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プロローグ

 夏休みが始まったばかりのこの日、早朝の駅は閑散としていた。新幹線の始発までまだ三十分もあるのだから無理もない。たまにその辺りを通りかかるのは、ジャケットを脇に抱えたビジネスマンくらいだ。エスカレーターの乗り口やトイレの入り口を示す電子音だけがぼんやりと響いている。

 ずらりと並ぶ自動きっぷ売場のちょっと遠くから、その上に取り付けられた運賃の図を黙って見つめているのは、その場にはそぐわない一人の少女だった。夏だというのに薄いベージュのキャスケットを目深に被り、シンプルな紺のボストンバックを肩からかけ、何やらメモを握りしめている。そのメモには、駅名らしきものが書かれている。少女は行き先の駅名をその運賃表から探そうとしていたのだ。

 しかし残念ながらその駅名はそこにはなく、運賃を知ることはできなかった。結局券売機で検索することになる。

 券売機から吐き出されたきっぷを手に取ると、少女、矢月 理奈は思わずほぅ、と深いため息をついた。念のためもう一度駅名に間違いがないか確認し、なくさないようにポケットに用心深くしまう。ただそれだけのことだというのに、まだ出発すらしていないというのに、なんだか疲れてしまった。今さらのように、肩にかけたボストンがひどく重く感じられる。

 家を出てすぐは、妙な高揚感があってそんなものは全然感じなかった。それがいざ駅に着いて、実際にきっぷを買う段になって、急に醒めた気分になってしまった。密かに貯めていたお金で買ったきっぷを目にして、現実に引き戻されたようだ。そもそもこんな高額のきっぷを買ったのも人生初だ。

 勢いがなくなってしまえば、あとに残るのは不安ばかりだ。果たして無事に辿り着けるのか。補導などされないだろうか。

 今から向かうのは、祖父である矢月 順一の住むF市というところだ。理奈は昔、両親とともに何度か訪れたことはあるものの、一人で向かうのは初めてだ。住所もうろ覚えだったので、以前来た年賀状で慌てて確認したところだ。

 ではなぜ今、たった一人で祖父の家に向かっているのか。それは今日、理奈が人生初の家出をしたからだ。

 駅の壁掛け時計を睨み続けて、ようやく改札が始まった。周りにはいつの間にかスーツ姿の大人が増えていて、我先にと改札へ向かっていく。理奈も遅れまいとその列に混じる。指定席はもったいなくて買えなかったので、早く乗って席を確保したかった。

 前を歩く人に続いて自動改札にきっぷを通した、そのとき。

 ビーーー。ビーーー。

 いきなり鳴り出した警報音に心臓がビクンと跳ねる。ただきっぷを通しただけなのに。何か間違ったことをしただろうか。

 理奈が詰まってしまったので、後ろに続いた人が改札を通れず、迷惑そうに横へ逸れていく。なかばパニックになった理奈はどうしたら良いのかわからず、ただまごついていた。生きた心地がしなかった。

「はい、ちょっと失礼しますね」

 いつの間にか駅員が駆けつけていた。理奈がきっぷを通した自動改札機の蓋を開けて、中を調べ始める。

「申し訳ありませんが、別の改札へお廻りください。機器トラブルのため別の改札へお廻りください」

 テキパキと作業をしながら後続の客に向けてアナウンスを続ける。一時乱れた客の列も徐々に整っていく。その様子を理奈はただ呆然と見つめていた。

 自動改札機の中に引っかかっていたきっぷを回収し、元通りにする。駅員はそのきっぷを検分すると、ちらと眉根を寄せた。思わず理奈は一歩下がる。やはり何か間違えただろうか。しかし、次に駅員が発したのは意外な言葉だった。

「お客様。申し訳ありませんが、このきっぷは自動改札機では処理できません」

「そうなんですか……?」

「私の方で処理をさせていただきますので、有人改札へお廻りいただけますか」

「は、はい……」

 そんなに特殊なきっぷなのだろうか。確かに距離は長いが、裏が黒いよく見る一般的なきっぷなのに。首を傾げながらも、言われた通りに有人改札へと向かう。

 きっぷはその駅員が持っていってしまったので、有人改札の端で邪魔にならないように待つ。ややして、その駅員が改札の窓口から顔を出した。

「お待たせしました。こちらをお持ちください。乗り継ぎの際や降車される駅でも自動改札は通りませんので、有人改札にお廻りください」

「わ、かりました……」

 差し出されたきっぷを受け取り、軽く会釈をして改札を抜けた。もう既に新幹線の搭乗アナウンスが流れている。まだここからエスカレーターで登らなければならない。席を云々言っている場合ではない。下手をしたら乗り遅れて、次の新幹線を待つことになる。散々肝が冷えた後で、そんなタイムラグはごめんだ。

 エスカレーターを早足で登り、とにかく一番近いドアから乗り込んだ。切れた息を整えている間にドアは閉まった。

「はぁ、間に合った」

 へたりこみそうになる自分を鼓舞して、自由席の車両を目指す。途中でワゴン販売とすれ違うことになりながらも、何とか空いた席にたどり着いた。

 こうして、理奈の夏休みは始まった。

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