帰還(1)
ボーー……船があげる低い汽笛の音。港はもうすぐそこだ。波は嘘のように穏やかで、まるでその帰りを待ちわびていたとでもいうように優しく迎え入れる。白くてきらびやかな豪華客船とはまるで異なる、威圧感を伴う灰色をした巨大な戦艦。その姿は一見、出立のときと何も変わらない。しかしその中は、乗り込んだ者たちは違う。戦いに疲労し、傷つき、満身創痍でそのときを待つ。
救護班に多くの犠牲者が出たため、ほとんど経験のない隊員たちが助け合って応急処置をした負傷者たちは、港に着くざま待機していたたくさんの救急車に分乗し、それぞれ病院へと運ばれていく。無事だった自衛隊員たちはそのまま装甲車に乗って、自分が所属する部隊へと帰っていく。
船を降りる者と迎える者で一時騒然とした港も、それぞれが目的地へと散ってしまうと、元の穏やかな姿に戻った。
* * *
「……」
起きた瞬間、今自分がどこにいるのかわからなかった。頭がはっきりしてきて、天井から吊るされた蛍光灯を見て、そこが順一の家の客間であることを思い出す。もう一ヶ月近くここで寝起きをしているというのにそんな状態になったのは、直前まで見ていた夢のせいだ。もううっすらとしか思い出せないが、遠く響く汽笛の音を聞いた気がした。
着替えてキッチンに行っても、そこに順一の姿はなかった。最近は一緒に朝食をとることが多いので、てっきり理奈が寝過ごしたのかと思った。しかし時計が指しているのはいつもと同じ時間。首をかしげていると、食卓の上に小さなメモが置いてあることに気付いた。
プレハブにいます。朝食は一人で食べてください。残ったご飯はおひつへ。
こんな朝早くからプレハブにいるというのはどういうことだろう。あの白いプレハブは、ほとんどテラとフロウのメンテナンスにしか使っていなかったはずなのに。ということは……。
「帰ってきたんだ」
胸が躍るような、でもこわばるような、微妙な気分だった。順一が朝食もそこそこにメンテナンスに時間を割いている意味を、どうしても考えてしまう。何か重大な損傷があったのではないか。
心配ではあったが、勝手にプレハブに近づくのは憚られた。とにかく朝食を済ませることにする。
昨夜漬けた浅漬けがあったので、味噌汁だけ手早く作って簡単に済ませる。心がはやっていて、今は何を食べても味わうことはできそうになかった。
食器を片付けて、居間へ移動する。問題集を開いてみてもまったく手につかない。頭に浮かぶのはテラとフロウのことばかりだ。
パタン……と微かにドアが閉まる音がした。それに続く足音。順一がプレハブから出てきたようだ。
廊下をこちらへ近づいてくる。それを待ちきれずに居間から顔を出して呼び止める。
「おじいちゃん」
「……あぁ、理奈か」
順一はひどく疲れた様子で理奈を見た。まるでその姿を見て理奈がいることを思い出したとでもいうように、ちょっとぼんやりしている。
「大丈夫?テラとフロウ、帰ってきたんでしょ?」
「ああ、そうだよ」
心臓が跳ねる。ということは今、二人はあのプレハブにいるのだ。唾を飲み込んで、順一に訊く。
「二人に、会ってもいい?」
「それは……ちょっと待ってくれ」
順一は頭を手で押さえ、呻くように言う。その様があまりにも苦しそうで、跳ねた心臓はそのまま不安な早鐘を打つ。
「おじいちゃん……」
「悪いが理奈、ちょっと休むよ」
「う、うん」
そのまま順一は自分の寝室へ入ってしまった。理奈はただそれを見送ることしかできなかった。
テラとフロウの状況が分からず、悶々としたまま理奈は昼食の準備を始めた。あれだけ順一が憔悴していたのだから、おそらく状態はよくないのだろう。理奈との対面を拒んだということは、会わせたくないほど酷いのだろうか。
前回の積荷で、しおりが理奈のリクエストを訊いて焼きそばの麺を入れてくれたので、今日は焼きそばにする。しおりは毎日来れるわけではないので、こういう日持ちのしない食材は普段ほとんど入っていないが、今は理奈が料理をするようになったのでそうした意見を聞いてくれるようになった。焼きそばに欠かせないキャベツも入れてくれている。そこに庭でとれた夏野菜も加える。あまり考えずに作ったらかなり具沢山になった。
匂いにつられたのか、準備ができると順一もダイニングに出てきた。しかし顔色もまだ冴えないし、箸も進まない様子だ。
