60.帰還前日 後編 ~二人の夜~
しばらくの間、二人とも動かなかった。口も聞かない。沈黙のみが支配する。
どんな表情をしていいか分からず、アランシエルは二杯目のワインを手にする。
「ありがとう」
ポツリと礼を言うのが、今のアランシエルの精一杯。
「ううん、こちらこそ。あたしも嬉しかったから」
ぎこちなく返答するのが、今の楓の精一杯。
「喜ぶべきことなんだろうが、皮肉だな。引き留めたくても、余はそれが出来ない。無理につなぎ止めることが出来れば、どんなに楽か」
「あたしもそうだよ。泣いて喜んで、こっちの世界にいることを選べたらと思うもの。だけど、それは出来ないよ」
「そうであろうな。地球でやりたいことがあるなら、それに向かって突き進むべきだ。上司としては、やはりそう言わざるを得ない」
「うん......アランならそう言ってくれると思ってた」
楓は部屋の隅を見る。自分の唇が震えていることに気がつき、そっと指で押さえた。
これを言ってしまえば、間違いなく後戻りは出来ない。
だが、だからこそ言わなくてはいけないことだ。
「自分のお店、持ちたいんです。パティシエールとして、やっぱりそれはどうしても叶えたい夢だから。自分のお店を持って、そこで皆に喜ばれるお菓子を作りたい」
「――そうか。薄々勘づいてはいたが、やはりそれがお前の夢なのだな」
「はい。アランと出会った時は、忘れかけていたんだ。仕事しんどいし、自分にほんとにそんなこと出来るのかなって。だけど」
うつむく。膝に乗せた手に、ぎゅっと力がこもった。
「だけど、こっちの世界で働いている内に、思い出したの。お菓子を作るのも好きだし、それを食べてもらうのも好きだっていうこと。アランが教えてくれたから、自分でも上手くなったと思う。パティシエールとして上達することが、純粋に嬉しかった」
「そう、か」
「うん、だから......自分の夢を忘れたくない。どうしても叶えたい」
自分に嘘はつけなかった。
だから、正直に告げることを選んだ。
"後悔しない"
そう願った。
そう誓った。
だけど、何故こんなにも心が痛むのだろう?
「諦められたら楽なんだろうなって、すごく思う。けれど、どうしても無理だった。地球に戻って、そこでもっと上手くなって、その上で夢を叶えたい。諦められない」
「それだけお前が良いパティシエールだということなんだろうよ。そうか、やはり無理か。まあ、多分そうだろうなとは思ってはいたがな」
「アランの気持ちは嬉しいし、それに応えられたらなって思うけど......だけど」
楓はそれ以上は何も言えなかった。
嗚咽が喉から漏れ、彼女の言葉を遮る。
みっともないと思いながらも、どうすることも出来ない。
「良い。何も言わなくても良いから」
気がつけば、アランシエルの腕の中にいた。
見慣れた黒マントの生地が、自分の顔に触れる。抵抗する気にもならず、自然とその姿勢のままになった。
「余は自分の気持ちを伝えた。それにお前は誠意をもって答えてくれた。それで良いではないか」
「っ、け、ど、でも」
「互いの願いが叶わぬことなど、この世にいくらでもある。最後の最後に、お互いの言いたいことを正直に言えた。それだけでも十分だと思うぞ、余はな」
お前はどうだと問うように、アランシエルは楓を見た。
その視線から逃げるほど、楓は弱くはない。
「うん、そうだね......何にも言えないまま帰ったら、きっともっともっと辛いよね」
「ああ。だからな、カエデ。泣くなよ」
ほんの少し、アランシエルは力を入れた。
楓の体が密着し、ほとんどアランシエルのマントにすっぽり隠れる。彼の方が頭二つ高いため、自然と見下ろす形になる。
「こんな姿勢でいると、セクハラだとかなんとか言われそうだな」
下手な冗談だなと思いつつ、魔王はあえてそう口にする。
「まさか、言わないよ。今は仕事じゃないもの。それにアランの腕の中、暖かいし」
「人より少し体温は低いはずなんだが?」
「心臓の温度が伝わるから、じゃないかな。それにね」
「まだ何かあるのか」
「砂糖とバターと卵の匂いがして、すごく甘くて優しい感じ」
「それはお前もだろうが。まったく、結局菓子作りの話になる」
抱き合ったまま、アランシエルと楓は言葉を交わす。
そのやりとりは優しく静かに紡がれた。
洋燈の明かりがそろりと落ちかけた頃、魔王はそっと聞いてみる。
「なあ、カエデ」
「どうしたの?」
「今夜だけ、余の側にいてほしい」
返事は態度で示された。
抱きついた姿勢のまま、楓はアランシエルにぴたりと寄り添った。
アランシエルはそっとその小さな肩を抱く。
そして洋燈の光が消えた。
† † †
何故、パティシエールになろうと思った?
