本当に恥ずべきこととは③
助けが来たのだと、少年は安堵して後ろを振り返る。
しかし次の瞬間その気持ちは、自身をより恐怖へと突き落とすことになる。
後ろを向いた視線の先には誰もいなかったのだ。
「え‥‥‥」
到底受け入れられない事実を目の当たりにし、全身にとてつもない悪寒が走る。
‥‥‥どうして、誰の声、どこからしたの、暗い、怖い、嫌だ!!
脳内を駆け巡る様々な感情と思考、それらは今すぐこの場から逃げ出したしたい少年にとってただの足枷でしかなかった。
それを証明するかのように再び少女の甘い声が聞こえてくる。
「あーあぁ、こんなにボロボロになっちゃって可哀そうに、あの子にやられちゃったんだよねぇ」
遠くから木々に反射して届いたような声ではなく、やはり耳に直接聞こえてくるこの現象からは逃げられないのだと観念し、少年は逆に解明しようと辺りを見渡す。
‥‥‥声の方向はわからないけど、誰かに話してるってことは。
心当たりがある方へ視線を向けると、森の中を楽しそうに一人の子供が歩いてるのを目にする。
ここまで離れた位置からだとその子供が少女か少年かわからないため、この声の主であるとは考えられなかった。しかし、辺りをいくら見渡しても人はおらず、その子供のはっきりとした姿形を見ることができないが、断定せざるを得なかった。
そんなことを考えていたら、子供はついに魔獣の存在に気が付いたのか、その場で座り込んでしまったようだ。
やはりその子供は関係なかったのだと思い、急いで向かおうとした瞬間————。
「辛いよねぇ、痛いよねぇ、憎いよねぇ、どうして自分がって思うよねぇ」
再び声が聞こえてくる。しかし今度は何かの作業をしている様子が少女の声から想像できた。
‥‥‥今は、あの子を助けなきゃ!!
聞こえてきた声に対して色々と思うことはあったが、それらは少年にとって誰かを救わない理由にはならなかった。
そうと決めると、魔獣が起きないように素早く子供の側へと近寄る。
「あーあぁ、来ちゃうんだ、そのまま逃げれば良かったのに」
「え!? どう‥‥い‥‥」
疑問を口にするよりも早く少女は立ち上がり、勝手に自己紹介を始めた。
「私は怠惰の魔人、人々はベルケイジュ・マギと呼ぶ」
青紫色の三つ編みは少女に暗い雰囲気を与え、少女の白い肌の上にあるそばかすが目立ち、垂れたオレンジ色の瞳は、少年のことを映しているのにどこか遠くをみつめている。
「‥‥‥ベルケイジュ・マギ?」
「あれ? 私のこと知らないの!? てっきりあのお姉さんから聞いてるもんだと思ってたよ!!」
「僕のお姉ちゃんを知ってるの?」
少女は少し困惑しながらも答える。
「君の想像している姉のことはもちろん知っているんだけど、そっちじゃなて‥‥‥、えーーっとぉ」
少女は少し考える素振りを見せると、ちらりと僕の方を見て何やら青ざめた顔になり、何かに弁明するように話し始めた。
「あ、安心してよ、今のところ君に対してちょっかいをかけるつもりもないからさ!!」
あたふたとする少女を見て、最初の頃に抱いていた恐怖心はなくっていた。
そんな僕の様子を見て少女は真面目な顔をして言った。
「あんまり人の言葉を信じすぎないほうが良いよ、君が今感じているその気持ちが本当に正しいものなのかは、これからする私の行動で簡単に変わってしまうのだから」
少女はそう言い残すと徐々に身体を泥の人形のように変えて地面へと溶かしていき、その場から姿を消した。
「どういうこと?」
尽きない疑問に対して考える時間をソレは与えてくれなかった。
どうやら気を失っていると思っていた魔獣はもうすでに目を覚ましており、僕と少女の会話が終わるまでなぜか一切手を出してこなかったのだが、少女がこの場から去ったことで魔獣は本来の役目を全うしようとしていた。
「グラァァァ‥‥‥!!!!」
「うそでしょ!?」
立ち上がることで再び圧倒的な存在感を放つ魔獣に対して、少年は泣き出しそうな顔をする。それもそのはずで、いくら満身創痍だと言っても相手は少年の倍以上の大きさを持つ異形の熊である。泣き出すどころか、いつ気を失ってもおかしくはない。
‥‥‥ごめん、お姉ちゃん!!
右手を大きく振り上げる魔獣を前に死を悟り、目を閉じて最後に心残りであった姉に対して謝罪をする。
終わりの時を迎えようとしていた瞬間、魔獣は痛みを訴えるような叫び声を出す。
「なんだ!?」
目を開けると魔獣は背後から撃たれた魔法によって、苦痛の表情を浮かべて片膝をついていた。
魔獣が立て直す余裕を与えないように、炎系統の魔法が次々と茂みの奥から放たれる。
「グラァァァ!!」
魔獣は身を焼き尽くす程の炎を纏いながらも魔法が放たれた方向に対して視線を向けると、背中に生えている無数の角のような物体に力を溜め始めた。
それは、時間が経つにつれて徐々に身体を包む炎よりも目立つほど赤黒くなっていき、禍々しい印象を与える。
‥‥‥あれは、やばい!!
本能があの攻撃を撃たせてはいけないと告げる。
反撃の準備が整ったと言わんばかりに異形の熊は咆哮を上げる。身体に生えている無数の角から光が消え魔獣の口内が赤く光る。
間もなく攻撃が放たれようとした時————。
「【水の槍】」
それは魔獣の口に形成された黒い球体に当たると、そのまま顔を消し飛ばした。
魔獣は鮮血を溢れだしながら、ドサッという音と共にその場に倒れる。
「大丈夫ですか?」
今度は少女の優しい声が聞こえた。それが僕に向けての言葉だったことは、同じくらいの大きさの差し出された手が証明していた。
「‥‥‥あ、ありがとう」
それが彼女との初めての出会いであり、憧れた瞬間だった。