58.帰還二日前
里崎楓は感傷的な人間ではない。少なくとも、自分のことをそう思っている。
けれどここ数日を振り返ると、その考えに自信がなくなってきた。
"こんなに悩む人間だったかな"
首を捻る。
何となく自分の服を見る。軽い麻製のシャツに、同素材のベストだ。下は足首近くまであるロングスカート。
普段着として、よく着ている服装だった。
"こういう服ともお別れかあ"
日本に帰ったら、着る機会は無くなるだろう。
普段着ではスカートよりはパンツの方がやや多い。女の子らしさ全開の服は、何故か昔からあまり着た覚えがない。
「カエデ殿」
「はい、あ、エーゼルナッハさん」
振り向く。
数歩離れた場所に、見慣れたダークエルフが立っていた。
「どうされましたか。心ここにあらず、といった風でしたが」
「え、そんな風に見えちゃったんですか。すいません」
「謝るようなことではないでしょう」
エーゼルナッハは少しだけ声の調子を和らげた。
「よろしければお茶でもしませぬか。そんな暗い顔をされていては、良い考えも浮かびませぬよ」と声をかける。
「ん、じゃあお言葉に甘えます。暗い顔って分かっちゃうんですね」
「見えなくても気配で」
「エーゼルナッハさんを見てると、隠し事出来ないなあと思います......」
「長年盲目だと、ちょっとした気配の差で大体分かるようになりますよ。お勧めはしませんがね」
エーゼルナッハの盲目になった原因を思い出し、楓は顔を強張らせた。
「申し訳ないですけど、そんな事態にならないように祈ります。想像しただけで怖いもの」
「でしょうな」
コツ、とエーゼルナッハは靴音を鳴らした。楓はその背中を追う。
† † †
独特の香りだな、と楓は思う。
カップを覗きこめば、透き通るような緑色だ。最初はためらったが、今はもう慣れた。
「エーゼルナッハさんが淹れてくれるお茶も、もう飲み納めですね」
エーゼルナッハはすぐには答えなかった。
何かを確認するかのように、卓に指を走らせる。
白いテーブルクロスが、黒い指を浮き上がらせる。
「そうなりますな。カエデ殿の帰還の日は明後日でしたか」
「はい」
「早いものです。ついこの間、あなたと出会ったと思ったのにね」
「そう、ですね」
エーゼルナッハの言葉に、楓は深く頷く。
この一年間はあっというまの一年だった。もうすぐお別れかと思うと、心にひしひしと来るものはある。
「このお茶も飲めなくなりますね」
「その代わり、地球の飲み物を手軽に飲めるでしょう。自分で淹れておいてになりますが、そこまで惜しむ程の茶ではありません」
「それはまあ、そうですけどね」
アランシエルが準備してくれていたので、コーヒーや紅茶はそれなりにあった。
それでも気軽に飲めるという程には無い。ジュースや炭酸飲料は全く手に入らない。
"食文化の違いって、やっぱり大きいよね"
ナノ・バースはやはりファンタジーの世界なのだ。
二十一世紀に生きる日本人の自分には、色々と不都合も多かった。それは認める。
「帰ることが出来るのは、やっぱり嬉しいです」
素直にここまでは言える。楓はカップに視線を落とした。
「でしょうね。私も地球に飛ばされたら、やはりこちらの世界を恋しく思うでしょう」
「それでも、引っ掛かるものが心のどこかにあるんです」
胸の内が重い。茶を一口啜り、楓は自分の気持ちを落ち着ける。
エーゼルナッハは沈黙している。その沈黙が嬉しかった。
「エーゼルナッハさん」
「何か」
「話してもいい?」
「どうぞ。その為に声をかけたようなものです」
「うん......あの、アランのことなんだけど」
「はい」
「あたしが日本に戻ること、どう思っているのかな。や、そんなの本人に聞かなきゃ分からないと思うんだけどね。一年間一緒に働いてきたんだし、やっぱり寂しいのかな」
「それはあるでしょうな」
「それとも、ようやく大いなる菓子の祭典も終わって、ホッとしているのかな。あたしはその為の助手として、ナノ・バースに連れてこられたんだし」
「はい」
「それが終わったら、引き留める必要もないわけだから。ホッとしてるのかな、とかね。色々考えちゃうの」
楓の声のトーンが沈む。
自分の言葉で自分が悲しくなっていれば、世話がない。
カップを持つ手が震えたので、ソーサーに置く。カチンとごく小さな音がした。
「アラン様がどう思われているかが、気にかかりますか」
「うん。けど、本人に聞くのも何だか怖くて」
「ふむ。お互いに聞くのをためらっておられると」
「お互いにって、アランの方も?」
楓はエーゼルナッハと視線を合わせようとする。
だが、それは叶わない。
エーゼルナッハの目は呪印付きの布で覆われているからだ。
「恐らく高い確率で。アラン様も近頃、浮かぬ顔をしておられますからな。恐らくカエデ殿のことで頭が一杯なのでしょう」
「頭が一杯なんてこと、無いと思うけど」
多少恥ずかしくなり、気まずくなる。
エーゼルナッハはそんな楓の気配を感じたが、素知らぬふりをした。
「私は菓子作りのことはまるで分かりませぬ。それこそ、カエデ殿にもらったショコラ・モワルーがとても美味しかったというくらいしかね」
「懐かしいですね。去年の秋になるんですよね」
「ええ。あれは本当に美味しかった。カエデ殿の技術以上に、心がありましたからな。おっと、話がそれました」
こほん、とエーゼルナッハは咳払いをする。懐かしく思いはするが、伝えたいものはそうではない。
「たかが菓子かもしれません。けれど、それは確かに私のように食べた人には、幸せをもたらしてくれました。カエデ殿もアラン様も、その技術をお持ちだ。そして、お互いにその技術を認めあってきた」
「そうですね。あたしがどれだけ出来たか分からないけれど、アランは認めてくれたと思います」
「ええ。そして貴女もアラン様を認めておられる。パティシエとして、いや、それだけではなく」
語尾が消えた。二人の間に静寂が落ちる。
いつかの夜は雨だった。今日は雨の代わりに、静寂が降り注いでいる。
その音の無い雨を破ったのは、楓の方だった。
「分からないんですよ、エーゼさん。あたし、どうしていいか」
「......はい」
「心の中がもやもやしていて、すごく苦しい。でも、どんな言葉で表現していいのか分からない。アランに伝えるべきかも分からない。レシピもなくて、完成形もないお菓子を前にしてるみたい」
「であれば、材料こそが全てなのでしょう」
エーゼルナッハの語り口は優しい。
それに耳を澄ませるように、楓はそっと顔を上げる。
「材料こそが?」
「ええ。全ての感情が綺麗に整えられることなど、滅多にあることではありますまい。であれば、カエデ殿の今の気持ちが全てなのでしょう」
「今の、気持ち」
「あくまで私の考えですがね。ただ、老境の身としては言える時に言った方がいい。それだけは忠告いたします。後になって言っておけばよかったと思っても、時既に遅し。それだけは避けた方がよろしい」
その言葉の意味が楓の心に沈む。
亡き妻のことを指してなのかと思うと、それは重い。
だが重くても、けしてきつくも冷たくもない。
「伝えなきゃいけないよね」
楓は決意を口にする。
エーゼルナッハは「願わくば、そうなさることを望みます」とだけ答えた。




