前編
彼は夢を見た。
夢の中で、一人の少女に出会った。
……彼女は、魔王だった。
カイは幼い頃から同じ夢を視ては、憂鬱な気分で目を覚ましてきた。繰り返す夢は暗澹として正体は無く、ただ不安と憔悴感が募るだけの嫌なものだった。
しかし、彼は決してその事を口に出さず、黙して他人に話す事はしなかった。
だが、そんな日々は容易く崩れる。突如彼は選ばれた者として【勇者】の一人になったのだ。神託、選定、推挙……手段は様々だが、【勇者】は突如として現れ、人々の先頭に立ち、導く者として平和をもたらす……筈だった。
カイは今日もボッコボコにされた。まだ勇者に選ばれて日が浅いにも関わらず、選び抜かれた精鋭によって、徹底的に叩きしごかれての結果だったが。
仰向けに寝転び、空を見上げながら冷たい風に吹かれている内に、どうして自分は【勇者】として選ばれたのか、といつも通りのループへと落ち込むのが定番コースだったが、その日は違った。
「おい、さっさと起きろ!」
乱暴な言葉と同時に冷水が浴びせられ、甘く魅惑的な思考の渦に身を浸す余裕を与えられぬまま、腕を掴んで引き起こされてしまう。
「……ひでぇや、もう少し優しさってのは無いもんかなぁ……」
「温い事を言ってないでシャンとしろっ!! 【勇者】選定の巫女様が来たんだぞ!!」
ろくに名前も呼ばれず、カイは尻を叩かれながら真っ直ぐ立たされ、髪から水の雫を垂らしたまま、彼の元に現れた女の前で姿勢を正せられる。
「……首尾はどうですか」
「ハッ!! 問題はございません!!」
首の周りにたっぷりと肉が付き、歩く度にゆさゆさと揺れ動く脂肪の塊と化した女が、カイの前で指導役の騎士に向かって詰問する。
やがて【勇者】選定の巫女、と呼ばれる女はカイの顔を見て、暫く目を細めながら観察を続けてから、ふぅと疲れたような溜め息を吐き、
「……まあ、いいでしょう。あなた、そろそろ魔王の城に行きなさい。そして……新しい魔王を打ち倒して結果を出すのです。判りましたね?」
まるで市場に出荷される家畜に向かって話すように、身体の端々に目を向けながら言い渡すと、巨体に纏った薄布を靡かせながら、どすどすと歩み去って行った。
「……カイ、恨むなよ? ああでもしないと、あのデブ女が他の奴に八つ当たりし始めちまうからさ……」
「ああ、判ってるよ……隊長さんも大変だね」
巫女が居なくなったと同時に二人は姿勢を崩し、互いに言いながら城の中庭から城内へと帰って行った。
カイが【勇者】に選ばれるまで、既に多くの【勇者】が様々な国に現れて、奇蹟を遺して来た。技術、知識、武力……その種類は多岐に渡り、人々の暮らしを棚上げしてきたのだ。
無論、カイ自身も何らかの【勇者の奇蹟】を遺すだろうと期待され、生まれたこの国に貢献する……筈だった。
だが、カイの知識に特筆する面は現れず、平凡な才能しか持っていない事が露呈するに従い、彼の価値は急速に低下していった。
そんな折に、彼の住む国と接する魔族の国に新たな魔王が現れた、と報告が届く。これ幸いと巫女を始め国の根幹を成す面々が、彼を魔王殲滅の尖兵として送り込む事に決めたのだが……残念な程に、彼の才能は開花しなかった。剣を振っても空回り、道を歩けば穴に落ち、ついでに頭も回らない。そんな出来損ないの【勇者】だったが、とにかく魔王城に行かせ、相討ちになれば儲けものと尻を叩いて討伐の準備を始めたのだ。
「さあ、出発するのです」
