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エピローグ

 その日、理奈の心は思いのほか晴れやかだった。

 夏休みの始まりの日、家を飛び出し、電車に乗ったあの日から約一ヵ月半。長いようであっという間だった学生だけの長期休暇は、明日が最終日だ。そして今日、理奈は東京へ帰る。東京で待つ、家族と日常の元へ。

 理奈が帰る決心をしたのは、ほんの数日前のことだ。夏休みが終わったらどうするのか。現実の生活からここまで逃れてきても、結局はそのリミットに迫られることで、やはり現実と向き合わざるを得なくなった。

 正直言えば、フロウのこともあるので残りたいという気持ちもある。フロウの存在をこういう形で存続させたのは理奈の意思だ。下手をすれば独りよがりになりかねないその判断が正しかったのかどうかを見届けるべきではないか。本人が望んでいることとはいえ、結果的にここに残していく形になる順一のことも心配だ。閉鎖区という特性上、順一と外部から連絡を取るというのは非常に困難だ。テラとフロウが付いているとはいえ、年齢的にも一人にしておくのは心許ない。

 それでも帰ろうと思ったのは、ここにいても理奈にできることはとても少ないからだ。

 ここで生活することで、自分がいかに何も知らなかったのかを思い知らされた。世界の情勢も、それどころかこの国の方針や現状も、ニュースで聞きかじって知ったつもりになっていただけで、本当には何も分かっていなかった。知ろうとすらしていなかった。だからF市が閉鎖区になっていることもまるで知らなかったのだ。それはもちろん情報統制が敷かれていたということもあるが、それを疑いもしなかったのだからやはり無知だったのだと思う。順一に電話の一本でもかけてみていれば、もっと早くに知れていたかもしれないのだ。この日本国内で電話が繋がらないことなどそうそうないのだから。

 まずは知ることから始めなければ何も始まらない。それにはここの環境は劣悪すぎた。

 うまく整理が付かないまま、まとまらないままに順一にそんなことをつらつらと話すと、この孫に甘い好々爺は少し嬉しそうに言った。

「理奈は何も間違っておらんよ」

 いつもの柔らかい笑みよりは、真剣味の混じったまなざし。そしてその声は、理奈の背中を押すように力強い。

「まず、自分がまだ何も知らないのだと気付いた理奈は偉い。ともすればそのことに気付かぬまま、表面上の情報だけで何でも知っている気になって、何も知ろうとせずに大人になってしまう者も、世の中には案外多い。今何も知らないことを恥じる必要はない。これから知っていけばいいんじゃ」

 順一は決して理奈を子供と決め付けて猫かわいがりしていたわけではなかった。ちゃんと向き合っていてくれたからこそ、こうして今理奈の力となる言葉をかけてくれる。とても心の芯が温まるような、ほぐされるような気分だった。「間違っていない」と肯定されることがこれほど勇気づけられるものだとは知らなかった。

 東京へ帰ることをフロウに告げると、きょとんとして問い返された。理奈がここへ来たときの記憶を持たないフロウは、理奈がずっとここに住んでいたものと思っていたようだ。ひどく寂しがってくれるので後ろ髪を引かれる思いがしたが、それをあえて断ち切る。理奈が帰ろうと思った最大の理由は、このフロウとテラのためだからだ。

 八月三十日の空は、理奈の心を映したように晴れやかだった。すっきりした青の中に浮かぶ雲は夏のものから秋のものへ変わろうとしている。

 荷物を詰め直した重いボストンバッグを肩からかけ、理奈は順一と向き合う。

「おじいちゃん、私ね」

 このときが来るまで、言おうか言うまいか悩み続けたことがあった。意を決して口を開くと、順一は怪訝そうにこちらを見つめた。

「帰ったら、出来たらだけど、世界を見てみたいんだ。テラとフロウのために。あの二人が自分たちを兵器だとか戦争の道具だとか思わずに生きられる未来のために」

 順一が怪訝そうだったのは、おそらく理奈がひどく真剣な面持ちだったからだろう。

 こんなことを言っては、下手をすれば順一がこれまでにやってきたことを否定してしまうのではないかと思って、今まで口にできなかった。だが先日、テラとフロウへの順一の思いを聞いて、理奈の思いともそう違わないのではと思い直した。何より今ここで宣言しなければ、理奈自身の心が折れそうだった。順一に告げるとともに、自分に言い聞かせる意味合いもあった。

 理奈にとって、フロウやテラはいまや家族も同然だ。そんな二人のことを思えば真剣にもなるというものだ。彼らに不幸な未来など歩ませない。存続を願った者の責任として。

 しばらく黙った後、順一はニッと笑った。今までにあまり見たことのない、悪戯っぽい笑みだった。

「おう。期待しとるぞ」

 そのままそんなことを言うので、理奈も真似してニッと笑った。

 この後理奈はその宣言を果たすべく青年海外協力隊に参加することになるのだが、それはまた別の話である。

 ブロロロ……と大きな音を立てながら、家の前に大きな装甲車が入ってきた。ここへ来るときに乗ったのと同じものだ。運転しているのは海斗だ。自衛隊の責務として、理奈を閉鎖区の外まで安全に送ってくれるということになっている。

 運転席から飛び降りた海斗はすたすたとこちらに向けて歩いてくる。そしてぶっきらぼうに理奈に言う。

「荷物貸せ」

 唐突に差し出された手を、理奈は渋い顔で見る。今さらそんな優しさのようなものを見せられたところで、海斗と邂逅できるとも思えない。

「え?いいよ、重くないし」

「いいから」

 断ったのに、海斗は理奈の肩からボストンバッグを取り、そのまま装甲車に向けて歩いていってしまった。態度が態度なので、それが優しさなんだか何なんだかわからない。そんな海斗と顔を合わせるのも今日で最後だ。

 理奈は再び順一に向き直った。

「じゃあね、おじいちゃん。元気で」

「おう。理奈もな」

「いろいろありがとう」

「それはわしの台詞じゃ」

 いつもの好々爺の笑顔。別れは寂しいが、涙はない。ここに着いた日にあんなにも塞いでいた理奈の心は、早くも明るい未来を目指すように前を向いている。

「おい、行くぞ」

 せっかちな海斗が理奈をせかす。それさえも苦く笑っただけで済んだ。踵を返して装甲車へ向かっていく。

 こうして理奈の夏は終わりを告げた。まだ登り続けている太陽が彼らの行く末を照らすように白く輝いた。

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