え、それ答えなきゃいけないかな。
ううん、普通に大学に進学してもよかったのよ。でも、手に職があった方が安心かなって。
余が知る限り、大学に行こうと思えば大体は行けると聞いたぞ。
ショウシカ? の影響で、子供の数も減っているとか。それでも行きたくはなかったのだな。
うん。行ったら行ったで楽しかったとは思うんだけどね。性格的に合わないかなあって。
そうか。それでパティシエールにか。
はは、こんなに大変だとは思わなかったけどね。
朝は早いし、粉の袋は重いし、友達とは休みも合わないし。理想だけじゃ働けないなあって、何度も思ったよ。
余と初めて会った時、そんなことを言っていたな。実につまらなそうな顔をしていた。
うっ、いや、うん。
クリスマスイブに働かなきゃいけないって、結構きつかったし。覚悟はしていたけどね。
使われる立場というのは、時としてしんどいな。
余もパティシエとして働いたが、あれは生活の為ではなかったからな。
カエデとは事情が異なる。
そうね。でもそれを言い訳にしては、ほんとはダメなの。
それが分かっていても、時々は嫌になるかな。
今はもう大丈夫なのか?
うん。こっちで働いている内に、前向きになれたから。労働環境が良かったからね。
お互いに得るものがあったならば、良かったということだな。
そうだね。一つ聞いていい? アランはもう、地球に来ることはないの?
絶対ではないが、そうそう滅多には行けないだろうな。時空魔法には手間もかかるし、余程の用が無ければ使わない。
そっか......じゃあ、二度と会えないかもね。
そうかもしれない。出来ない約束はしたくないから、必ず会いに行くとは言わない。冷たいと思うか。
ううん、そんなことない。アランが優しいってこと、よく知ってるもの。魔王のくせに、優しくてお菓子作りが上手くて。
変な魔王だな。我ながらそう思うよ。
そうね。でも、素敵な魔王さまだよ。少なくとも、あたしにとっては。
はは、嬉しいことを言ってくれるな。まったく、お前というやつは。
† † †
意識がゆっくりと浮上する。
それにつられるように、楓は目を開けた。
ここはどこかと身じろぎすれば、背中がぶつかった。気がつく。
"あのまま寝ちゃったんだ"
ソファの上で、アランシエルに抱き抱えられたまま。
二人とも服は着たままだから、色々なことがあったわけではない。けれど、それ以上に濃密な時間だったと思う。
"夜が明けるなあ"
部屋のカーテンが、うっすらと白く見えた。床に落ちたその光を、楓はぼんやりと目で追った。
「起きたか?」
上から聞こえた声に、楓は首だけ曲げる。見慣れた豊かな黄金の髪、そして真紅の双眼が見えた。
「うん」
「そうか」
交わした言葉はごく短い。消えてゆく一瞬を惜しむように、楓はアランシエルの服に顔を埋めた。




