表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界スイーツ物語 ~魔王さまはパティシエ!~  作者: 足軽三郎
第五章 大いなる菓子の祭典
54/64

54.第三試合 シュー・パリゴーとソルベ その三

 どんなパティシエでも、普通は得手不得手がある。

 もちろん経験を積むと、不得手の菓子でも上手く作ることは出来るようになる。

 だが、上手い下手とは別に、菓子によっては少しだけ苦手意識が存在する。


「ムッシュは不得手な菓子ってあるんですか?」


「どうだろうな」


 いつの日だったか、鈴村はピレスにそう聞いたことがある。

 鈴村の問いを噛み締めるように、ピレス・キャバイエはその短いあごひげを撫でた。


「自分でも不思議なんだが、特に無いね。昔はキャラメリゼがちょっと苦手だったが、それも完全に克服したしね」


「すごいですね。俺もそれなりにどの分野もやってきましたけど、まだ得意と言えるほどのものはなくて」


「私の目から見れば、ユタカは焼き菓子に向いている。パイ、シュークリーム、ホールケーキなどの焼き上げには、勘がいる。君にはそれがある」


 ピレスにほめられ、鈴村は顔を緩ませた。

「ありがとうございます!」と一礼する。

 その様子を見つつ、ピレスは「思ったことを言っただけさ」と声をかけた。


 鈴村の記憶は、そこで一枚の絵となる。夕方だったのだろう。窓から射し込む赤い陽射しに、ピレス・キャバイエの影が斜めに伸びていたのだから。

 逆光になったまま、ピレスはその右手を大きく上げた。


「私には苦手はない。だが、得意とするほどの分野もない。周囲は私を天才(ジェニー)と呼ぶが、とんでもない。学べば学ぶ程、スイーツの世界は奥深い。まだ私は得意不得意をどうこう言える立場じゃないのさ」


 その言葉の重さ、そして深さに、鈴村は心臓が止まりかけた。

 名実ともにパティシエ界の頂点にありながら、この人はそれを少しも気にかけていない。


 "とんでもないな"


 賞賛でも尊敬でもなく、鈴村は深い感動に身を包んだ。


「俺はムッシュの元で働けて幸せですよ。これほど真面目に菓子に取り組む人、見たことないです」


「君が知らないだけじゃないかな。さ、おしゃべりはここまでにしよう」


 紅の陽射しから、ピレスが外れる。そこで鈴村の記憶は途切れている。



† † †



 何故あの時のことを思い出したのか、鈴村豊は分からない。

 たまたまなのか。あるいは、何か思い出させるような理由があったのか。


 "それは今はどうでもいいんだが"


