掌編「赤いネクタイ」
お読みいただきありがとうございます。
自由なテーマとしては、とても久しぶりに書きました。
ただの停滞している気分ならそのままでいいと思った。どこかに死に場所を求めるなんてなかったからだ。だが、心が満ちているとその回想で十分になる。時々はつまらなくても時々が楽しいから、明日に少しばかりの期待を持つ。そう変わっていった。
例えば、連載している漫画の新刊、好きな映画監督の新作映画、応援している作家の新刊や自分自身の次の表現、新しい旅行先など、これらだって現在よりも少し先に朧気になっているばかりで、その先を目指すなら生きている必要がある。だから生きているってことではないけれど、生きていないと目指せなかったりする、ある種の生きている褒美のようなものが目指した先にある。
けれども、あまりにも圧し潰されそうな状況下では死ぬことだけがその脱出法だと考えてしまう。この私、槐 卓志もそうだった。あれは住宅のリフォーム営業をしていた頃だ。
毎日の訪問ノルマが決まっていた。それを巧みにこなしていけるタフさがあるのなら、まだいいのだが、断られて当然の商売は時には怒鳴られたりする。昔から、私はそのことに苦手なままで委縮してしまった。
「すみません、私、○○コーポレーションの槐と申しますが、住宅のリフォームの提案などでこちらの近辺を回っております。今、少々お話しだけでも宜しいでしょうか」
ドアが開くと明らかに住人は不快な表情をしていた。
「ああっ!そんな話を聞く時間はこっちにはねえんだよ、邪魔だから帰ってくんな」
そこをなんとかとしがみつくのがこの手の営業の決まりだったが、ますます相手が怒鳴る一方だから、中々私はそこまで踏み込めなかった。そういう訪問数を何十件も回って、それから事務所に帰って簡単な日報を書くのだ。けれども、そのような日々が繰り返されることで心が疲弊していった。ある日を境に、とは言っても明確にその日に特別な何かがあったわけではなくて日ごとの仕事の蓄積のようなものだろう、私は嫌気が差して、その夜から明日を迎えたくなくなった。傍から見れば何か他の仕事に変えればいいだろうと思うのだろうが、どうも私は働くこと自体に自信をなくしてしまった。それはまだ私が働いてすぐに挫けてしまい、世の中の仕事の何が自分に向いているかなんてわからなかったから、漠然とした不安しか仕事のイメージになかったのである。
だから、ある仕事の夜、私はいつもの歩道橋の階段を昇った。駅から家に帰るにはいつもこの歩道橋の上を歩くこともあった。人通りの多い歩道橋ではないから、私は渡るところで立ち止まれた。そして、下の車道を見下ろしていた。自動車の流れは平然と何の問題も起きていないように見ていて快く思った。
「ここから落ちれば、丁度良く跳ね飛ばされるだろうか」
そう思った時に声を掛けられた。私よりも一回りか二回り年上の男性だった。茶色っぽいスーツと赤いネクタイを覚えていた。
「大丈夫ですか、何かありましたか」
彼が言うには私は、歩道橋の車を見下ろすところから身体を乗り出しそうに見えたらしい。実質、私もそうならいいと思った。
「あっ、いえ。なんだかすみません」
私は謝ることしか彼に答える方法がなかった。どんなに苦しくても自殺をしてはいけないですよと彼を通り越して実際には聞こえていない声に言われた気がしたし、私も同意しているからだ。できることなら死にたくはない。例え行き着くところの完成が死だとしても。
会社員なのかはわからないが、彼は穏やかそうな表情だった。それはそうか、このような私に声を止めるのは、何か気がかりになっている人くらいか。
「苦しい状況があるんですね」
と、彼は認めてくれた。そう言われると私は強がって否定することもできず、「はい」とぎこちなく返事をした。
彼は話を聞きますよと一緒に私と歩道橋を降りた。自分は悪いものではないと名刺を頂いたのも覚えている。やはり会社員だった。
近くの提灯がぶらさがっている飲み屋で彼と飲んだ。
「注文いいですか」
「はいよ」
カウンターで店主が受けていた。彼は日本酒を熱燗で私にも注いでくれた。私の現状の辛さに対して彼は自分自身の仕事の遍歴を話してくれた。だから彼も一度つらい失敗があったらしい。
「私は若い頃にね、会社の大事な商品の品質管理を誤ってね、台無しにしてしまったんだよ、当然のように激しく怒られたりもしたけれど、その後日の空気も私はなんだか居た堪れなくなってね、あの頃は毎日出社するのが怖くなっていたな、そして結局まだ転職先も決まっていないまま退職したんだ」
そういう体験をしたから、私のことが気になったんだとは言わなかったが、きっとそうなのだろう。何か弱みを恥じる人は似たような人によって救われるというのか。彼の話を聞いて、私は色々な働く姿があるんだというイメージをすることができた。そこで希みを抱けたから、私は彼に自殺を止められたのだ。
その所為かそのお陰で私は今、いつものようにこの歩道橋をどんよりとしたまま歩けているのだ。誰かにあの日の私のような思いを抱いてほしいとは思わない、そしてもしもそんな思いに気づいたらあの彼のように誰かが救い手となってほしい。個人の問題など多岐に渡るのだろう。けれど視界が鮮明でないから、息苦しくなることもあるのだ。私の恥ずかしい独白でこのことに気づいてもらえたら恥ずかしさも誉となるだろうか。
赤いネクタイの彼とはもう会っていないし、名刺もどこかになくしてしまった。彼と一緒に寄った店もまだ営業続けているけれど、またあの店に寄ろうとは思わない。仕事の話以外に覚えていたのは土日の休みの日の過ごし方だ。
「私はね、山登りが好きでね、たまに一人であちこちの山に登るんだよ、空気が澄んでいるってのもあるけどね、山に登るのは明るいよりもむしろ日陰のなかを這うことが多いんだ。けれども、回りには樹木や草花、昆虫や鳥がいるだろう、私達もそんな晴れやかな空でなくても構わずに息をしていいんだと思うのだよ」
そういった話は印象的で今でも彼の声を頭の中ですぐに再生できそうに感じるのだ。