「あんまりおいしくなかった?」
さすがに焼きそばなど幸枝のレシピにはない。順一の口には合わなかったか。だが順一は顔を上げると微笑んだ。
「いや、おいしいよ。ありがとう」
「大丈夫?無理しないでね」
「あぁ、うん」
元気がない。少しずつ食べてはいるものの、その動きは緩慢で、やはり手は止まりがちだ。
心配そうに見つめる理奈に、順一は食べることを一旦やめて、ため息のようにぽつぽつと話しはじめた。
「フロウの状態がかなり良くない」
「そうなの?」
「ああ。テラの方は外傷はほとんどないが、ネットワークシステムが遮断されていた。緊急アラートによる自動停止だった」
「緊急アラート?」
急に専門用語が羅列されて理奈には付いていけなかった。しかし順一にもそれを慮る余裕はなさそうだった。
「テラとフロウは、互いに〈対〉というシステムで繋がっている。一方に重大な損傷が発生するとアラートが鳴るようになっている。それは本来お互いの異常をいち早く察知して何らかの対処をするためのものだが、今回はフロウの損傷があまりにも大きかったもので、テラの機能損傷を最低限に抑えるために自動で電源が落ちたようだ」
重く沈んだ声。その頭は支えることができずに力なく垂れたまま。開発者本人である順一が、ここまで打ちひしがれている。
「そんなに、ひどいの?」
「フロウに関して言えば、ホストコンピュータまで侵食されている。仮に修復を試みるとすれば、このホストコンピュータは基盤から修理するか、最悪総取替えになる。少なくともコンピュータは初期化することになる」
「それでも、おじいちゃんならフロウを治せるんでしょう?」
「……」
「治せる、でしょう?」
それ以外にフロウが元に戻る望みなどない。開発者に修復できなくて一体誰にできるというのだろう。
順一は深く長いため息をついた。
「テラやフロウに搭載されたホストコンピュータは、人間でいえば脳と同じだ。あらゆる情報を処理し、蓄積するのはもちろんのこと、それによって生じるあらゆる感情もまたそのホストコンピュータが生み出しているものだ。それを取り替えるということは、他人の脳を移植するようなものだ。まっさらな、まだ何の記憶も感情も持たぬ脳を。理奈が接してきたフロウと同じものをもう一度復元しようとするなら、この二年間をまるっとそのままやり直すしかない。そんなことは不可能だ」
「……そんな」
その一縷の望みが、今その順一自身によって絶たれた。八月の初め、ここから旅立っていったときと繋がったフロウとは、もう会うことができない……。
「いやだ」
「理奈……」
そんなことを許容することはできなかった。
「フロウを、治してよ。おじいちゃんならできるでしょ?おじいちゃんにできなかったら、誰にもできないんだよ。私をもう一度フロウに会わせて?お願い、おじいちゃんなら、できるでしょう?」
――別に今生の別れってわけじゃないぜ?また帰って来るんだし。
明るく言ったテラの声がよみがえる。その言葉を信じて見送ったはずなのに。こんなのはあんまりじゃないか。
駄々をこねる子供のように「フロウを治して」と泣きながら繰り返す理奈を、順一は黙って見守っていた。
ちゃぶ台の上に開いていた問題集をぱたんと閉じる。これで夏休みの宿題は終わった。
あれから、何もしないでいるとフロウのことを考えてしまうので、余計なことを考えないように一心不乱に問題を解いた。そうしていなければ心が保てなかった。テラとフロウを見送ったときとは比べ物にならないほど大きな別離の悲しみに飲み込まれてしまいそうだった。
自分のボストンに問題集をしまっていると、トッ、トッ、と廊下を歩く足音がした。はじめはプレハブから順一が帰ってきたのだと思った。しかしそれにしては足音がおかしい。不自然に立ち止まったり、乱れたりしている。
そして居間に顔を見せたのは。
「フロウ……」
「テラ?」
虚空に視線をさまよわせ、覚束ない足で近づいてくるのは、あの日別れて以来のテラだった。
テラは居間の中をゆっくり歩き、やがて興味をなくしたように踵を返して出て行こうとする。
「ちょっと待って、テラ。どこ行くの?」