傅く人々を従えたデブの巫女に命じられて、カイは旅立った。出立の見送りは適当に誂えられた簡素な行列のみ。涙の判れも感動もへったくれも有りはせず、そこそこの装備(旅に必要な野宿道具と最低限の小切手)と食料を背負ったカイは、厄介払いされるように城から送り出された。
「……魔王って、どんな奴なんだろう……」
カイは魔族の国まで徒歩で向かいながら、何も知らされていない魔王について考えてみる。余計な知識を与えられぬ理由は、ただ単に彼が恐怖に駆られて逃げ戻らぬ為の配慮だった。
魔族の国、と言ってもカイの住む国にも多少の魔族は出入りしている為、おどろおどろしい印象は無い。別に黒い雲に覆われている訳でもないし、単に魔族達が互いに身を寄せながら平和に暮らしているに過ぎないのだ。
だが、人間の国と魔族の国には明確な違いがあった。それは魔族の国には【勇者】が生まれない、と言う事だ。何故、人間の国にだけ【勇者】が顕れるのかは未だ解き明かされぬ謎だが、魔族には【魔王】が輩出されるから、と言うのが定説になっている。
魔族の国に【勇者】が輩出されない為、人間の国と違い科学技術や発明等の、便利で暮らしに役立つ【勇者】補正は彼等の国には無かった。電気を蓄積するバッテリーや家庭に分電される電線の類いが無いせいで、魔族の国には家電は存在しない。極一部の高位魔族だけは人間から高価な電化製品を買えるらしいが。勿論、人間の国でもそれは変わらない。カイの部屋にある家電は電池を使う懐中電灯しかない。
それにしても、魔族の国は平和である。人間の国が野盗や追い剥ぎ、時には賄賂を求める公僕すら出没するのが当然なのに、カイは少しだけ肩透かしを食らってしまう。なぜ、こんな平穏な魔族を、いや【魔王】を滅ぼさないといけないのか。彼にはそれが判らなかった。
二日間の行程で、好意的な魔族の家に一夜の宿を借りながら魔王の城に着いたカイは、ここに来てどうしたら中に入れるかと、暫し悩む。
「……あのー、誰か居ませんかー?」
結局、城門脇の小さな出入り口を叩き、中から誰か出てこないかと待った。
「……なんだい、ここがどんな場所か判ってるのか?」
暫く経過し、やっと分厚い扉が開く。中から長い角を生やした牛頭の魔物が顔を覗かせながら、カイの顔をじろりと一瞥する。
「……魔王に用が有って来た。会わせてもらいたい」
正直に答えると、魔物は少しだけ考えてから少し待て、と告げながら中に招き入れる。
「失礼します……うわっ、本当に魔王の城……なのか?」
カイは目の前に広がる光景に固唾を飲みながら、視界の隅でアンテナ設置工事をしている人間の業者の姿を目敏く見つけ、妙な不安感を覚えた。
「……それで、魔王に何の用があるのだ?」
カイは中庭の隅にある詰所に案内され、そこで先程の牛頭魔族と面談した。
「……実は、俺……勇者なんだ」
カイが正直に告げると、その魔族はフン、と鼻から強く息を吐き、そのまま彼の顔をじっと見詰めてから、
「……過去に勇者は八人やって来た。七人は歴代魔王の四人と相討ちになり、三人は返り討ちにした。お前は何を望んでいる?」
淡々と語るが、その言葉に今度はカイの方が眼を剥いた。
「えっ!? 八人来て、一人しか帰れなかったの!!」
「……何を驚いてるんだ……カイと言ったな、お前の何代か前の爺様が生き残りだったんだろ?」
魔族に平然と言い返されて、自分が勇者の血族だと初めて知った彼は、神託だの予言だのと理由を付けて、自分を引っ張り出した巫女や他の連中が、一気に信じられなくなった。
「……まあ、いい。今、魔王様の側近が直々にお会いするそうだ。だが粗相だけはやめてくれよ、俺がどやされるから」
