9.サブレ・ノルマン
すぅ、と楓は軽く息を吸う。肩までの髪を後頭部でまとめ、白いコック帽をかぶり直す。
視線を落とせば、目の前には様々な用具や材料がきちんと置かれていた。用具は麺棒、ボウル、抜き型、そしてポリ袋などだ。各種材料はトレイに乗せている。下準備が必要な材料もあるが、それも済ませている。
「さーて、じゃあ始めるわよ」
軽く気合いを入れてから、楓はサブレ・ノルマンに取りかかり始めた。
サブレはポピュラーな菓子の一つだ。ビスケットに分類され、特徴としてはバターと薄力粉の割合がある。通常のビスケットはバターと薄力粉の配合比率を、1:2の割合で作る。しかしサブレの配合比率はほぼ1:1で作るため、バターの風味が濃い。簡単に言えば、こくがある。
共通する材料はあるものの、サブレの種類は多い。食感や歯触りがそれぞれ異なる。
楓が取り掛かるサブレ・ノルマンは、サクッと軽い食感が売りのサブレだ。面白いのは、茹でた卵の黄身を裏ごしして使う点だろう。
「そこで見てなさいよ、二人とも」
シーティアとルー・ロウに声をかけつつ、楓は茹で卵の裏ごしをする。
目の細かいこし器に押し付けるようにすると、その目から裏ごしされた卵が落ちる。
生の卵ではなくわざわざ茹でた卵を使うのは、火の通った黄身が加わることで軽い食感を生み出すからだ。更に、黄身のコクとうまみもプラスされる。
サブレ・ノルマンの予定数量は、全部で八十枚。六十枚は平民街へ、二十枚はアランシエルらへ配る分だ。
この数量なら、茹で卵十二個分の裏ごしが必要になる。一般家庭ならちょっと多いが、楓にとっては大したことはない。仮にもパティシエールなのだ。
裏ごしを終えると、ホロホロとした黄身がボウルの底にたまっていた。
ここに薄力粉とグラニュー糖と塩を加え、手でよく混ぜ合わせる。しっかり混ぜて馴染ませたと確信したら、常温で戻したバターを追加。
ねっとりとしたバターは粉や裏ごしされた卵を取り込み、徐々に滑らかに一体化していく。
"ここでサブラージュをしっかり"
サブレ作りを教わった時に、何度も注意された。
砂のように口の中で細かく崩れ、ほろりと溶けるような食感を――ここで生み出す。
粉とバターを指、そして手のひらですりあわせるように混ぜた。それを続けると、生地はさらさらになっていく。
これがサブラージュ、砂状にするの意味の重要な工程だ。
指にも手首にも負担がかかる。けれどここをさぼると、サブレ独特の口の中で崩れる食感は生まれない。
目だけじゃない、指と手のひらで生地の状態を調べた。
「うわ......カエデさん、すごい真剣ですわ」
「うん。アラン様みたいだ」
シーティアとルー・ロウは息を呑んだ。それほどまでに、菓子作りをしている楓は集中していた。
† † †
あたしの居場所を作ろう。
あたし自身が好きで選んだこの道で、パティシエールの技術で。
ここが日本じゃなくても、地球じゃなくても、きっと伝えられるものはあるはずだから。
† † †
生地が出来てから、ポリ袋に入れて一時間以上冷蔵庫で休ませた。卵の黄身の色が全体に散らばり、ひよこのような色になっている。全部で八十個分となると、結構重い。
ずしりとくるその生地を、楓は作業台の上に置く。そして、それを整え始めた。手首近くの広い場所を使い、ぐっと伸ばす。
"冷蔵庫から出たばかりだから、表面は冷えて固い。けど中は柔らかい。均一化しないとダメね"
その為に押して、ぎゅっと伸ばしていく。何度かしつこく続けていく。手だけではなく、体全体の重さを使う。
そうすると、やがて固まり状の生地が楕円形に伸ばされた。こうなってくると、後の工程はイメージしやすい。
「シーティア、ルー・ロウ。よかったら手伝ってくれる? 型抜きしてほしいのよ」
楓は見ている二人に声をかけた。
この時既に、生地は更に平たくなっている。楓が麺棒できちんと伸ばし、厚さ5ミリにまで薄くしたのだ。
それを見たシーティアが笑顔になった。ルー・ロウもそれに続く。
「型抜きって、あの動物の形にしていくことですの? やります、やります!」
「ルー・ロウもやりたいです。して、型はそれですか」
「うん。だけど今日のはね、動物じゃないんだ。この銀色の型を生地に押し付けて、生地を抜くの。そうしたら、ほら。ぎざぎざした縁の円状になるからね」
答えながら、楓は見本を見せた。
型抜きにもコツがある。型の真上に手のひらを置き、真っ直ぐに押し込むことだ。
