海斗(2)
頭がぼんやりしている。試しに問題集を再び開いてみたものの、まったく進まない。先ほどから進んでいるのは時計の針だけだ。
テラとフロウに一方的な通告をした海斗には理不尽だと怒りを覚えていた。それを見過ごすことができずに引き止めてまで言い募ったのだというのに、さらに海斗は何と言ったか。
まるでテラとフロウが兵器であるような言い様。
理奈は何の話をしていたのかわからなくなるほど混乱した。別に海斗の使った言葉が難しくて理解できなかったわけではない。理解することを脳が拒んだのだ。海斗の言ったことをそのまま事実として飲み込むことを、理奈の脳が、心が拒否した。それなのに、その言葉はずっと理奈の中でリフレインしている。そんな状況で他のことが手に付くはずもない。
結局ずっとぼんやりしていると、居間に順一が顔を見せた。二人のメンテナンスが終わったようだ。夏の長い日が傾き始めているのだから、相当の時間が経っている。程なく柱時計が五時を告げた。
「おじいちゃん」
「うん?」
ぼんやりしたまま、頭の整理などできぬまま、理奈は順一に疑問を投げかけた。
「おじいちゃんは、一体何を生み出したの?何のためにテラとフロウを造ったの?」
声がかすれている。考えてみれば自分で入れた緑茶を一杯飲んだだけなので、若干脱水症状を起こしている気もする。クラクラするのはそのせいか。
順一を見上げる自分がどんな表情をしているのかわからない。顔の筋肉に力が入っている気がしないから、何の表情も浮かんでいないのかもしれない。
しばらくじっと理奈を見下ろしていた順一は、詰めていた息をゆっくりと吐き、理奈の前に腰を下ろした。
「海斗から、何か聞いたのか」
「テラとフロウが、秘密兵器みたいなこと。ちょっと意味わかんないけど」
本当は意味は「わからない」のではなく「わかりたくない」のだということも、心の隅では気づいている。だがそれを、一縷の望みを託して押し殺す。そうではない、と順一が否定してくれるという望みを。
だがその儚い望みはあっけなく散った。
「その通りの意味だよ。兵器というと語弊があるが。戦地で自衛官の代わりに危険な任務を執行する、つまりは兵士の代役となり得るアンドロイドの開発が、今のわしの職務じゃ」
従兄と言われてもほとんど面識のない海斗に言われたのならともかく、実の家族である順一の言葉を「わかりたくない」と拒否し続けることは難しかった。少しずつ、理奈の作った壁を崩しながら侵食してくる。どうせなら理奈が理解できない難解な言葉で説明してくれればいいのに。
「じゃあ、どの道いつかはテラとフロウと別れることになったってこと?おじいちゃんは」
「まぁ、そうなるな」
静かに、穏やかに応える順一。自分から訊いておきながら、その返答を受け入れがたく思ってしまう理奈。
――私たち、家族みたいなものなんだから。
ここへ来た次の日、フロウに言われた台詞がよみがえる。あの言葉は、どこから出てきたものなのか。順一がテラやフロウと家族として接してきたから出た言葉ではなかったのか。
「おじいちゃんにとっては、あの二人は家族ではないの?」
「理奈」
もう独り言のように力なくしか話せない理奈に、順一はあくまで優しく呼びかける。
「わしにとって一番大事な家族は、お前たちだ。ここに残ってあいつらの開発を続けているのも、ひいてはお前たちを、お前たちの未来を守るためじゃ。それはわかってくれるか」
順一の言う「お前たち」の中にテラとフロウは入っていないのだ。なぜかそれが、ひどく苦しい。
「……よくわかんない」
「そうか。なら今はわからんでもいい。だがいつかきっと、わかってくれるとわしは信じておるよ」
順一の優しさが、まるで反転してしまったように理奈の心を冷やしながら掠めていった。
* * *
「そんな不安そうな顔するなよ。ちゃんと準備すれば大丈夫だって。そのために海斗がわざわざ知らせに来たんだし」
白いプレハブの、メンテナンスルーム。アンドロイドだけしかいない空間での、秘密の会話。
「それは、そうだけど」
