7.幕間 パリのパティシエ達
シュー・ア・ラ・クレームの焼き上がりには、いつも気を使う。パティシエになってから、数えきれないくらい焼き続けた菓子だ。だが、皮が薄いために少しの焼き時間の違いが、大きく歯触りを変える。
"もう少し――よし"
鈴村豊が調整した時間は、ほんの二十秒。いや、十五秒程度だろう。根拠と言えば、自分の目と勘しかない。しかし、これが最後には必要なのだ。
シュー生地は呼吸をしており、日々僅かながら状態が違う。そして、これを焼く製菓器具はオーブンではなく、石窯だ。その日の生地、その日の炎の具合を見極め、最適の焼き上がりを見定めなくてはならない。
「出来た!」
小さく声をあげながら、素早く窯の蓋を開ける。中に差し込んだプレートを引き抜けば、理想通りに焼き上がったシュー達が並んでいた。
やや黄色みがった薄い茶色だ。手で持っても壊れない強度を保ちつつ、限界まで薄く焼き上げている。
「やはり上手だね、ユタカ。かなりうちのシューにも慣れてきたな」
背中からかけられた声に、鈴村は振り向かない。
「ありがとう、ムッシュ・キャバイエ」とだけ返した。シュー皮は放置すると、湿気を吸ってふにゃふにゃになる。手早くクリーム注入に取り掛からねば、時期を失うのだ。
そんな鈴村の素っ気ないともいえる態度に、むしろ男は満足そうだった。パティセリーの活気ある空気の中を、男の悠然とした笑い声が響く。
「良い、ユタカ! その調子で励めよ!」
男はその長身を翻す。自分から目を離したことを感じ取り、鈴村はようやく緊張を解いた。
あの男が放つ才気と自信が醸し出す、独特のプレッシャー。それが望まぬ緊張を強いらせる。
「ピレス・キャバイエか」
鈴村が小さく呟いた名前、それは。フランスはパリの有名パティスリー《ソレイユ・ド・モンマルトル》のオーナーパティシエを指す。パティシエ・コンクールの最高峰の受賞歴ありの、菓子作りの若き天才。
"俺もいつか、あの人に近づけるか?"
不意に胸に浮かんだ自問に戸惑いながら、鈴村はクリームを撹拌する手を止めなかった。
† † †
鈴村がフランスに来てから、二ヶ月強となる。元々は、六本木にあるホテルの製菓部門に勤務していた。そこから才能を見込まれて、提携先のこの《ソレイユ・ド・モンマルトル》に派遣されたのだ。
無論気楽な留学ではなく、戦力として期待されてのことである。洋菓子の本場フランスで揉まれ、大きくなって帰ってこい――端的に言えば、そういうことだった。
「んん、疲れたあー」
後片付けを終え、鈴村は大きく伸びをした。時計を見ると夜九時前だ。クリスマスが終わった時期であり、それを考えると遅い。とはいえ、弱音を吐く気もない。遠く離れた日本では、後輩の里崎楓も頑張っているのだろうから。
そもそも自主的に残っていたのだ。自分の業務が終わった後、地道に練習していたのである。無論、オーナーパティシエのピレスの許可はもらってのことだ。
ここ最近は、飴細工に凝っている。鈴村が得意なレパートリーは焼き菓子だが、パティシエとしての幅を広げようということだ。いずれはチョコレート細工なども手がけたい。
"けど今日は流石に帰るか......あれ、誰か残ってる"
練習用の小さなキッチンから出てみれば、奥のメインキッチンから明かりが漏れていた。
器具がことこという音がするので、自分と同じように練習している者がいるのか。しかし、フランス人にしては真面目だなと思う。普通はこの時間なら帰宅する。
「すいません、そろそろ帰り――あ、ムッシュ・キャバイエ。まだ残られていたのですか」
「ん、ああ、ユタカか。遅くまで頑張るね。お疲れ様、早く帰りなさい」
鈴村が驚いたことに、残っていた人物はピレス・キャバイエだった。コック帽は取っており、特徴的な砂色の髪があらわになっている。