無言のまま俯くカイに、牛頭の彼は忠告すると白いカップに注いだコーヒーを差し出した。
「……待たせたわね」
「お、お邪魔してます!」
二杯目のコーヒーとビスキュイが無くなった頃、漸く側近の魔族が現れた。つい立ち上がり頭を下げかけた彼に、掌を突き出し制してから、再び口を開いた。
「で、魔王様と会うつもりなの?」
その女の魔族は黒いタイトスカートと隙の無いスーツに身を包み、見るからに高い魔力と実力を押し隠しながら、唯一の魔族らしさを感じさせる一対の巻き角を、長い髪の間から覗かせていた。カイは彼女の姿に暫し見惚れてから、ぽつりと呟く。
「……それが、自分でも良く判らないんだ」
「そうよね、勇者なんて……え?」
カイの言葉に一瞬言葉が詰まりかけた側近は、怪訝そうな表情で彼の顔を見る。
「俺、お前は勇者だからと言われて放り出されて来たけれど……戦う理由が見つからないんだ」
訥々と話すカイの顔を眺めながら、側近の魔族は眉を曲げながら話を聞いていたが、不意に立ち上がると中空に魔導の印を描き、モヤのような小さい亜空間を生じさせた。
「……カイとか言ったわね、貴方……本当に勇者なの? だったら証明してみせて」
側近はそう言いながら亜空間に腕を挿し込むと、赤黒い何かを掴み出し、彼に向かって付き出した。それはビチビチと身体を震わせながら踠く、彼の顔より大きなヒルだった。
「……食べなさい。嫌なら……殺すわよ?」
右手でヒルを掴みながら、左手で再び印を結ぶと、部屋の空間全体に所狭しと成る程の氷の刃を浮かべながら、側近は命じた。
死ぬような思いの末、やっと魔王の城から解放されたカイは、元来た道をふらふらと歩きながら当て所無く彷徨った。まあ、自分の腕と同じ位の大きなヒルを、丸ごと一匹食わされれば当前だが。
結局、彼は日が暮れるまであちこちを徘徊し、再び魔王の城の近くまで戻って来ると、茂みの中に倒れ込んでそのまま気を失った。
彼は夢を見た。
夢の中で彼は、一人の少女と出会った。
……彼女は、魔王だった。
カイが眼を覚ますと、朝になっていた。気を失った事までは覚えていたが、それから目覚めるまでの記憶は当然無い。しかし、夢の中で出会った少女の事だけは覚えていた。直感的にカイは彼女が魔族だと判り、彼は困惑する。勇者の彼が、どうして魔族の娘の夢を見るのか。理由が全く判らなかった。
茂みの中から身を起こし、痛む節々に顔を歪めながら立ち上がると、カイは理由も判らぬまま歩き出し、夢遊病者のように魔族の国を彷徨い続けた。
それからの彼は夢の中で歩き、目覚めた記憶も希薄なまま横たわり、何を食べたかも定かで無い状態でふらつきながら再び気付いた時、あの魔王城の門の前に立っていた。
「……またお前か? 懲りない奴だな……」
彼の顔を見た牛頭魔族は半ば呆れながら、しかし拒むでもなく中に入るよう促し、詰所で待つよう告げながらコーヒー豆を曳き始めた。
「良く戻って来たわね、懲りもせず……貴方、馬鹿なのかしら」
側近は再び現れたカイに褪めた口調でそう言うと、つまらない物を見る目付きで彼を一瞥し溜め息を吐いた。
「……俺は知りたいんだ、夢に出てきた娘が一体誰なのか」
「はぁ? 何を言い出すかと思えば……ここは人間の心理相談所じゃないわ。他を当たって貰えないかしら」
しかし、彼女は口調とは裏腹に愉しげな雰囲気を漂わせながら、彼の額に人差し指を当てて呟いた。
「……眠りなさい、カイ……本当の理由を見出だす為に……」
そう言われた瞬間、彼の身体は不意に力を失い、糸の切れた操り人形のように椅子から転げ落ちた。