「だいたい行ってみないとわかんないよ。実戦がどんなものなのか。そこで俺たちが通用するのか。わかんないことを考えても仕方ない」
「そう、だね……」
普段明るいフロウも、今は沈みがちな声でしか応えられない。それに比べてテラはむしろいつもより機嫌がいいくらいだ。
「フロウ?」
テラが顔を覗きこむようにすると、フロウは力なく笑った。
「うん、わかってるつもり。テラがそうやって楽観的に考えてる分、私が悲観的になってるだけなんだって。そうやって今まで私たち、バランスをとってきたんだもんね」
それは、対である二人の宿命のようなもの。アンドロイドに感情を持たせるためのしくみによってもたらされる、二人の均衡。
「テラの言う通りだよ。何が正解かなんて、やってみなきゃわかんない。未来を見ることなんて誰にもできないもんね。だったら私は、テラの直感を信じるよ」
言い終わるかどうかというときに、テラはフロウを抱きしめた。いつものような体当たりのような抱擁ではなく、愛しいものを包み込むように腕を回す。身体が密着したときに鳴るカチャリ……という微かな音。それは身体の中の金属がぶつかる音だ。ここまで静かでなければ他者が聞きとがめることなどないような音だが、テラとフロウは常に認識している。だから二人は自分がアンドロイドであることを忘れない。人間ならたてることのない音を内包しているから。
「ごめんな。フロウを不安にさせて」
「ふふ、テラは優しいね」
くすぐったそうに、フロウがやっと笑った。その夜、二人は長い間、まるでお互いの存在を確認するように抱き合っていた。
* * *
考え事をしていたせいか、昨夜はあまり眠れなかった。フロウの作ってくれた朝食を食べている間も、理奈は生あくびを止められなかった。今日の味噌汁は菜園で取れたオクラとナスが入っている。
「眠そうね。大丈夫?」
「うん……」
そんな理奈とは対照的に、フロウは昨日の不安な様子を一切見せず、すっかりいつもの調子を取り戻している。なんだか非常にやるせない気分になってくる。
今になって、この閉鎖区というものの実情を思い知る気分だ。家出をしてここへ来ることを選んだのは理奈自身だ。そして一般人立入禁止という現状を知った上でここにい続けることを選んだのも理奈だ。しかしやはりそれは無理のある選択だったのかもしれない。順一の孫とはいえ、理奈はこの閉鎖区内ではただ一人異質な存在である。同じ順一の孫でも、自衛官として働いている海斗とは立場が違う。この場にいることがふさわしくない存在である理奈が、この中で馴染んで生活していくことはできない。このフロウのように、ここで暮らす者が当たり前のように受け入れている現実を受け入れることができない。自分だけが、この場では非常識な人間になってしまう。それならさっさと帰ればいいのかもしれないが、祖父の現状を知れば知るほど、放っておくこともできないと感じてしまう。
「具合悪いの?無理しないで休んだら?」
どうやらぼうっとして手が止まっていたらしく、フロウに心配そうに覗き込まれていた。
「いや、別に元気だよ」
「そう?」
「うん。ちょっと昨日の話でショックを受けただけ」
「昨日の話?」
怪訝そうに聞き返すフロウに、海斗から聞いたことや、その後順一から聞いたことなどをつらつらと話した。それで理奈がどう思ったかということも。まとまりもなければ順序だてられてもいない愚痴のような話を、フロウは黙って聞いてくれる。
「ごめんね。フロウにこんな話してもしょうがないよね」
自嘲するように笑うと、フロウに頭から抱きすくめられた。
「おわっ」
「理奈は私たちのこと、家族だと思ってくれたんだね」
いきなりのことにびっくりして変な声を出してしまったが、フロウの真摯な声に我に返る。
「ありがとう。……でも、それは理奈が教えてくれたことなんだよ」
「え、私?」
意外な言葉に目を丸くして、身体を離したフロウを見つめる。ちょっと悲しそうな、複雑な表情。
