閉鎖区(2)
「こんなに、何もなかったっけ?」
駅をバックにしているので、ここは駅前のロータリーのはずだ。しかし眼前に広がるのは、小学校のグラウンドを彷彿とさせるような数百メートル四方にわたろうかという広大な、更地だった。商店街らしきアーケードやビルの群れまでがやたらと遠い。理奈の記憶も随分前のもので心もとないが、果たしてこんな更地になっていただろうか。先ほどトラックに乗っていたときは考え事に没頭していて景色など見ていなかったので、よけいに呆然としてしまう。ひょっとして場所を間違えているのだろうかと思い、駅の建物を振り仰いで見る。駅名は確かに理奈が目指してきたその駅であることを示している。
ふと、理奈は思った。これはもしかしたら、電車が走っていないことと何か関係があるのかもしれない。
突っ立っていても埒が明かないので、理奈はまず駅舎に近づいてみた。自動ドアの奥、コンコースをガラス越しに覗き込む。中は電気が落ちているのか、昼間であるのに真っ暗だった。音もなく、人の気配は感じられない。それはちょっと不気味な光景だった。本来人で溢れているはずの駅がまるで死んでしまったかのように静まり返っている。暑さのせいではない汗が背筋を伝って、ぞわりと身震いする。
本当に、誰もいないのだろうか。
辺りを見渡してみても、駅の中はおろか街の中にも人影は見当たらない。理奈以外に動くものはいないとでもいうように。
ふと目の前の自動ドアに焦点を移す。ほんのわずかだが、隙間ができている。そこに指をかけて左右に引いてみた。自動ドアは手動で開いた。閉鎖されているのではないのか。
中に誰かいるのだろうか。
「お邪魔します」
誰にともなく小声で声をかけて中に足を踏み入れる。外気が遮断されているせいか、その中はひんやりと涼しかった。
カン、カン、と自分のたてる足音だけがやたら響く。以前理奈が来たときから今までに駅舎が新しくなったようで、御影石調の床はまだきれいだった。天井から吊るされたライトや、電光掲示板、券売機なども真新しく見えるが、今はどれも点灯しておらず青白い闇に沈んでいる。ドアで仕切られたみどりの窓口も真っ暗で、やはり人の気配は感じられない。
そのまま進んでいくと、駅の反対側、駅裏側のドアが見えた。そのガラス越しに外の様子を窺う。こちらは駅前のような更地にはなっていないようだ。ここへ来てやっと理奈は見覚えのある建物を発見することができた。それは右奥の商業ビルだ。以前こちらへ来たときに家族連れ立って訪れたことがある。
こちらのドアをくぐれば、ちゃんとした街に出られるかもしれない。
人っ子一人いないという悪夢のように不気味な街とは、このドアを出ればおさらばできるような気がした。外は明るい日差しに照らされて輝いているように見える。外へ出ればきっと、普通に人のいる普通の街になっている。実は今まで見た風景は白昼夢か何かで、ドアをくぐれば現実の世界に戻れるのかもしれない。
やはりちょっとだけ開いた自動ドアに手をかけ、意気揚々と外へ出た。
「……けほっ」
駅前ほどではないものの、こちらも空気が埃っぽい。そして静寂に包まれた街にはやはり人影らしき影は見当たらない。がくり、とうなだれた。
ただ、一つ大きな収穫があった。見覚えのある商業ビルを見たことで、祖父の家との位置関係がなんとなく見えてきたのだ。バス停は駅前にあったはずだが、どうやら理奈が乗っていたのはこちら側に入ってくる路線だったようだ。確かその奥にバス停があったはず。バスは走っていないようだが、そこから道をたどれるかもしれない。とにかくその方向に向かって歩き出した。
そのとき。
ドドドド……ン
腹の底に響くような重低音が遠くから聞こえた。それと同時にかすかな振動も感じる。
「地震?」
とっさに頭を抱えてその場にしゃがみこむ。子どもの頃に避難訓練で外で地震に遭ったときはこうするのだと習った。
「……」
