54.第三試合 シュー・パリゴーとソルベ その三
どんなパティシエでも、普通は得手不得手がある。
もちろん経験を積むと、不得手の菓子でも上手く作ることは出来るようになる。
だが、上手い下手とは別に、菓子によっては少しだけ苦手意識が存在する。
「ムッシュは不得手な菓子ってあるんですか?」
「どうだろうな」
いつの日だったか、鈴村はピレスにそう聞いたことがある。
鈴村の問いを噛み締めるように、ピレス・キャバイエはその短いあごひげを撫でた。
「自分でも不思議なんだが、特に無いね。昔はキャラメリゼがちょっと苦手だったが、それも完全に克服したしね」
「すごいですね。俺もそれなりにどの分野もやってきましたけど、まだ得意と言えるほどのものはなくて」
「私の目から見れば、ユタカは焼き菓子に向いている。パイ、シュークリーム、ホールケーキなどの焼き上げには、勘がいる。君にはそれがある」
ピレスにほめられ、鈴村は顔を緩ませた。
「ありがとうございます!」と一礼する。
その様子を見つつ、ピレスは「思ったことを言っただけさ」と声をかけた。
鈴村の記憶は、そこで一枚の絵となる。夕方だったのだろう。窓から射し込む赤い陽射しに、ピレス・キャバイエの影が斜めに伸びていたのだから。
逆光になったまま、ピレスはその右手を大きく上げた。
「私には苦手はない。だが、得意とするほどの分野もない。周囲は私を天才と呼ぶが、とんでもない。学べば学ぶ程、スイーツの世界は奥深い。まだ私は得意不得意をどうこう言える立場じゃないのさ」
その言葉の重さ、そして深さに、鈴村は心臓が止まりかけた。
名実ともにパティシエ界の頂点にありながら、この人はそれを少しも気にかけていない。
"とんでもないな"
賞賛でも尊敬でもなく、鈴村は深い感動に身を包んだ。
「俺はムッシュの元で働けて幸せですよ。これほど真面目に菓子に取り組む人、見たことないです」
「君が知らないだけじゃないかな。さ、おしゃべりはここまでにしよう」
紅の陽射しから、ピレスが外れる。そこで鈴村の記憶は途切れている。
† † †
何故あの時のことを思い出したのか、鈴村豊は分からない。
たまたまなのか。あるいは、何か思い出させるような理由があったのか。
"それは今はどうでもいいんだが"
シュー・パリゴーをオーブンに入れたので、鈴村は手が空いている。
オーブンの中をちらちら見るが、焼き上がりまではちょっとお休みだ。
そのため、どうしてもピレスの仕事ぶりが気になる。
「アランシエル君がどんなソルベで挑んでくるか。そんなことは知らないし、知ってもまた意味がない」
鍋の中をゆっくりとかき混ぜながら、ピレスは呟く。弱火でコトコト煮られているのは、深い紫色の果物だ。
「私に出来ることは、自分の持てるベストを尽くすことだけだからね。他人のパフォーマンスを気にする必要はないのさ」
木べらが回る。鍋の中身がそれにつられて回る。黒に近い紫色の果物の名前を、鈴村は口にする。
「カシスですか。ソルベにはよく使われますよね」
「ああ。オレンジのソルベとどちらにしようか迷ったが、大人っぽいソルベが作りたくてね。最後は自分の好き嫌いに従ったよ」
「確かムッシュは得意不得意はないと、前に伺いましたが」
「スキル的な意味ではね。好き嫌いはまた別の感情さ」
屈託の無い笑顔をピレスは浮かべる。
カシスの深い紫色は、日本では洋菓子作りくらいにしか見ることはない。だが、フランスではよりポピュラーな果物だ。
鈴村は鍋の中を見る。紫色の小さな果物がコトコトと煮られ、甘く深い匂いを放っていた。
「赤ワインとグラニュー糖だけしか加えていないから、ほとんどジャムみたいなものですか」
「はは、ジャムにはワインは入れないがね。まあ、材料はシンプルそのものさ。アルコールが少し効いていた方が、風味が良くなるからね。そのため赤ワインを使ったんだ」
「ははあ、しかしいい匂いですね」
「もちろん匂いだけではないよ。さて、そろそろ頃合いかな」
ピレスは鍋の火を止めた。粗熱が取れたのを確認してから、そこに板ゼラチンを加えた。