斜めにずれると、綺麗に仕上がらない。それだけを二人に教えた。
「――よし、ありがとう。じゃ、この型抜きされた生地を四等分にするね。すると、ほら。葉っぱみたいな形になるよね」
「はい! お菓子っぽくなってきましたね!」
「ここから焼くのですか、カエデさん?」
「ううん、まだよ、ルー・ロウ。その前に天板に並べて、卵黄を塗るの。刷毛でこんな風にね。焼き上がりが綺麗になるから」
説明しながら、楓は刷毛をゆっくりと使う。サブレの表面に、液状になった卵黄が二度塗りされる。艶々としたそこに、楓は最後の仕上げを施していく。
楊枝を使って、表面に葉っぱの模様を刻んだ。これが無くても出来るが、菓子には見た目も必要な場合が多い。ちょっとした工夫があれば、見た目から美味しく見える。
「よし、これであとは170℃に予熱したオーブンに入れてと。二十分から二十五分で焼き上がるわよ」
プレートをオーブンの中に慎重に入れる。赤熱したオーブンが、じりじりとサブレ・ノルマンを焼いていく。卵とバターを利かせた香ばしい匂いが、時間と共に漂い始めた。
楓がオーブンのガラス越しに中を覗くと、良い焼け具合になっている。
鮮やかな黄色は、今は赤みを帯びた茶色だ。
頃合いと見て、そこでオーブンを止めた。すかさずシーティアとルー・ロウが近付く。
「いい匂いですわー。まろやかな、甘い匂い」
「直接ルー・ロウの胃袋にきますね。これがサブレ・ノルマンか。早く食べたいです」
二人が物欲しそうに見るが、楓はつれなかった。あげたいのは山々だが、理由があるのだ。
右の人差し指を立て、ぴっぴっと横に振る。
「だーめ、お預けでーす。少なくとも三時間は待たないとダメよ」
「え、えええー、カエデさんの意地悪うう。どうやってこんな美味しそうなサブレを三時間も待つんですのおー!」
ピンク色の髪を振り乱し、シーティアが抗議する。プクっと頬をふくらます様子は、見る人が見ればイチコロだろう。だが、あいにく楓にはその気はない。
「冷ますだけなら、三時間も必要ないですよね。何か理由が?」
ルー・ロウの方が冷静だった。濃い茶色の目を軽く細めて、楓とサブレ・ノルマンを眺める。物欲しそうではあるが、まだ理性は働いているようだ。
「単純なこと。サブレ・ノルマンはね、ほんとは焼き上がりから一日置いた方が美味しいの。味が落ち着くのよ。でもそんなに待てないし、平民街に行くのは今日の午後でしょ? だから三時間が落としどころ」
「なるほど。それでは、街の人達にあげる分も幾つかは明日まで待てと?」
「そうね、ルー・ロウの提案通りにしたいけどね。我慢出来るかなー」
楓の懸念も無理はない。
もともと、楓が魔族領を見学に行った時に、平民街を見たのが事の発端だ。色々な店舗に混じって、菓子や甘味を売る店もあるにはあった。
けれども種類は限られているし、平民が日常的に買うには高いと知ったのである。
"そこを突いて、リシュテイル王国の人がスイーツで勧誘してくると聞いたら――ね"
単純に、自分が作るスイーツで喜ばせてあげたいと思ったのも本当だ。けれど、これでもパティシエの魔王を支えるパティシエールだ。一般人の支持を失わない為にも、ここはやってやろうと思ったのである。
アランシエルの助手となってから、楓はじわじわとモチベーションを取り戻していた。
彼女も自覚しているけれど、それは身体的な負荷が軽くなったからである。
ホテル勤務の時は、粉の袋を持ち上げるなどの力仕事が多かった。それに休憩時間も短かったのだ。
けれども、今はぐっと楽だ。アランシエルがひょいひょい重い物は運ぶし、きちんと休みはある。理想の職場だ......上司が魔王であることを除けばだが。
「うーん、いや、別に怖いことないし。むしろ紳士的だし、いやでもなー。魔王なんだよねえ」
楓はぽつりと呟く。椅子に座ってほっと一息つきながら、アランシエルのことを考えてみた。
性格は多分いい。外見も相当いい。パティシエとしての腕も確かだ。これだけ考えれば、文句のつけようもない。だが。
「いや、やっぱり怖いって。魔王なんだよ、角があるんだよ、うわあああー」
「カ、カエデさん、どうしたんですのっ!?」
「落ち着いて、まずは水でも飲んでください」
シーティアとルー・ロウの二人に気を使われ、楓はハッと我に返った。
恥ずかしい、自分は一体何を考えていたのだろうか。「何でもない、何でもない」とごまかしながら、魔王の姿を脳裏から追い払った。