8.今日の予定は?
「カエデ、こっちの卵の殻割り頼む。メレンゲにするので、卵白だけ取り出せ。ハンドミキサーは低速で」
「もちろん。いつも通りグラニュー糖とコーンスターチを加える、でいいのよね? 終わったら声かけます」
「頼んだ。余はこっちでタルトの生地を練るからな」
「了解」
打てば響くといった調子で、楓とアランシエルは短いやり取りを済ます。まだ早朝だ。屋内とはいえ、キッチン内の空気が澄んでいることが分かる。採光の為の窓が小さく開かれ、そこから朝の新鮮な空気が入ってくるからだ。
楓は慣れた手つきで卵を割っていく。地球から仕入れた卵も冷蔵庫にはあるが、今日は地元、いや魔王城で採れた卵を使っている。濃い茶色をしており、殻もゴツゴツしていた。
どんな鳥が産んでいるのかは知らない。怖くて聞けなかった。しばらくは知らなくていいや、と卵を手に取りながら思う。作業を続けよう。
こうした単純作業は、楓は不得手ではない。さほどの時間もかからず全ての卵を割り終わり、ボウルに卵白だけを取り分けた。
「それで、今日作るお菓子は?」
ハンドミキサーのスイッチを入れながら、楓が聞く。メレンゲの使い途は、ケーキやクッキーの膨張と滑らかな食感の為だ。使う目的を聞いていなかった。シュルルとハンドミキサーが回り始め、卵白を撹拌していく。空気を取り込み、少しずつ滑らかに。
「ケーク・マーブルを焼こうと思う。今作っているベリーのタルトが本命だが、それとは別に午後のお茶用にな」
「まめよね、アランって。別にスイーツの試合がなくても、常時何か作っているし」
「うむ。余に仕える者達に、スイーツで報いてやろうと思ってな。基本的に甘い物を食べれば、皆幸せな顔になろう。ま、手なずけているだけとも言えるが」
「そういう言い方、偽悪的だと思うんだけど。メレンゲ出来ました!」
持ち上げれば、軽く角が立つ程度の固さ。適度に糖分を加えられた為、これだけ食べてもそれなりに美味しいはずだ。白くふわふわしたメレンゲは、淡雪を思わせる。
「よし、貸してくれ。これは後で使うから、ラップして冷蔵庫に入れておくか」
答えながら、アランシエルは少量のメレンゲをスプーンですくった。タルトの生地にはメレンゲは使わないが、デコレーションに使えないか考えているのだ。
"生クリームをベースにした上で、メレンゲでふわりとした感じを出すか。それか生クリームだけにするか"
二択のイメージを脳内で描き、とりあえず両方試そうと決める。その間にも、タルトの生地の仕込みは休まない。
根気よく丁寧に、ボウルの中で生地を練り続ける。あんまりやり過ぎると固くなるが、手を抜くのはもっとまずい。材料同士が一体化せず、ぼろぼろとした歯触りになるからだ。
「オーブンを180℃に予熱してくれ。それが終わったら、朝の仕事は終わりだ。あがっていい」
「はい。あ、そうだ、アランにお願いがあります」
「何だ?」
生地を練る手を休めないまま、アランシエルは視線を上げた。その視線を真正面から受け止めても、楓はたじろがない。もう慣れたものである。
「キッチン借りてもいいですか。作ってみたいお菓子があるの」
「基本的に賛成だが、ものと理由によるな。何を何の為に作る気だ」
「サブレ・ノルマンを六十枚分。平民街の人達に約束しちゃってて、それでどうしても今日作ってあげたいのよ」
はきはきとした口調で、楓は答えた。こういう理由なら、アランシエルはほぼ断らないはずだ。この魔王の性格は何となく分かってきた。
「ほう、見上げた心意気だ。よかろう、材料にも余裕はある。存分に作るがいい」
「ありがと、アラン。あ、もちろん魔王城の皆の分は別に焼くからね。食べ損ねは無いから安心して」
「む、そ、そうか。要らぬ心配を――というところだが、せっかくだから貰ってやろう。助手の成長を確認するのも、良きパティシエの勤めだからな!」
それだけ言い放つと、アランシエルはくるりと背を向けた。
