57.帰還三日前
カエデ・サトザキがこの世界からチキュウに帰る。
このニュースは、魔族領全領土を瞬く間に駆け巡った。
領民の動揺を防ぐため、大いなる菓子の祭典が終わるまで伏せられていたのである。
しかし、帰還の日が決まったならば秘密にしておく訳にもいかなかった。
「カエデおねーちゃんがいなくなっちゃうってほんと!?」
「もう会えないんですかああ、やだああ!」
「カエデちゃんが持ってくるビスケットやクッキー、もう食べられないんだべか。残念だあ」
獣人の子やゴブリン、コボルト、オークらが毎日のように、魔王城に訴えにくる。
これに対応するのは、主にグーリットの役目であった。
「いやさあ、お前らの気持ちも分かるんだけどな。もう一年経過したし、これ以上は無理なんだよな。そこら辺分かれよ?」
グーリットとしても心苦しい。彼も内心ではちょっと寂しいのである。
けれど、家族や友人とも会えないままというのは、間違いなくおかしい。
「んだども、グーリット様......わしら、カエデさんの作る菓子も確かに惜しいけどな。あの子の笑顔見とると、元気出るんや。だからこう」
「だよなあ、分かるぜ分かる。その言葉は俺がちゃんと伝えとくからよ。とりあえず帰りな?」
渋々といった様子で、オークの親父が引き下がる。
「気が重いよなあ」と頭をかきながら、グーリットはそっと門を閉じるのであった。
† † †
「つーわけで、毎日毎日こっちも大変なんだって話だわ。あー、肩凝った」
「大儀だった、グーリット」
報告を終えたグーリットを、アランシエルが労う。その表情はどことなく晴れない。
「いや、これも仕事だからよ。そこに文句はねえよ。それより問題はさ」
「何だ?」
「何だ、じゃねえよ。お前だよ、アラン。どーすんだよ、ほんとに嬢ちゃん手放しちまうのか?」
鋭い言葉と共に、グーリットはビシッと指先をアランシエルに突きつける。
無礼とも言える仕草だが、アランシエルはこれに異を唱えなかった。
「カエデの雇用契約延長の話なら、無しだ。それは前にも言ったと思うが」
「ちっ、シラ切ってんじゃねーよ。俺が言いたいこと分かってんだろうに」
「......あいにく物わかりが悪くてな」
「あっ、そうかい。じゃあ改めて言ってやんよ。雇用契約ならまずくてもさ、婚姻関係なら問題ねえだろ? 身も心もお前のものにしちまえば、嬢ちゃんも何の抵抗もなくこっちの世界に永住出来る」
ドクン、と二人の間の空気が震えた。
アランシエルとグーリットの魔力の波動がぶつかったのである。
明確な形こそ取ってはいないが、二人の意思がぎりぎりとせめぎあっていた。
「それは出来ない。余のわがままでカエデの自由を奪い、余の手元に縛り付けるなど。そんなこと」
アランシエルが苦渋の表情を浮かべる。
「わがまま? 自分に必要な存在を欲しいと思うことのどこが、わがままなんだ? それに無理に婚姻しろなんて、俺は言ってねえ。お前の気持ちと考えを伝えた上で、嬢ちゃんに聞いてみろって言ってんだよ」
「カエデは人間だぞ。地球に家族も友人もいる。あいつが働いている職場もある。それらを奪ってしまっては、カエデがあまりにも可哀想だろう」
「アラン。俺さ、お前の物分かりのいいとこは嫌いじゃねえわ。むしろ同族として好ましいと思ってる。けどな、てめえの気持ちを圧し殺してんのは、そりゃ違うだろうよ」
グーリットの刺すような視線が、アランシエルの反論を封じた。そこにグーリットは更に畳み掛ける。
「寿命の問題だって、お前の血を受け入れりゃそれなりに解決する。嬢ちゃんだって、お前に好意くらい感じてるだろうよ。それでも無理だって言うなら、弱腰過ぎるぜ?」
「考えたさ、それくらいはな」
「なら、なんでもたもたしてんだ」
グーリットの言葉の語尾は、轟音にねじ伏せられた。アランシエルが円卓に拳を叩きつけたのである。
ほぼ半壊した円卓はゆっくりと崩れ、ずぅんと重い音を立てる。
「もし余がそれを言い出せば、カエデの夢を奪うことになる」
「夢?」
「ああ。一流の菓子職人として、名をなしたい。認められたい。自分の店を持ち、そこで作った菓子を皆に食べてもらいたい。全てのパティシエやパティシエールが持っている夢だ」
「分からなくもねえけど、それはナノ・バースじゃ出来ないのかよ」
そう反論しつつ、グーリットは薄々察していた。アランシエルの答えは、ほぼ彼が察した通りだった。
「ナノ・バースにあいつの菓子の技術が分かる者が何人いる? 最新の菓子の流行は身近に手に入るのか? 何より、親兄弟や友人に自分の晴れ姿を見せたいということは、こちらにいてはかなわん」
「違いねえな」
「だからだ、グーリット」
アランシエルは自分の髪をかき回した。乱暴にかき回したせいで、グシャグシャになる。
「だから余は、カエデを引き留めない。引き留めてはならない。余はあいつの夢を邪魔したくはない。あいつも余の気持ちを知れば、迷いが出るかもしれぬ。そんなことはしたくない」
「そーかよ。お前が納得してるならいいけどよ。でもな、アラン」
グーリットは壊れた円卓を軽く蹴った。ガコン、とその端が削れる。
「――納得してるなら、なんでそんな苦しそうな表情してんだよ」
親友の問いに、魔王は顔を背けた。
答えたくもないのは、自分でもその答えに反感を抱いていたからだ。
「ほんとにそれでいいなら、そんな顔にならねえと思うぞ」
「理屈で全て割りきれるほど、余も達観していないのだろうさ」
「......そうだな」
グーリットは答えに詰まった。
アランシエルの苦悩を理解しようとしたが、それは諦めた。想像は出来るが、それは理解とは程遠いだろう。
「悪かったよ、アラン。お前が一番悩んでるよな」
それでも声をかけずにいられなかったのは。
「けどな。俺はお前がそんな顔でいるのは嫌だぜ。せっかく祭典も終わったのに、魔王のお前が辛気臭い面でいるのはさ。やっぱおかしいと思うし、それに」
やはりアランシエルの背中を押してやりたかったのだろう。
「嬢ちゃんに自分の気持ちを伝える権利くらいは、お前にもあるはずなんだよ。一年間過ごしてきたんだからさ」
「――心配かけてすまぬ」
「いいってことよ。俺ぁ、菓子作りは全然手伝えねえからよ。こういう時くらいは、お節介焼きたくなるってだけさ」
わざと皮肉っぽい笑みを浮かべ、グーリットは退室した。
あとに残ったのは、アランシエル一人だけだ。
「伝える権利、か」
ぽつんと座ったまま、アランシエルは自分の右手を見る。二度ほど閉じたり開いたりした後、ゆっくりと立ち上がった。
"菓子作りの方がよほど楽だな"
窓際に立ち、その赤い目を外の風景に走らせる。
春らしく風は穏やかだ。
今の自分はこの風景に相応しくないと思い、すぐに首を横に振った。
"自己卑下してもどうにもならぬだろうに。しっかりしろ、アランシエル"
楓に伝えるか伝えないか以前に、自分で自分を否定している。そのことに気がつき、アランシエルは自分を叱咤した。




