、通話ボタンを押す。
数コールのあと、彼の声が電話の向こうから聞こえた。
「……真帆?」
「久しぶり。ちょっと、話せる?」
「……うん。会える?」
数日後、カフェのテーブル越しに、彼は少し緊張した面持ちで座っていた。
「……謝りたい。裏切ったのは事実だし、言い訳はできない。でも、もう一度やり直せたらって……思ってる」
その目に、かつての父を感じた。
でも、どこか違った。何が違うのか、はっきりとは言えない。だけど、“今の自分”には分かる。
真帆は、ゆっくりと息を吸って言った。
「信じられるかどうかは、まだ分からない。でも……今の私が信じるかどうかは、私が決める」
彼は驚いたように瞬きをした。
「だから……少しだけ、時間がほしい。感情だけじゃなくて、自分のこともちゃんと見てから、答えを出したいの」
彼は何も言わなかった。でも、少しだけ、ほっとしたように笑った。
***
帰り道、風が初夏のにおいを運んできた。
駅のホームで、真帆は空を見上げる。晴れている。雲が、ゆっくり流れている。
(私はあの人じゃない。私の未来は、私が決めていい)
父に似ていた彼。でも、父ではない。
似ていても、違う。
それを見極めるのは、恐れでも過去でもなく、自分の目だ。
真帆は、スマホをバッグにしまい、まっすぐ前を向いた。
そして、小さくつぶやいた。
「さあ、歩こう」