後編
意識を失ったカイが再び目覚めた時、全く同じ詰所の中で横たわっていた。
(……あれ、俺はいつの間に……?)
机と椅子の間から身を起こして立ち上がった彼は、直前まで居た筈の側近の彼女も、そして牛頭の魔族も姿を消している事を不審に思いつつ、城の中へ向かって歩き出す。
石積みの壁と床が足音を響かせる中、カイは独り長い廊下を進む。行く先は知らない筈なのに、彼は迷わず真っ直ぐに進み、やがて廊下の端まで到達し、見上げる程の大きな扉に行き当たった。
流石にそんな大きい扉を開けられる訳も無く、途方に暮れていたカイの目の前で、突然扉が音もなく内側に向かって開き、彼を招くように部家の中に並ぶ燭台が、次々と火を灯されていく。無論、今も周囲は無人のままなのだが。
奇妙な状況にも関わらず、彼は全く動じぬまま燭台の間に敷かれた緋毛氈の上を歩き、突き当たりに鎮座する【魔王の玉座】目指して進む。
……どっ、どっ、と耳の内側に響くのは、自らの心音。その脈動が歩くリズムを越して次第に高まり、遂には喧しく感じたその時。
「……君が……【魔王】……なのか!?」
カイの視線が玉座に座る小柄な少女を捉え、彼女と記憶の中の相貌が全く同じ事から、彼は事情を把握した。
「そうか……彼女が【魔王】だったんだな……」
カイは再び意識を取り戻すと、自分が魔王の城の前で倒れていた事よりも、あの時からずっと心の奥で燻り続けていた思いに、漸く気付いたのだ。
彼は、それから人間の国に戻ると、勇者を辞める決意を告げる為に城に向かったのだが、
「……馬鹿な事を言うものではありません。既に貴方に相応しい同行者を選定してあります。さあ、魔王を倒す為に旅立ちなさい」
相変わらず太った巫女は彼の言葉に耳を貸さず、剣士と僧侶の二人の女性を引き合わせると、そのまま魔王城に向かわせた。無論、抵抗するつもりのカイだったが、
「……強情を張られても、私達に選択する余地は有りませんから」
「私達の為、国の為にご尽力なさってくださいませ」
感情の希薄な二人の女性は、彼の言葉を聞かず半ば引きずるように魔族の国へと向かった。
……道中、二人はカイと男女の契りを交わそうと幾度も挑みかかったが、彼は反応しなかった。
「……ここまで来れば、後はどうにでもなります」
「勇者様は、私達が守りますから……」
相変わらず感情の籠らぬ二人は、縄でぐるぐる巻きにされ、口に猿轡まで噛ませたカイを引き摺りながら城の門に近付くと、僧侶が門に手を当てて、古の呪文を譫言のように呟いた。
「……【 其 は 邪 な る 穢 を 祓 い 光 を 導 く 】……」
カイはその呪文を聞きながら、彼女達が何らかの呪縛で操られている事を理解したが、朦朧とする意識を繋ぎ止めるのが精一杯だった。
「……さあ、行きましょう」
「勇者様、必ず遂げましょう」
巨大な門が静かに開き、向こうから次々と現れる魔族の戦士達を掻き分けるように、一行は真っ直ぐ突き進む。不可解な事だが、彼等に斬り掛かる魔族達は、まるで障壁に阻まれたように一切の手出しが出来ぬまま、誰一人として三人に迫る事すら叶わなかった。
「「さあ、勇者様……魔王を殺すのです」」
同時に話しながら、戦士と僧侶は真っ直ぐ城内を抜け、謁見の間を目指していったのだが、
「「……魔王は、どこ?」」
二人の女は薄暗い通路の真ん中で立ち止まり、城の階段を登って進んでいた筈と背後を振り向くと、
「「ここは……地下……迷宮……?」」
先に有る筈の通路は閉ざされ、元の場所へ戻れなくなっていた。即座に戦士は通路の石壁に手に持った鉄鎚を叩き付け、無理矢理に新しい道を作ろうと足掻き、僧侶は床に掌を押し付けて呪文を繰ろうとするが、