とろみがついたカシスを、ハンドブレンダーという器具で混ぜ合わせていく。
「カシスのピュレを作るわけだ。最終的にはこれはソルベにするから、ここから冷やす」
「あ、氷水用意しましょうか?」
「自分でやるよ。それより、そろそろシュー・パリゴーが焼き上がるのではないかな?」
「あっ、そうですね」
ここまでということらしい。
オーブンの方へ振り返り、鈴村はソルベ作りの工程の見学を終えた。
ピレスはそのまま自分の作業に没頭する。ハンドブレンダーのスイッチを止めると、カシスは見事な滑らかなピュレとなっていた。
"これを鍋からボウルに移して"
鮮やかな紫色のピュレは、赤ワインの香りもあってかどこか妖艶な雰囲気だ。それを入れたボウルを、氷水で冷やしていく。10℃以下にまできちんと冷やすのは鉄則だ。
"そしてアイスクリームマシンへと移して、空気を混ぜようか"
ここまでは完璧と言っていい。アイスクリームマシンが終わったら、あとは冷凍庫で凍らせるだけだ。
ソルベの味自体は、ここから工夫しようがない。もしここから魅せるならば、演出次第か。
例えば三角形や四角形に切り出し、それを組み合わせたりも出来る。ピレスの技術なら、それは難しくない。
"だが、ここはシンプルにいこう"
決めた。
まるでムラの無い球状にして、カシスのソルベを出そう。表面のムラを極力ゼロに抑え、滑らかさを追求してみることにした。
「これだから菓子作りは楽しいのさ」
アイスクリームマシンのスイッチを入れながら、ピレスは微笑んだ。
† † †
全部で二十一人分というのは、菓子作りをする者ならさほど多い分量ではない。
だが今は、その二十一人の判定により、自分達の命運が決定するという状況だ。
「カエデ、シュー・パリゴーにクレーム・パティシエールは詰め終えたか?」
「あともうちょっと!」
アランシエルに返答しながら、楓は絞り袋を慎重に使う。
まったりとした黄色いクレームが、シューの皮の中に入っていく。
多少飛び出しても、いつもならミスの範囲だ。しかし、この状況下では許されない。
"ナーバスになりすぎてもダメだし、大雑把過ぎてもダメだし。意外に難しいのよね"
技術はもちろん、それを保つメンタルが重要になってくる。
何度となく繰り返した練習と実践のみが、均一化を可能にする。
「どの菓子にもムラなく、丁寧に、一定の品質を」
呪文のように唱えながら、楓は作業を続ける。
機械的というと何だか悪い印象があるが、そうではない。確率的な不均一を極限まで減らし、平等な品質を届ける。その安定感を、機械的と呼ぶのだ。
"最初に聞いた時は、機械的って単語に反感持ったけどね"
クレームを詰め終え、次のシューを手にする。
この間、僅か三秒強。無駄を省いた自分の技術は、時間の有効活用に繋がる。結果的に、それが心の余裕を生む。
「こっちは大丈夫よ。アランの方は?」
「大詰めと言ったところだな」
顔を上げないまま、アランシエルは返答した。
真っ白なライチのソルベは、既に1㎝単位の立方体に切り分けられていた。これを一人に対して、五つ配分している。
「立方体同士を乗せて、少し高さを出してみた。見た目的にも、こちらの方が楽しい」
「ほんと器用よね。あれ、でもソルベ触っても溶けてないよね。あっ、そうか」
「そう、余の手は体温を下げられるからな。細工のために触っても、ソルベを溶かすような無様はしない」
アランシエルは、全てのライチのソルベを整えた。
真っ白なライチのソルベを映えさせるため、器はわざと黒を選んでいる。
モノトーンの配色には気品があり、シュー・パリゴーの素朴な茶色とよく合っていた。
「だが、一工夫欲しいかな」
手早く済ませたおかげで、時間はまだある。
余っていたグラニュー糖を鍋にかけ、アランシエルはコンロのスイッチを入れた。
「え、まだ何かあるの?」と目を丸くする楓に「一種のパフォーマンスだよ」とだけ魔王は答える。
溶け始めた砂糖が、金色の液体へと変わっていく。それを確認しながら、アランシエルは「ま、見た目も楽しい方が良かろう」と笑った。