「ここには、家族というものを感じられるような人間関係はなかったんだよ。理奈が来るまでは。海斗が博士の孫だってことは知っていたけど、ここへはほとんど来ることがないし。家族がどういうものなのかを可視化する対象がなかったから、言葉としては知っていても、それがどういうものなのかはわからなかった。だから理奈が来たとき、ちょっとうらやましかった。私たちにはない博士との関係が」
それでは。あの言葉の本当の意味は。
フロウは、家族になりたかったのだ。順一や、理奈と。
それが本当は許されない立場だと知りながら。
「私は……ううん私たちは、自分たちの存在する意味をわかってるつもり。博士からも丁寧に説明してくれたし。だから精一杯、与えられた役目を果たすだけ」
その言葉で、昨日海斗が一方的に通告してきた任務にも納得しているのだと、嫌でもわかってしまう。本当にもうすぐ、フロウもテラも遠い異国へと旅立ってしまうのだ。それが苦しく感じるほどに、理奈には二人が大切な存在になっていた。
ふと、昔戦争に向かう家族を送り出した気持ちはこういうものだったのだろうかと、自分もまだ生まれる前の遠い過去を思った。
「海斗のことも、あまり悪く思わないであげてね。あの子はあの子で苦労人なのよ」
朝食の片付けをしているときに、おもむろにフロウが言った。昨日の印象が最悪の理奈としては、海斗のことなど存在自体認めたくない勢いだが、フロウにこう言われてしまうと弱い。
「苦労人?」
「海斗のお父さんも自衛官だったの。でも随分前に亡くなって。訓練中の事故だったそうよ」
「えっ……」
「その後、お母さんには反対されたのだけど、結局海斗も同じ道を選んだ。まるで後を追うように。だからちょっと心配なの」
心臓がきゅっと縮んだ気がした。フロウの言葉に引かれるようにして急によみがえってきた記憶が頭の中をぐるぐると巡る。
思い出した。海斗と以前ここで会ったのがいつだったのか。あれは海斗の父、つまり理奈の伯父である浩之の通夜のときだ。
当時理奈はまだ小学校にあがる前だった。何もわからないままに両親に連れられてこの家に来た。伯父は理奈の父、康介の兄で、つまりは順一の息子だ。ここで順一と一緒に住んでいたわけではないが、伯父にとっては生家であるのでこの家で通夜がおこなわれた。このときは理奈はまだ「通夜」などというものを理解してはいなかったので、そうだとわかったのはずっと先のことだ。五年前、祖母の幸枝が亡くなったときに、同じような状況を以前に経験しているはずだと、記憶が引っぱり出されたのだ。祖母のときは海斗はいなかったので、彼に関しては面影がつながらなかった。
一体、どういう思考なのだろう。自分の親を亡くしたというのに、同じ仕事に就くというのは。
「わざわざそんな、傷口に塩塗るようなことしなくてもいいのに」
「え、塩?」
きょとんとして訊き返すフロウに邪気はない。フロウにとって塩は単なる調味料だから、理奈の発言を妙に思ったのだろう。
「あぁ、傷口に塩を塗るってのは慣用句だよ。すっごくしみるけど、その分傷が早く治るって昔は考えられてたんだよ。それが転じて、自分にとって辛いこととか、嫌なことを思い出すようなことをあえてやるとかそんな意味で使うよ」
「へぇ」
ひとしきり感心した様子のフロウに、理奈は少し得意げになった。コンピュータの脳で正しい情報をすぐに調べられるフロウにも苦手なことはあるようだ。考えるポーズで、フロウは言う。
「私たちみたいなアンドロイドは、傷口に塩なんて塗ったら錆びちゃうわね」
「ぷっ、あははっ、確かに。絶対やめたほうがいいよ。私もしないし。すっごい痛いらしいもん」
真面目に考えたフロウの発言に理奈は思わず笑った。呆気に取られた様子だったフロウも、理奈に釣られてついに笑い出した。二人で笑っていると、まるで女の子同士の他愛もないおしゃべりをしているような気分になる。今の今まで、海斗についての重い話をしていたはずなのに。そんなことは遠い昔のこととでもいうように理奈とフロウはクスクスと笑い続けた。
しかし、笑ってはいられなくなるときは確実に、目前まで迫っていた。海斗がもたらした不穏な通告が現実となるまであと数日。そして、それが彼らの運命の分岐点となることを、このときはまだ誰も知らない。