本震に備えたつもりだったのだが、そのような揺れはいくら待っても襲ってこない。地震ではなかったのか。それとも揺れが小さすぎて感じられなかっただけだろうか。おそるおそる立ち上がる。頭上から何かが落ちてくるような気配もない。
一体今のが何だったのかわからないまま、理奈は再び歩き出した。商業ビルの横を抜けるようにして、その奥の通りへ。ビルの方は見ないようにする。人気のないビルはやはりちょっと怖い。
通りへ出ると、理奈は奇妙なものを見た。
人通りがないことはもちろん、車も一台も走っていない通りの真ん中に、やたらごつい見た目の車両が何台か停まっている。先ほど乗ってきたしおりのトラックは背が高かったが、こちらはどちらかというと横幅が広い造りをしている。全体がモスグリーンのような濁った緑や土気色といった微妙な色で統一されている。街中を走るには不向きと思われる車両。
そう、まるで自衛隊が使っているような。理奈がそう思った次の瞬間。
ヒュッ、と何かが目の前を通り過ぎたように感じたのとほぼ同時にバリィン!と何かが割れるような音が耳をつんざく。思わず息を吸い込んで耳を両手でふさいだ。振り返ってみると、商業ビルのショウウインドウのガラスがかなり広範囲に割れている。
「何?」
わけがわからずに呻くと、今度は頭上を影が横切った。慌てて目で追うと、普通では考えられない速度で飛ぶ小型の飛行機だった。それは随分先のほうでなぜかUターンし、こちらに向かってくる。また先ほどのような音がして今度は上方のガラスが割れる。
「えっ、きゃぁぁぁぁっ」
今度こそ本当に頭を抱えて理奈は元来た道を走り出した。しかしそちらでもガラスが割れたのでパニックになり、よくわからない路地裏を縦横無尽に走った。何がなんだかわからない。だが立ち止まったら危険な気がして、とにかく走った。普段運動不足の理奈は息が切れたし足もがくがくしたが、それでも倒れるように走り続けた。
限界を感じた瞬間、ガバッと後ろから何かが覆いかぶさってきた。あまりもの恐怖に縮こまっているとその体がふわっ……と宙に浮いた。
あぁ、これが世に言う幽体離脱というやつか、と今考えている場合ではないようなことを考えた。とどのつまり、理奈の意識はもう飛びかけていた。
「お前、人間!?」
「へぇっ?」
その意識を引き戻したのは、上から降ってきたその声だった。
随分久しぶりに人の声を聞いた気がした。しおりと別れたのはついさっきのことだというのに。やっと人と会えたのだと思って理奈は少しほっとした。
「ちょっと、聞いてる?」
「はい?」
その声の主に身体を揺すられて、ようやく理奈は正気に戻った。そうして自分の状況を改めて確認してみると。
なんと声の主と思われる男性に、横抱きにされていた。
「うわぁ」
慌ててその腕から逃れようとする。じたばたと暴れる理奈を男性が面倒そうに地面に降ろした。逃げようとしたのに、そのまま理奈はその場に座り込んでしまった。腰が抜けてしまったのか、立つこともままならない。
「パニクってるところ悪いんだけど俺の質問に応えてくれる?お前、人間?」
「はい、人間です」
一体どういう質問だと思い、つっけんどんな態度で理奈は応えた。人間以外の何に見えるというのだろう。
しかし質問をした張本人は「嘘だろ……まじで人間なのかよ」などとぶつぶつ呟いている。なんだか微妙に腹が立つ言い様だ。
その間にもどこかからガタン、という何かが倒れる音やグシャッ、という何かが壊れる音が聞こえてくる。その合間にあのドドドド……という重低音が響いている。普段生活している中ではあまり聞かない音だ。強いて言うならアクション映画を見ているときに聞くような音。
「何で人間がこんなとこにいるんだよ」
「……」
独り言にしては大きいと思ったが、自分に言われているという確証もないので黙っておいた。同じ人間であるはずの男性には言われたくないと思いつつ。
「まぁいいや。とりあえずここにいて。とにかく演習を中止してもらわないと」