「……魔族の領域に、傀儡の術で縛った木偶を送り込むだと? 片腹痛いわ」
聞き覚え有る声と共に壁と床が黒ずむと、闇が伸びて各々を掴み、ずるりと引き込むとそのまま搔き消えた。
「また、来たのか……カイとか言ったな、お前は本当に……なんだその格好は?」
闇の中から彼の傍に例の側近が姿を現すが、身動き一つ出来ないカイの姿を見やり、呆れたように呟くと、
「……芋虫並みの知性だけならまだしも、形態まで芋虫の真似をするのか。昨今の勇者は忙しないものだな……」
彼の頭上に顔を寄せ、神妙な表情で嘲るように言うと、指先をパチンと鳴らしただけで全ての拘束を解してしまった。
「三回もやって来て、死なずに帰れたのはお前が初めてだ。だからこれ以上の悪しき前例は要らんので、二度と来るな」
側近は冷たく言いながら、しかしカイの身体には指一本触れず、中指の先で弾く仕草一つで彼を城の外に叩き出し、くるりと身を翻して立ち去ろうとするが、
「……只の愚鈍な勇者だと思っていたが、まさか【聖女の護り】を備えていたとはな……道理で幾ら防いでも無駄な足掻きだったか」
振り向きながら、門の外で顔面から落ちて逆さになったまま気絶するカイに、諦観の籠った眼差しを向けてから、肩に懸かった髪を払い退けて門の中へと戻っていった。
……それから、半月が過ぎた。
カイは国に戻らず、魔族の国に居た。ゴブリンの老夫婦の家に居候し、畑の収穫を手伝いながら時折魔王の城に向かい、しかし中に入らずそのまま帰る日々を過ごしていた。
「……のぉ、カイはんよ……お前はん、魔王はんに会いだくは、ねぇのんかぃ?」
皺だらけのゴブ爺に訊ねられ、カイは無表情のまま答える。
「……会いたいさ、でも……どうやら、魔族の殆どは俺に触れる事も出来ないらしいんだ」
「そっけぇ……だも、オラやバさまは平気なんにのぅ……?」
ゴブ爺はそう言うと、カイの頭に付いた藁クズを取ると、ふーっと吹いて窓から外に出した。どうやら、ある程度まで年老いた魔族だけは、彼の強烈な【聖なる壁】の力の影響を受けないようなのだが、それは魔王とは触れ合えない事を意味していた。
その事実を知ったカイは、魂が抜けたようになり、何にも興味を向けぬまま城とゴブ爺の元を行き来するだけの暮らしをしていたのだが、
「……なんだ?」
その日の夕方、彼が城門の近くまでやって来ると、数人の男達が馬に乗って現れ、何かが入った袋を乱雑に投げ捨てると、その場から逃げるように立ち去っていく。
流石にカイも何事かと思いながら近寄ると、袋の中身がもぞもぞと動いたので、生き物を詰めて棄てたのだと理解した。
「まさか……子供かっ!?」
中には投げ捨てられた拍子で頭を切ったのか、額から血を流し弱々しく震える女の子が入れられていた。服装はみすぼらしくも無く、何処からか略取され、見せしめか脅迫の為に捨てられたようにも見える。
しかし、ここは魔王城の前。どんな理由が有ろうと救助の手が差し伸べられる道理は見当たらない。怪我がどれだけ深刻か判らないが、早く手当てをしないと死んでしまう。そうカイが思った時、
「……ねえ、その子は誰?」
不意に背後から問い掛けられたカイが振り向くと、
「……誰なの? 死んじゃうの?」
魔王の少女が、そこに居た。
「……いや、知らないけど……どうにかして助けられないか?」
「うーん、どうだろうね……判んないけど、助けたらいいの?」
奇妙な会話だと思いながら、カイは魔王の少女に向かって思わず懇願していた。
