6.目覚めたらクレープ
瞼に感じたのは仄かな光、そして熱。浮き上がるような感覚と共に、楓を目を開けた。見覚えの無い視界に、体がビクンと震える。
「――ここ、どこ?」
自分の部屋の天井には、模様など無かったはずだ。蔦が複雑に絡んだような模様が、うっすらと白んだ視界に飛び込んでくる。
記憶――そうだ、ここは東京の自分の部屋じゃないんだ。異世界に連れてこられて、そうだ。昨日アラン達から説明を受けた後、寝室に案内されたんだった。
体を起こす。寝巻きなのか、前合わせで羽織る薄手の服を着ている。
思い出した。これは、アラン自ら寝室に案内された時に手渡された服だ。タートルネックのセーターは、乱暴にベッドの側に放り投げられている。
"起きなきゃまずいよね、私、アランの助手なんだもの"
パティシエの朝は早い。仮に九時開店としたら、七時頃には職場に着いている。今が何時なのか分からない。
というより、時間単位が地球と同じなのかも知らないのだが。それでも起きなければまずいだろう。身に叩きこまれた習慣だ。
ひょいと床に降り立ち、手早く着替える。黒いタートルネックに首を通した時、コツコツという小さな音がした。控えめなノックだと気がつく。扉の方を向いた。
「おやすみのところ申し訳ありません、ええと、カエデ様......」
「シーティア、もう少しはっきり。ルー・ロウが替わろうか」
「いいわよっ、それくらいっ。その、失礼ながら入室させていただきますわ」
聞こえてきた二つの声は、両方細く可愛らしい。かなり年下の女の子の声、そして同年代の男の子の声だった。「起きてます、どうぞ」と楓は返事をする。小さく開いた扉から、二つの影が滑り込む。
「おはようございます、カエデ様。よくお眠りになられましたでしょうか? 僭越ながら自己紹介させていただきますわ。私、シーティアと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
可愛い。何だ、この可愛い少女は。楓のテンションが途端に跳ね上がる。
ピンク色のふわりとした髪は背中まで流れ、その肌は陶器のように白い。大きなパッチリした青い目が、長いまつ毛に縁取られている。
着ているのは、黒いクラシックなメイド服、その上からは白いエプロンだ。長いスカートの両端を指でちょんと摘まみ、楓に頭を下げている。
「ルー・ロウです。お困りの事があれば、何なりとお申し付け下さい。シーティアとルー・ロウの二人、カエデ様にはご不便おかけいたしません」
可愛い。何だ、この可愛い少年は。寝起きの楓のテンションが、更に高まる。もう悶絶状態である。
蜂蜜色の髪が優しい印象だ。濃い茶色の目をしており、それが小麦色の肌によく合っている。白いシャツに紐タイ、黒いベストと同色のボトムス――恐らく執事服なのだろう。
ルー・ロウと名乗った少年は、頭を下げた。右手が体の前、左手は背中に回した礼だ。
「お、おはようございます。あの、お二人は一体」
「あら、アラン様はお話しされてなかったのですね。ご覧の通り、私がメイドです。そしてこちらのルー・ロウが」
「執事見習いにあたります。以後よろしくお願いいたします」
「ご丁寧にありがとう。里崎楓です。カエデ様って恥ずかしいので、カエデさんでいいです。こちらこそお願いします」
気を落ち着けながら、楓も二人に自己紹介をする。
メイドに執事見習いか。魔王城を管理するのも人手がいるらしい。そう思いながら、楓は聞いてみた。
「多分聞いていると思いますが、あなた達の魔王様の助手として勤務することになりました。早速なんですが、キッチンに連れていってもらえますか。まだお城の内部が分からなくて」
「あ、それなら今日は働かなくていいとのことですわよ? アラン様からのメッセージです。こちらの服に着替えておけ。朝食は用意してやるから待てとのこと」
「は? え、え、勤務初日からお休みなの?」
シーティアの返答に、楓は戸惑った。しかし、どうやらこの二人はそれを当然と考えているらしい。今度はルー・ロウが説明する。
「まずは慣れろということかと。さ、地球のお召し物をこちらに。洗濯しておきます。シーティア、着替えは君に任せるからね」
「ええ、任せておいてですわ。ささ、それではカエデ様改めてカエデさん! この私が腕によりをかけて、カエデさんの魅力を存分に引き出す服を――」
「動きやすい服でいいから! ちょっと、その胸元ががっつり空いたドレスは何なの!?」
シーティアが満面の笑みを浮かべ、楓に迫る。その小さな手が持つのは、いわゆるイブニングドレスと呼ばれる類の服だ。
女性の魅力を最大限に引き出す為か、デザインが凄い。広く空いた胸元、細く絞られたウェストに加えてたっぷりとドレープの入ったスカートが目を引く。色は夜空のような濃紺。
