その目、誰かに似てる
スマホの画面に浮かんだ、ハートマーク付きのメッセージ。「昨日は楽しかった♡また会いたいな」。送り主の名前は、聞いたこともない女の名前だった。
画面をスクロールすればするほど、見たくなかった現実が浮かび上がる。ベッドの写真、ふたりで食べたレストランの料理、記念日ではない日に贈られたプレゼントの写真。
——これは夢じゃない。
そう理解するのに、数分かかった。けれど、涙は出なかった。
(怒っていいはずなのに、泣いていいはずなのに……)
真帆はソファに座ったまま、スマホを膝の上に置いた。カーテンの隙間から、夕方の光が部屋に射し込んでいる。温かいはずの光が、まるで冷たいスポットライトのように感じられた。
浮気されていた。それも、最低なやり方で。
けれど、どうしてだろう。怒りや悲しみよりも、もっと別の感情が胸に広がっていく。喉の奥が詰まり、指先が震えた。心の底から湧き上がってきたのは——
(……似てる。あの人に)
父の顔が、ふいに脳裏をよぎった。
あの男と同じだった。最初はやさしい。言葉も態度も紳士的。でも、その実、女癖が悪く、平気で人を裏切る。バレなければいいとでも思っているのか、それとも悪びれてすらいないのか。
笑い方まで、同じだった。人を安心させるようでいて、核心には触れさせない笑い。
(あんな男に、惹かれてたなんて)
自分が情けなくて、吐き気がした。
——私は、父みたいな人が嫌いだったはずなのに。
小学生の頃、母が夜中に一人で泣いていたのを思い出す。泣き声を聞かれないように、枕に顔を埋めていた。でも、聞こえていた。洗面所の電気が深夜まで消えなかった日。食卓に父の姿がなかった日。母は何も言わず、ただ翌朝には笑っていた。
そんな母を見て、子ども心に誓った。
「私は絶対に、あんなふうにはならない」
なのに。ぐるりと回って、自分が選んだのは、まさに“あんな男”だった。
浮気が許せないのではない。彼の中に父を見た自分が、許せない。
部屋の中にいたくなくなった。空気が重くて、壁が責めてくるようだった。どこかへ逃げ出したくなって、荷物もろくに詰めないまま、真帆は電車に飛び乗った。
降りた駅は、実家の最寄りだった。もう何年も帰っていなかった場所。何の連絡もせずに、ふらりと戻ってきた娘に、母は少し驚いたようだったが、それ以上は何も言わず、静かに玄関を開けてくれた。
「……お父さん、いるの?」
「いるよ。夕方には帰ってきた」
その瞬間、喉の奥が詰まった。
会いたいわけじゃなかった。でも、確かめたかった。あの男と、本当に同じかどうか。
リビングに入ると、テレビの前に父が座っていた。ソファに深く腰掛け、薄くなった髪をなでながら、ニュースを眺めていた。昔より、ずっと小さく見えた。
「おお、真帆か……久しぶりだな」
父は笑った。かすれた声。老けたな、と思った。昔はもっと威圧感があった。堂々としていて、正直、怖かった。
でも今の父は、ただの年老いた男だった。真帆はうなずくだけで、何も言えなかった。
母がキッチンで夕飯の支度をしている。まな板の音だけが、部屋に響いていた。
あの人と、この人は、やっぱり同じなのだろうか。
あるいは——違うのだろうか。
その答えが、まだ分からなかった。