ここにいて、以降はうまく聞き取れなかった。そのまま男性は踵を返して走って行ってしまった。
言われなくとも腰が抜けていて動けそうにない。理奈は一つ深呼吸をして辺りを見回す。そこはビルとビルの隙間の細い路地だった。明るい通りまではだいぶ距離があり、少なくとも今のところ理奈のすぐ近くで何かが壊れるような音はしていない。とりあえずは安全ということだろうか。
パニックの余韻でまだ頭がぼぅっとしている。一体今何が起きているのか。気になることではあるがそこに考えをめぐらす余裕はなかった。とにかく足腰が使い物になるまでしばらく休むしかない。見上げるとビルに挟まれた狭い青空が目を射た。細い飛行機雲がその空を白く割っている。少し眠い。思えば今朝は随分早起きをしたのだ。疲労もあいまって体がだるい。随分汗もかいてしまい、服が体にまとわりついている。まるでプールの授業の後のような気だるさ。そんな夢うつつの理奈の耳に、その白昼夢に引っ張られたかのような音が届いた。
ピーンポーンパーンポーン♪
よくショッピングセンターなどで迷子の放送のときに流れるような、チャイムを間延びさせたような音。普通外ではあまり聞かない音だ。それが町内放送よろしくあちこちのスピーカーで鳴っているようだ。今度は一体なんだというのだろう。
『午前の演習が終了しました。各隊はスポットへ戻り、隊長の指示に従ってください。現時刻より、武器類の使用は厳禁となります。哨戒班はエリア内のチェックをお願いします』
やたらとゆっくり、一語一語の間隔をおいたアナウンスが流れる。女性の声だが、機械音声のようにも聞こえる。小学校の運動会で放送係が流す舌足らずなアナウンスを思い出した。
おそらく聞き取りやすさを重視しての放送だったのだろうが、理奈にはその内容がちんぷんかんぷんなので、結局何が言いたいのかはよくわからなかった。
トッ、トッ、と誰かが近づいてくる気配がして、理奈はそちらを見た。先ほどの男性が、理奈の方へと歩いてくる。そして目の前で立ち止まる。
「立てる?」
手を差し出して訊いてくる。どうやら助け起こしてくれるらしい。
「あ、どうも」
体がだるすぎたので、お言葉に甘えることにする。彼が誰なのかなどのことは一旦置いておく。しかしそのまま手を引いて歩き出そうとするのは遠慮した。男性は少し不服そうにしたが、付いて来いと言わんばかりに先に歩き出す。慌てて追いかけようとして理奈は足をもつれさせた。
「……やっぱ俺が運んだほうが早い気がするんだけど」
「結構です」
何とか一人で体勢を立て直す。運ぶというのは、さっきのような横抱きの状態を指すのだろう。そんな特殊な状況をさも当然のように提案しないで欲しい。
男性の後について細い路地を進んでいくと、やがて大きな通りに出た。そこでようやく理奈は重大なことに気がついた。すべての荷物を詰めたボストンバッグがない。
「私のバッグ……!」
一体どこに置いてきてしまったのか。おそらくはガラスが割れた音に驚いて走り出した、あの商業ビルの前。慌てて見回してみるが、かなり不規則に走ってしまったせいか、その商業ビルと思しき建物が見当たらない。財布も携帯も全部入れっぱなしなのでかなり焦る。
「ちょっと」
パニックになり、きょろきょろと辺りを見回しながら右往左往していた理奈の目に、先に行ってしまったはずの男性の姿が留まる。その彼が肩から担いでいたものは。
「あっ!」
駆け寄って確かめる。それは間違いなく理奈のボストンバッグだった。
「やっぱりお前のか。まぁこんな鞄持ち込むのなんてどう考えても一般人だしな。しかし無用心だな。ほら、行くよ」
担いでいたボストンを手渡してくれる。今の理奈のいわば全財産が詰まったそれを安堵のあまりぎゅうっと抱きしめる。男性が言っていることはほとんど耳に入ってこない。
「うん。やっぱり俺が運んだほうが早い」
