第三話 Duck 4/4
「へえ! マナブくん、海外に居たんだ!」
嬉しいニュースが三つ。
一つ、席が近いからか、昼休みに鴨川ダイヤが最初に話しかけたのは、あろうことかこの僕だった。これは幸運以外の何でもないだろう。
二つ、彼女はとてつもなく優しかった。少し話せばすぐに分かる。彼女は心優しい女性だった。
三つ、同時に彼女は、どこか頼りになるところがあった。彼女が僕に話しかけるのと、飼い主がペットに話しかけるのが、なんだか似ている気がした。人と話をするのが好きな子なのだろう、というのがすぐに分かった。
「英語しゃべれるの? それとも別の言語?」
「あ、いや。英語、で」
「そっか、すごいね!」
多少押され気味になりつつ、僕は頑張って会話を続けようとする。
「そんな、すごくはないよ。逆に日本語ちょっと苦手だし……」
「んー、そう? 普通に喋れてると思うけどな。──でも、やっぱり憧れちゃう、英語話せるの」
「いや、ほんとに大したことないって。その、鴨川さんも──」
「鴨ちゃんでいいよ」
と、鴨川ダイヤは僕の言葉を遮った。「鴨ちゃん……?」と僕は訊き返す。
「そう、鴨ちゃん。マナブくんともっと仲良くなりたいし」
「いや、今日会ったばっかりなんだけど」
「いいじゃんか、別に。あ、私もマナブくんの事『マナくん』って呼ぼうか?」
「いや、それは絶対にやめて」
そんなこんなで話は進み、やがて授業が始まり、時間が流れていった。
そしてあっという間に放課後になった。
「マナブくん、家どっち?」
「大船。鴨川……えっと、鴨、ちゃんは?」
「私は鎌倉。方向は一緒だね」
鎌倉。ダイキと同じ駅だ。『なら一緒に帰ろう』と思い僕はダイキとヨシアキの方を見たが、二人は既に教室を出ようとしていた。
ドアを開ける直前、ダイキが振り返って「ヒュウ」と口笛を吹いた。ヨシアキはどうやら口笛を吹けないらしく、言葉で「ひゅう」と言った。
「お友達?」
鴨ちゃんが僕の顔を覗き込み、訊いた。
「ああ、うん。いつも一緒に居る。あの髪の短い方が鎌倉に住んでるから、良かったら一緒に帰ろうかな、って思ったんだけど……」
「冷やかされちゃったねぇ」
「うーん」
二人教室に取り残され、空はどんどん灰色に染まっていく。何を期待しているのか、自分の鼓動が速くなっていくのが分かった。居ても立っても居られなくなり、僕は「か、帰ろっか」と鴨ちゃんに声をかけた。
「うん……あっ」
カバンを肩にかけながら鴨ちゃんが僕の方を向く。
「どうしたの?」
「マナブくんさ、今度さ、私に英語教えてくれない?」
「英語?」
僕は訊き返す。「いいけど……なんで?」
「ふふっ」
鴨ちゃんは笑うと、僕の机に手をつき、
「話せるんでしょ、英語? 約束だよ」
と言って笑顔を見せた。
空は、この一瞬で一気に暗くなったような感じがした。教室に日が影を落とし、どこかでカラスの鳴く声が聞こえた。僕は、深い深い海の底に投げ込まれたような錯覚をした。
「帰ろうよー」
鴨ちゃんが後ろから声をかけてくる。僕は溜まっていた唾を飲み込み、教室の前方へと歩いた。しかし、心の不安はいつまでたっても消えなかった。
さっき。
さっき、彼女が机に手を置いた時。
僕はハッキリとそれを目にした。
鴨川ダイヤの右手の甲に、文字が刻まれていた。
『D』、と。