思わず引き止めるためにその腕を掴んだ。ギシ、と皮膚の下で何かがきしむ音がして、理奈は反射的に手を離す。テラがアンドロイドだったことを思い出させる、機械に触れたような感触。
理奈が手を離してもテラは立ち止まったままだった。何かの回路が切れてしまったように動かなくなったテラに、理奈は怖くなった。
「テラ?」
「フロウが、いないんだ」
力ない声でテラが呟く。表情も動作も止まったまま、ただ口だけが言葉を紡ぐ。
「どんなにさがしても、見つからないんだ。どこにも、いないんだ」
近くの柱に背を預けるようにして、テラは座り込んでしまった。疲れなど知らないはずのアンドロイドは、そのエネルギーをすべてフロウをさがすことに使っているのか、今にも電池切れを起こしそうな様子だった。理奈は一瞬、順一を呼んでくるべきかと思ったが、この場を離れるのはためらわれた。なんだか今テラを一人にするのは良くない気がしたのだ。
「そんなはずないんだ。俺にはわかるはずなんだ。フロウがどこにいようと、どれだけ離れていようと、俺にはフロウのいる場所がわかるはずなんだ。だって、俺たちは〈対〉なんだから。なのに、見つからないんだ……!」
静かに感情を発露し続けるテラを、理奈は頭から抱きかかえた。
「テラ、やめて。お願いだから落ち着いて。それ以上自分を追い込んじゃだめ。テラが壊れちゃうよ」
「俺はもうとっくに壊れてるよ。だってフロウを見つけられない」
こんなテラを以前には見たことがなかった。いつも勝気で、自信に溢れた様子だったテラ。フロウを失ったことで動揺し、混乱している。アンドロイドが感情を持つことの、〈対〉というシステムの残酷さを露呈するように、理奈の腕の中で震えている。
とにかくテラを落ち着かせなければ。彼にはったりが通用するか分からなかったが、理奈には他に手がなかった。
「大丈夫だよ。フロウは今少し怪我してるだけ。おじいちゃんがちゃんと治してくれるから」
そんな約束を取りつけたわけではない。一時しのぎの方便であることは理奈が一番わかっている。
だがテラから返ってきた言葉は、あまりにも冷ややかな所感だった。
「フロウが俺が追えないくらい怪我をしてるなら、もう治されることなんてない。対として機能しない俺も含めてスクラップ行きだよ。俺たちは使い捨てされる兵器なんだから」
冷静すぎて、自分たちの存在について語っているとは思えない。そのことに、理奈はぞっとした。思わず身体をのけぞらせる。
「そんな、違うよ」
「違わないんだよ!」
はっきり、理奈に向けてテラが怒声を放った。ここへ来て初めてのことだった。理奈は絶句してしまい、こわばった目でテラを見た。テラは膝を抱えたままぐしゃぐしゃと頭を掻きまわす。
「わかってんだよ。俺たちが造られたときに博士から全部聞いてるんだから。おれたちは兵器として、戦争の道具として造られた。それが俺たちの存在価値だ」
――俺はそんなものないほうが幸せだと思うけどな。
ふと、あの日、旅立つ前日にテラがぽつりと呟いた言葉が鮮明によみがえった。あの言葉の意味が、今の台詞によって浮き彫りになる。
戦争の道具になることが生きる意味なら、そんなものはないほうがいい。あの言葉は、自分たちの暗い行く末を見据えたものだったのだ。
なんて酷なことをしていたのだろう。理奈は過去の自分の浅はかな発言を後悔した。生きる意味、自分が存在する意味を背負うことの残酷さ。それを理解することもなく、結果的に今テラを傷つけ、苦しめている。
理奈はテラの正面に座った。何とか視線を交えたかった。これから言うことを理奈の本心だと理解して欲しかった。
「それでも、私はテラに生きてて欲しいって思うよ」
「……生きて、て?理奈には俺が生きてるように見えてんの?アンドロイドなのに」
「そうだよ。私には最初から、テラもフロウも私たちと同じように生きてるように見えたよ」
ただ単に動きが滑らかだからとか、肌の質感まで精密に再現されているからとか、そういうことではなく。あまりにも豊かな感情を持ち、それを共有してきたから。だからこんなにも惜しいのだ。
「ねぇ、だめかな。私も考えるから。テラがこれからも存在していく意味を。だから、自分の存在を諦めないでいて?」
涙が両頬を伝って落ち、床を濡らしていた。同じように泣くことができないテラは顔をゆがめたまま、そんな理奈を黙って見守っていた。