当然ながら、しがないパティシエールに過ぎない楓には縁が無い服である。高そうだという貧困な感想しか出てこない。悲しい。
「えええ~、いいではないですかあ。せっかくですから着てみましょうよお、カエデさーん!」
「無理無理ムリムリ、絶対無理ですから! 普通の服お願いします!」
シーティアがじりと詰めれば、楓はその分引く。そんな二人を残して、ルー・ロウは退室した。「面白くなりそうだね」と呟きながら。
† † †
シーティアを説き伏せ、何とか普通の服を出してもらった。飾り気のない麻の長袖シャツと膝丈のスカートなら、楓が着ても違和感がない。さらりとした生地の感覚が心地よい。
「むぅ、カエデさんにはもっと可愛い服が似合うんですのに」
「あたしお人形さんじゃないから。ただのパティシエールですからね。ところで聞いてもいい? この風景は何かしら?」
「見ての通り、アラン様と朝食ですわ!」
「差し向かいなの!?」
「お前はおはようの挨拶もないのか、カエデ。余は悲しいぞ」
シーティアの言う通りだ。
着替えた後、別の部屋に案内された。
どうやらここは食堂らしかった。目の前には白い刺繍入りのテーブルクロスが広がり、幾つか料理の盛られた皿が並べられている。
そこまではいい。問題はテーブルの反対側に、アランシエルがいることだ。
今朝は角は出しておらず、人間モード。白いコックコート姿はすらりとしており、見映えがする。
窓から射し込む朝日に、その赤い目が輝いて見える。形の良い唇が開き、伸びのある低い声を紡いだ。
「朝食用に軽いスイーツを作りたいと思っていたが、今まで適当な試食係がいなかったからな。カエデがいるのは都合がいい」
「ご指名ありがとうございます」
「心がこもってないな? 何か不満か」
「正直緊張するんですが」
「何を緊張することがある。余とカエデの仲ではないか。共に人間達をスイーツで制圧し、余に屈服させる為の同志だろう」
「つまりは職場仲間じゃないのよ。うう、プライベートな時間が欲しい」
とは言いつつも、楓もそこまで嫌ではない。何故なら、アランシエルの横にある物に、目を奪われていたからだ。
黒いフライパンが乗せられているのは、ガスボンベ式の携帯コンロか。オーブンがあるくらいだ、今さら驚きはしない。更に銀色のボウルが一つ、コンロの隣に置かれている。中身は恐らく。
「ここで何か焼いてくれるの......かな?」
「正解だ。今日はクレープにしよう。生地については、カエデも知っている通り。薄力粉とグラニュー糖、塩と牛乳、そして溶き卵だ。隠し味にラム酒を混ぜる。そこにシナモンパウダーと水を入れて、更に混ぜる」
「人によっては、そのタイミングで焦がしバターを入れるわよね」
「よく分かっているな。バターが油分、生地が水分で分離しやすい。それ故、きっちりとよく泡立て器で混ぜ合わせた。そして二時間ほど休ませた生地がこれだ」
アランシエルがボウルを少し傾けた。楓の目に、白黄色のとろりとした生地が映る。色々な材料を入れる為、一体化させる時間が必要なのだ。それを休ませると言う。
「じゃ、もう焼くだけなのね」
「うむ。そこで見ているがいいぞ」
そう言って、アランシエルはフライパンにボウルを傾けた。ジュオ、と柔らかく弾けるような音を立て、クレープの生地が焼かれ始める。既に十分熱されていたフライパンは、あっという間に三枚のクレープを焼き上げた。
湯気が上がり、ふわりと軽い甘い匂いが漂った。ラム酒が僅かに入っているからか、微かに官能的な芳醇さがある。
「ささ、カエデ様。どうぞ熱い内に召し上がれ。アラン様のクレープ、美味しいのですよ」
シーティアが皿を運んできた。
丁寧に扇形に折られたクレープが三枚、扇の角を皿の中心で合わせるように配置されている。上にかけられているのは、溶かしバターと粉糖か。
ゆるく溶けたバターに粉糖の白が映え、楓の食欲をそそった。
「いただきます」
手を合わせてから、おもむろにフォークで一切れ。パリリという焼けた生地の感触が、すぐにふわりとした舌触りに変わる。表面だけ上手く焼くと、このような二層の感触が可能になる。
"丁寧に作っているのが分かる"
ごくゆっくりと、楓はクレープを咀嚼した。生地自体の素朴な甘みと、粉糖のそっと舌に沈むような甘みがマッチする。溶かしバターは適度な滑らかさとコクを加え、クレープの味に奥行きをもたらしていた。
「朝からこんないいもの食べていいのかな、というくらい――美味しいクレープです」
「おお、そうか! やはり余の目に狂いは無かったな! カエデ、もっと食べるか? おかわりはいくらでもあるぞ!」
楓の感想に、アランシエルが目を輝かせる。溌剌とした表情は、パティシエとしての喜びの現れだ。それを見ながら、シーティアは嬉しそうに「ふふ、アラン様ったら可愛いですの」と小さく笑った。