分かりやすい。実に分かりやすい照れ隠しである。今は角が無いせいもあり、威圧感は全くない。妙に可愛らしいなと思える程である。
「そうねー、ほんとにいいパティシエだわー。というわけで、後でシーティアとルー・ロウ借りますね。あの二人に案内してもらうから」
「何だ、あいつらも行くのか? 楽しそうだな?」
「アランは他の仕事があるでしょ! お留守番してください!」
楓の軽い注意に、アランシエルはそっぽを向いた。どうやら拗ねてしまったらしい。子供か、この人は。
"でも、いい上司よね。割りと自由にさせてくれるし"
心の中で感謝する。異世界に来てから、今日でちょうど一ヶ月。里崎楓は順調に新しい環境に馴染んでいた。
† † †
朝の仕事が終わると、アランシエルはキッチンからいなくなる。魔王である彼は、他にも仕事があるからだ。つまり楓にとっては、自由にキッチンを使えることになる。
「カエデさん、どれくらいでお菓子出来そうですの?」
「ルー・ロウは待てますが、シーティアが早くと急かすのですよ。困ったものです」
キッチンに顔を出したシーティアが、楓に問う。その後ろから、ルー・ロウがやれやれといった顔で肩をすくめた。メイドと執事見習いは今日もいいコンビである。
「別に急かしてはないわよ! 何よ、この陰険インキュバス! 夜の営みもまだのくせに嫌みなんて、百年早いんですの!」
「そういうお前だってまだだろう。まあその貧弱な胸とお尻じゃ、誘惑だって上手くいくはずないか。ああ、可哀想になー、サキュバス失格だなー」
「な、なんですってええ! もう一回言ってごらんなさいなああ!」
「朝から何言ってるのよ、二人とも止めてって! お菓子あげないわよ?」
ヒートアップする小さな二人の間に、楓は割って入った。このままでは淫語の嵐に巻き込まれそうだったので、慌てたのである。
二人の種族を意識せざるを得ない。シーティアの種族はサキュバス、そしてルー・ロウの種族はインキュバスというらしい。ゲームなどには詳しくない楓だが、それが淫魔と呼ばれることくらいは分かる。サキュバスが女性型、インキュバスが男性型だ。
性別の違いはあるが、嗜好は一つ。つまりは性的対象をロックオンし、あれやこれやと快楽を与えるのだ。見た目は十二歳くらいの二人だが、中身はヤバい。
「はっ、お菓子がもらえないのは困りますわ」
「ルー・ロウは喧嘩などしておりませんよ、カエデさん。平和主義者です」
とはいえ、所詮はまだ子供だ。成人したらともかく、今は可愛いだけで済んでいる。お菓子がもらえないかもとなると、途端に大人しくなった。そのはずだった。
「はああ、カエデさんと甘い夜を過ごしたいですわ。ええ、お互いに口づけでお菓子を与えあったり!」
「待て、シーティア。その役はルー・ロウがもらう。カエデさん、僕の初めて貰ってくださいますよね?」
「ノー! 却下よ、却下! あたしは同性愛者でもショタでもないんだからね!? そういう人を差別する気はないけど、個人的には無理っ」
「あら、カエデさん。せっかくですし百合と呼んでいただけません? 私は女同士でも一向に構いませんですわ」
「あたしが嫌なんです!」
「ふふ、カエデさんて照れ屋さんなんですね。大丈夫です。ルー・ロウがあと二年もしたら、カエデさんに初めてを堂々と捧げますから」
「その無駄なポジティブさは、どこからくるのよ!? ほんと寝込み襲ったりしないでよ、本気で怒るからねっ」
シーティアとルー・ロウの誘惑を回避しつつも、楓の顔は赤い。男性経験が無いため、こういう男女の色事には耐性が無いのだ。二人から見れば、そこが可愛いのだが。
「うふふ、カエデお姉さまったらあ。真っ赤になっちゃってえ、可愛いんだからあ」
「オネショタっていいと思いますよ。あ、なんなら今夜にでもどうですか?」
「ほんとぶっとばすよ、エロガキ共が!」
朝のキッチンに似合わない会話が、やかましく響き渡る。そんなこんなもあり、楓がサブレ・ノルマンを作り始めるのは予定より三十分ほど遅れたのであった。