 シュー・パリゴーをオーブンに入れたので、鈴村は手が空いている。

 オーブンの中をちらちら見るが、焼き上がりまではちょっとお休みだ。

 そのため、どうしてもピレスの仕事ぶりが気になる。


「アランシエル君がどんなソルベで挑んでくるか。そんなことは知らないし、知ってもまた意味がない」


 鍋の中をゆっくりとかき混ぜながら、ピレスは呟く。弱火でコトコト煮られているのは、深い紫色の果物だ。


「私に出来ることは、自分の持てるベストを尽くすことだけだからね。他人のパフォーマンスを気にする必要はないのさ」


 木べらが回る。鍋の中身がそれにつられて回る。黒に近い紫色の果物の名前を、鈴村は口にする。


「カシスですか。ソルベにはよく使われますよね」


「ああ。オレンジのソルベとどちらにしようか迷ったが、大人っぽいソルベが作りたくてね。最後は自分の好き嫌いに従ったよ」


「確かムッシュは得意不得意はないと、前に伺いましたが」


「スキル的な意味ではね。好き嫌いはまた別の感情さ」


 屈託の無い笑顔をピレスは浮かべる。

 カシスの深い紫色は、日本では洋菓子作りくらいにしか見ることはない。だが、フランスではよりポピュラーな果物だ。

 鈴村は鍋の中を見る。紫色の小さな果物がコトコトと煮られ、甘く深い匂いを放っていた。


「赤ワインとグラニュー糖だけしか加えていないから、ほとんどジャムみたいなものですか」


「はは、ジャムにはワインは入れないがね。まあ、材料はシンプルそのものさ。アルコールが少し効いていた方が、風味が良くなるからね。そのため赤ワインを使ったんだ」


「ははあ、しかしいい匂いですね」


「もちろん匂いだけではないよ。さて、そろそろ頃合いかな」


 ピレスは鍋の火を止めた。粗熱が取れたのを確認してから、そこに板ゼラチンを加えた。

 とろみがついたカシスを、ハンドブレンダーという器具で混ぜ合わせていく。


「カシスのピュレを作るわけだ。最終的にはこれはソルベにするから、ここから冷やす」


「あ、氷水用意しましょうか?」


「自分でやるよ。それより、そろそろシュー・パリゴーが焼き上がるのではないかな?」


「あっ、そうですね」


 ここまでということらしい。

 オーブンの方へ振り返り、鈴村はソルベ作りの工程の見学を終えた。

 ピレスはそのまま自分の作業に没頭する。ハンドブレンダーのスイッチを止めると、カシスは見事な滑らかなピュレとなっていた。


 "これを鍋からボウルに移して"


 鮮やかな紫色のピュレは、赤ワインの香りもあってかどこか妖艶な雰囲気だ。それを入れたボウルを、氷水で冷やしていく。10℃以下にまできちんと冷やすのは鉄則だ。


 "そしてアイスクリームマシンへと移して、空気を混ぜようか"


 ここまでは完璧と言っていい。アイスクリームマシンが終わったら、あとは冷凍庫で凍らせるだけだ。

 ソルベの味自体は、ここから工夫しようがない。もしここから魅せるならば、演出次第か。

 例えば三角形や四角形に切り出し、それを組み合わせたりも出来る。ピレスの技術なら、それは難しくない。


 "だが、ここはシンプルにいこう"


 決めた。

 まるでムラの無い球状にして、カシスのソルベを出そう。表面のムラを極力ゼロに抑え、滑らかさを追求してみることにした。


「これだから菓子作りは楽しいのさ」


 アイスクリームマシンのスイッチを入れながら、ピレスは微笑んだ。



† † †



 全部で二十一人分というのは、菓子作りをする者ならさほど多い分量ではない。

 だが今は、その二十一人の判定により、自分達の命運が決定するという状況だ。


「カエデ、シュー・パリゴーにクレーム・パティシエールは詰め終えたか?」


「あともうちょっと!」


 アランシエルに返答しながら、楓は絞り袋を慎重に使う。

 まったりとした黄色いクレームが、シューの皮の中に入っていく。

 多少飛び出しても、いつもならミスの範囲だ。しかし、この状況下では許されない。


 "ナーバスになりすぎてもダメだし、大雑把過ぎてもダメだし。意外に難しいのよね"


 技術はもちろん、それを保つメンタルが重要になってくる。

 何度となく繰り返した練習と実践のみが、均一化を可能にする。


「どの菓子にもムラなく、丁寧に、一定の品質を」


 呪文のように唱えながら、楓は作業を続ける。

 機械的というと何だか悪い印象があるが、そうではない。確率的な不均一を極限まで減らし、平等な品質を届ける。その安定感を、機械的と呼ぶのだ。


 "最初に聞いた時は、機械的って単語に反感持ったけどね"


 クレームを詰め終え、次のシューを手にする。

 この間、僅か三秒強。無駄を省いた自分の技術は、時間の有効活用に繋がる。結果的に、それが心の余裕を生む。


「こっちは大丈夫よ。アランの方は?」


「大詰めと言ったところだな」


 顔を上げないまま、アランシエルは返答した。

 真っ白なライチのソルベは、既に1㎝単位の立方体に切り分けられていた。これを一人に対して、五つ配分している。


「立方体同士を乗せて、少し高さを出してみた。見た目的にも、こちらの方が楽しい」


「ほんと器用よね。あれ、でもソルベ触っても溶けてないよね。あっ、そうか」


「そう、余の手は体温を下げられるからな。細工のために触っても、ソルベを溶かすような無様はしない」


 アランシエルは、全てのライチのソルベを整えた。

 真っ白なライチのソルベを映えさせるため、器はわざと黒を選んでいる。

 モノトーンの配色には気品があり、シュー・パリゴーの素朴な茶色とよく合っていた。


「だが、一工夫欲しいかな」


 手早く済ませたおかげで、時間はまだある。

 余っていたグラニュー糖を鍋にかけ、アランシエルはコンロのスイッチを入れた。


「え、まだ何かあるの?」と目を丸くする楓に「一種のパフォーマンスだよ」とだけ魔王は答える。


 溶け始めた砂糖が、金色の液体へと変わっていく。それを確認しながら、アランシエルは「ま、見た目も楽しい方が良かろう」と笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