「ああ! 出来るならそうしてくれ!!」
「うーん、あるぶれひてぃが何て言うかなぁ……ま、いっか。その代わり、お兄さんの名前を教えて?」
魔王の少女はそう言うと、紙袋を抱えるように怪我した子供を軽々と持ち、カイに向かって尋ねる。
「……カイだ」
「カイ……そうか、勇者ってお兄さんの事だったのかぁ! じゃ、この子が元に戻ったらお兄さんを貰っていい?」
さらりと過酷なお願いを彼女は言うが、カイは迷わず答えていた。
「……いいよ、命でも身体でも、好きなようにして構わないから……」
「うん! 判った!! 約束してね!」
そう言って小さな手を差し出し、小指を伸ばしながらカイの眼を見た。
「……約束するよ」
「うん! じゃ、またね!!」
まるで遊ぶ約束をするように小指を絡ませ合い、二人は城門の外と内へと別れていき、そのまま離れていった。
それから、再び半月が過ぎた頃。まだゴブ爺の元にカイは身を寄せていたが、日々の暮らしに僅かな変化が起きていた。
魔王城の近くまでやって来るとカイは、以前と同じように何もしなかったが、城壁の上から魔王の少女と怪我をした子供が彼を見つけては、
「今日はね! たくさん玉子を食べたの!」
「たべたの!!」
他愛の無い話題を言って、無邪気に手を振ったり笑いかけたりするのだ。その様子を見てカイは子供が手当てを受けて一命を取り留めた事を喜び、
「元気になったようだね!」
そう語り掛けてやり、手を振って帰るのである。端から見れば微笑ましい光景だが、カイはいずれ約束を果たす為に魔王の元に行き、何かを引き換えにするだろう。
しかし、彼は恐怖を感じなかった。寧ろ、苦渋と悲しみに満ちたこの人生を安らかに終わせられるなら、それに越した事はない。それが彼なりの人生を賭けた選択だったのだから。
だが、カイと魔王の約束が果たされる事は無かった。暫く経ったその日、いつもと同じように魔王城へ立ち寄った彼は、顔馴染みになった牛頭の魔族から子供が死んだ事を聞かされたのだ。
カイは、自らの意思で魔王城に飛び込むと、迷う事無く謁見の間へと走った。
「……勇者か、何をしに来たのだ」
あの側近が冷たい口調で現れたカイに問うが、彼の眼は彼女を通り越し、小さな棺に収まった子供の亡骸と、その傍らで人形のように気の抜けた表情の魔王を捉えると、無言のまま近寄っていく。
多くの魔族が見守る中、麦藁を掻き分けるように棺の元へ辿り着いたカイは、魔王の少女に一瞥をくれてから亡骸を抱き抱えると、
「……約束は果たせないが、この子供は貰っていく。その代わり……もし、再び俺が此処に来たら……願い事を一つ、叶えてくれ」
カイがそう言うと、魔王の少女はこくりと頷き、そっと小指を伸ばして差し出した。
それから、どれだけ時が過ぎたか。
再びカイが魔王城に現れた時、彼に宿っていた【聖女の護り】は影も形も無く消え失せていたが、その傍らには少しだけ髪を伸ばしたあの子供が、寄り添うように立っていた。
「……約束を果たして貰いに来たぞ」
「……おねーちゃん!!」
自らに宿った【聖女の護り】と引き換えに、奇蹟の力を使ったカイは甦った子供を連れ、魔王の元へと歩み寄る。
再会を喜び飛び付いて来た子供を抱き締めながら、魔王の少女はカイに向かって何か言おうとするが、彼の掌で制されて口を噤んだ。
「……名前を、聞いてもいいか?」
カイが彼女にそう尋ねると、少しだけ頬を朱に染めながら恥ずかしそうにしつつ、
「……メリッサ!!」
そう答えると、彼の胸目掛けて飛び込み、居合わせた魔族達から一斉に二人を言祝ぐ声が上がった。