弱った父、強い母
「おかわり、あるわよ」
母の声が、食卓に静かに響いた。
「……ああ、もらおうかな」
父は小さな声でそう言うと、ゆっくり茶碗を差し出した。その手も、昔とは違っていた。指が少し震えている。握力が落ちたのだろうか。器を持つ手がぎこちない。
(こんなだったっけ……?)
真帆は、目の前の味噌汁を見つめたまま動けずにいた。
子どもの頃、父は“家の空気”だった。大きな声、大きな足音、そして重たい沈黙。いつ帰ってくるか分からず、帰ってきたと思えば、何も話さない。母は黙って父の顔色をうかがい、真帆は隣の部屋で息をひそめていた。
それが今、目の前には“老いた父”が座っている。
「……仕事、どうなんだ?」
父がぽつりと聞いた。昔のままの、ぶっきらぼうな口調。でも、どこか迷いがある。聞いていいのか、試しているような声だった。
「普通だよ。辞めてないし、ちゃんと行ってる」
そう返しただけで、父は「そうか」と小さくうなずいた。
(それだけ?)
会話はそれで終わった。長く離れていたせいかもしれない。でも、それ以上に、間に流れるものが重かった。言葉にできない過去が、食卓の上にずしりと置かれていた。
***
「……浮気されたの」
夜。風呂から上がって髪を拭いていた真帆は、ふと呟くように言った。台所で後片づけをしていた母の手が止まる。
「……そっか」
それだけだった。驚きも、怒りも見せない。真帆は少しむきになって、続ける。
「……笑い方が、お父さんにそっくりだった。言い訳の仕方も、目の動かし方も。……気づいたとき、本当に嫌だった」
母はしばらく黙っていた。水を止め、タオルで手を拭きながら、ゆっくり振り返った。
「似てる人、選んじゃったんだね」
真帆はうなずいた。
「……なんでだろう。絶対、ああいう人だけは嫌だって思ってたのに」
「わかるよ。私もそう思ってたから」
「え?」
母は苦笑いを浮かべた。懐かしむような、でも少し切ない顔だった。
「あなたが小さい頃ね、何度も『もう無理かも』って思った。毎晩泣いたり、実家に帰ったり、離婚届まで書いたの。でも……何度も、しまったの」
「なんで……?」
「簡単に言えることじゃないけど……好きだったのよ。ずっと、じゃない。好きだった“時期”が、確かにあった。それを、否定したくなかったのかもしれない」
真帆は黙って聞いていた。
母は続ける。
「お父さんね、年をとって変わったわ。前みたいに自分勝手じゃなくなった。寂しがり屋になったし、私の話もちゃんと聞いてくれるようになった。昔が嘘みたいよ」
「それって、遅すぎない?」
「そうね。でもね、“遅すぎる”かどうかを決めるのは、本人じゃなくて、向き合う相手なのよ」
「……許したの?」
「完全にはね。でも、少しずつ。自分の心を整えながら。時間をかけて」
静かな夜だった。風の音すら聞こえないほど、時間が止まったようだった。
「……私、全部が嫌だったわけじゃないの。彼のこと。優しいところもあって、楽しかった日もあって……でも、そのせいで余計に許せなかった。裏切られたことが」
「それ、いいことよ」
「え?」
「全部を黒にしないってこと。自分の感情をちゃんと見つめてるってこと」
母は言った。
「許すことは、負けることじゃない。許せないことを認めるのも、自分を守る手段。でも、もし——“まだ何か信じたい”って思えるなら、その気持ちを責めちゃダメ」
真帆は、何も言えなかった。
浮気した彼を許せるかどうかは、わからない。
でも、あの人の中に“父”を見てしまったこと、それに囚われていたことは、今少しずつ解けていくようだった。
部屋の奥から、父のいびきが聞こえてきた。情けないような、不器用なような、そんな音だった。
ふと、子どもの頃には感じなかった感情が胸をかすめた。
——哀れみ。
そして、ほんの少しの、理解。