理奈の背中と膝の裏に腕を回して、ひょいと横抱きで担ぎ上げる。その段になってようやく状況を飲み込んだ理奈が再び騒ぐ。
「お、降ろしてくださいっ」
「だめ。埒が明かないから。さっきから俺の言葉ほとんど聞いてないでしょ。こっちも忙しいの」
「ご、ごめんなさい……」
さっきから驚きすぎて言葉がすんなり出てこず、噛みまくっている。状況を整理する前に新たな出来事が起こるので、理奈の頭はずっと混乱したままだ。
どうやら自分がこの彼に迷惑をかけているらしいということだけはわかったので、恥ずかしいことこの上ないが大人しく運ばれることにする。
それにしても、重くないのだろうかと思う。男性はまるで重みなど感じていないかのようにすたすたと歩く。しかし女子高生とはいえ人間一人に加え、ボストンバッグの重みもある。結構な荷物を詰め込んでいるため、このボストンだって軽くはない。もっとよろけたりしないものだろうか。もっとも、他の男性に横抱きにされたことなどない理奈には実際のところはわからないが。
すとん、と次に降ろされたのは、先ほど通りに停まっているのを見かけたあのごつい車両の前だった。近くで見ればそれはまごうことなき、自衛隊の装甲車だった。
ぽかんとその車両を見上げていると、隣の男性が別の男性に向けて敬礼をした。
「その子か」
「はい。演習区域内で発見しました」
初老と見えるその男性は彼の上司であるらしかった。その二人を見比べ、そして装甲車を見て、理奈はようやく理解した。この人たちは、自衛官なのだと。それでも状況の半分もわからないのに変わりはないが。
「じゃあとりあえず乗って。区域外まで送るから」
「はぁ……」
男性が振り返って、装甲車のドアを開いた。
まさか一日のうちに乗ったこともない、そして今後乗ることもないであろう車両に二度も乗ることになるとは思わなかった。轟々と大きな音を立てて走る車両は決して乗り心地がいいとは言えない。
「で、何であんなところにいたの?区域内は一般人立入禁止だよ」
そのような言葉をさっき別の車両の中でも聞いたような気がする。だが今の今までその言葉の意味をきちんと理解していなかった。そもそも意味がわからない。なぜ自分の祖父の家を訪ねるだけでこんなに足止めを喰わなければならないのか。しおりの助力を得てやっとの思いでここまで来たのだ。その厚意を無駄にしないためにもなんとしても祖父の家にたどり着かなければ。
「私はただ、祖父の家を訪ねるところだったんです」
相手はずっと迷惑そうな様子だが、むしろ迷惑を被っているのはこちらなのだという思いを精一杯こめて不服そうに言う。すると男性は少し聞く態勢になった。
「ソフ?あぁ、おじいさんってことか。その家ってどこなの」
「M町の辺りです」
「M町だって?」
まるで意外なことを言われたというように鸚鵡返しに問われる。別に特殊な地名ではない。周りを繁華街に囲まれたごく普通の住宅地だ。
「その、おじいさんの名前って?」
「矢月 順一ですけど……?」
その名前を発した瞬間、男性は天を仰いだ。まるでひどくショックを受けたような様子。
「じゃあ、おま……君は矢月博士の孫なのか」
「博士?」
今度は理奈が鸚鵡返しになる番だった。祖父と今男性が口にした「博士」という肩書きが結びつかない。研究者のような世離れした職ではなかったような気がする。同姓同名の別人だろうか。だが「矢月」という苗字は珍しいのでそれも考えにくい。
「あの、祖父を知ってるんですか?」
おずおずと訊くと、返ってきたのはとんでもない返事だった。
「知ってるも何も。矢月博士は俺を造った人だよ」
「つくった??」
それははじめ、彼独特の言い回しなのだと思った。理奈の祖父、順一が彼にそう言わしめるだけの多大な影響を与えたとか、そういう話なのだろうと。ところが理奈のそんな考えは次の発言で見事に砕け散った。
「俺は矢月博士の手で生み出されたアンドロイドなんだ」
理奈の思考はついに完全に機能停止した。