やや疲れた様子で、ピレスはその青い目を鈴村に向けた。彼の前には、果物やアイスクリーム、チョコレートなどが皿に盛られている。冷やしてあるのか、どれも溶けた様子は無い。
よく見ればただ盛っているわけではなく、緻密に組み立てられていた。幾何学的とさえ言える。
それを見ていた鈴村の勘が、ピンと動いた。
「それ、アシェット・デセールでしょうか」
「うむ。来年の新作をね、試作しているんだよ。中々イメージ通り出来なくてね」
鈴村に答えながら、ピレスは髪をかきあげた。その視線が向く先は、皿の上だ。
何個かのサイズの違うチョコレートのキューブ、そこに繊細に盛り付けられたプラリネクリームが土台と言ったところか。その上の苺の赤、マスカットの白緑が鮮やかに映えている。鈴村に分かるのは、まだ未完成だということくらいだ。
「ムッシュでもこんな遅くまでやるのですね、驚きました。アシェット・デセールってやはり難しいのでしょうか」
「それは難しいさ。多種多様の菓子を組み合わせ、最適な味覚と見た目を演出しなければならない。何を表現するか。お客様に何を伝えたいのか。発想力と技術が要求される菓子だよ。ほとんど芸術だね」
そう言いつつ、ピレスは顎に片手をやる。未完成ながら進捗はあったのか、満更でも無さそうだ。
整えたあごひげを触りつつ、ピレスはふっと小さく笑った。怪訝に思い、鈴村が問う。
「どうしました、ムッシュ?」
「いや、何。昔をちょっと思い出してね。あの男ならどうするかなとな」
「あの男?」
「ああ。昔話だが聞くか、ユタカ?」
ふうとピレスが息を吐いた。沈黙により、鈴村は肯定の意思を伝える。
「今から四年ほど前かな。まだ私がこの店を持つ前の話さ。このアシェット・デセールを題材にしたコンテストで、私は負けたことがある」
「え、ちょっと待ってください。ムッシュが負けることあるんですか!?」
「公式のコンテストじゃない。休暇先のニースで開催されていた祭りで、臨時のコンテストがあってね。飛び入りで参加したんだよ。もちろんやるからには勝つ気だったがね」
鈴村は心底驚いていた。いくら非公式とはいえ、ピレス・キャバイエが負けるとは。天才の名を欲しいままにする、この男が?
鈴村の様子に、ピレスは苦笑する。四年前の記憶をなぞるように、彼は語った。別に苦い敗北ではない。
「本物のアシェット・デセールなぞ作れるのは、そのコンテストでは私くらいだと思っていた。自信過剰かもしれないが、優勝して当然だと思っていたよ。だがね、一人いたのさ。私よりも更に洗練されたアシェット・デセールを作り出した男が」
「誰なんです、その男。ムッシュに勝つくらいだ、きっと有名なパティシエですよね?」
「それがな、驚いたことに――パティシエ歴二年の無名の若者だったのさ。金髪に赤茶色の目だったな。スラブ系なのか、ちょっと褐色の肌をしていた。中々の色男だったから、女性ギャラリーが黄色い歓声をあげていたよ」
「いや、容姿はともかく名前が聞きたいんですけど」
「急かすなよ、ユタカ。ふふ、名前か。それも奇妙なことにね。出場者名簿には本人の名前しか書いていなかった。姓が無かった。もしかしたら偽名なのかもしれない」
ピレスは記憶の底を探る。非公式とはいえ、自分に土を着けた男だ。忘れるはずもない。その唇が男の名を紡ぐ。
「アラン、ただそれだけが記されていたよ。彼が一体何者だったのか、未だに分からないままさ」
「アランですか。ありふれた名前ですね。手がかりにもならない」
「そうだな。二度と会うこともあるまい。だが、もし会うとしたら負ける気はないがね」
そう言ってから、ピレス・キャバイエはアシェットの載ったプレートに目をやった。