51.第二試合 ビスキュイ・ショコラ その三
楓が出てくるのを待つ間、アランシエルは大変だった。
ルー・ロウとシーティアが落ち着きを無くしていたので、それをなだめるのに忙しかったのだ。
「待つしかないというのは辛いですね、アランシエル様。ああ、カエデさんに全てを託すしかないなんて。ルー・ロウは、ルー・ロウは無力だ」
「私もダメダメですわ。さっきから妙に心臓がバクバクいって、しんどいんですの。はっ、つまりこれが世間で噂のダメイド?」
「心配なのは分かるが、待つしかないのだ。深呼吸でもしておけ。おーい、エーゼルナッハ、何か良い手はないのか?」
「残念ながらありませんな、アラン様。ですが、よろしければ替わりましょう」
見えない目をこちらに向け、エーゼルナッハが近づく。
アランシエルが場を譲ると、彼はゆっくりと口を開いた。
「......ぬしら、いつまで甘えておる気だ? カエデ殿は、たった一人で戦っているのだぞ。それを信じることも出来ぬというのなら、さっさと帰るがいい」
まるで呪詛にも似た響きに、ルー・ロウとシーティアが固まった。
二人は顔を見合わせ、そして同時に頭を下げる。
無言の一礼だが、そのきびきびした動作から伝わるものはあった。
「良い。大人しく座っておれ」
「流石だねえ、エーゼ翁。俺だとあんなにピシッと出来ねえからなあ」
グーリットが口を挟んだ。
その時だ。
気配を感じ、アランシエルはコート中央を見る。そこには、楓と鈴村の二人が立っていた。二人とも、その手に菓子の載った皿を持っている。
「ビスキュイ・ショコラが出来たようだな」
濃茶色のビスキュイを確認する。見た目は二人ともほぼ同じだ。少なくとも、明らかな失敗はない。
"任せるぞ、カエデ"
胸の中で、アランシエルは呟く。魔王には似つかわしくないが、それは確かに祈りにも似ていた。
† † †
「これがビスキュイ・ショコラか。初めて見る菓子だな」
ユグノーは二つの菓子を交互に見る。
チョコレートケーキなのだろうが、表面に特徴がある。ぴし、とひびが入ったように割れているのだ。
「変わった見た目だな。さて、どちらから食べようか」と問うと、楓が答えた。
「勇者様のお好きなように。拘束約定のおかげで、舌は嘘つけないのよね。だったらどちらからでも、問題ないから」
「右に同じ。勝負を分ける要素は、純粋に美味しいかどうかだけだからな」
「スズムラもそう言うのなら、適当に選ばせてもらうか。じゃ、スズムラの方から」
ひょいと手を伸ばし、ユグノーは鈴村の作ったビスキュイを引き寄せた。
チョコレートの匂いが、鼻先をくすぐる。甘すぎない、やや苦味を効かせた匂いだった。
期待感と共に、ゆっくりとフォークを差し込む。
"お、表面は堅めで、中は柔らかいのか。こりゃ二段重ねで楽しめそうだな"
一口分に切り取り、口に入れた。
メレンゲを大量に使っているのだろう。チョコレートを使っているのに、生地がふわりと焼き上がっている。
それを楽しむ内に、甘さが口の中に広がった。
ぱさぱさした印象はまるでない。
堅めに焼いた表面と柔らかな内部のコントラストは、口の中に幸せを運んでくる。
チョコレート独特のねっとりした甘さにはコクがあり、そこに微かに苦味もある。複雑な甘さと言っていい。
「大したものだ。よし、じゃあ次にカエデ・サトザキのビスキュイをもらうよ」
もう一つの皿を手にする。
ユグノーは食べる前に、それをじっくりと眺めた。
見た目はほぼ同じだ。ビスキュイ生地は深い焦茶色をしており、シックな印象を与える。
普通のスポンジケーキは可愛らしい印象があるが、このビスキュイ・ショコラにはそれがない。その代わり、落ち着いた重みがあった。
"ん、気のせいかな?"
いよいよ食べようかという直前、ユグノーは一瞬だけ動きを止めた。
自分の目の前にある楓のビスキュイと、さっき食べた鈴村のビスキュイを見比べる。
何か違うような気がする。
だが、それは何なのだろう。その正体がはっきりしない。
食べれば分かると判断し、ユグノーは楓の作ったビスキュイを一口切り取った。
観客達が「勇者様、ずーるーいー!」とブーイングをかましてくるが、それは気にしないようにする。
ロゼッタの「あああ、おのれ、ユグノーおおぉ! 私に替われええぇ、そのスイーツを寄越せええぇ!」という叫びも聞こえてきたが、それも気にしないようにする。
"役得っちゃそうなんだが、責任重大でもあるんだからな"
そんな思いと共に、パクリ。
フォークの先から、ビスキュイが舌に転がった。「これはいい」と思わず呟くほどに、濃厚なクーベルチョコレートの風味が広がる。
堅めに焼かれた表面が砕け、その中の柔らかい中身が舌に溶けていく。
"食感の二重奏とも言えるよな"
たっぷりとした甘さに加え、カカオ独特の苦い香ばしさもある。それが味に奥行きを与えており、食欲を刺激した。
深みのある甘さは、チョコレートにしか出せない味わいだ。普通のスポンジケーキも好きだが、こういう菓子も味わいがある。
「このパリッとしたした表面から、しっとりとした内部への変化。アクセントが効いていて、二度美味しいな」
思わず口走りながら、更にフォークを進めていく。
二口、三口と食べながら、ビスキュイ・ショコラを堪能していった。
ふわっと膨らんだ生地はあくまで軽く、そこからチョコの風味がにじみ出る。
その中から溢れ出すのは、滑らかなクーベルチョコレートそのものだ。
"カエデ嬢が作ったビスキュイも美味しい。だが、スズムラの作ったビスキュイも相当なものだ。さて、どっちに軍配を上げるべきか?"
一度フォークを置いて、ユグノーは考える。
正直言えば、どちらとも言いがたい。
拘束約定がかかっているという立場はともかく、どちらも勝たしてやりたいと思う。
「おーい、勇者様ー! 結局どっちが美味しいんだー?」
「羨ましいぞー、そんな美味しそうなスイーツを二つも食べてー!」
「この間の飲み代のツケ、早く返せー!」
観客から浴びせられる声に、一つ聞き捨てならないものがあった。
「おい。飲んだ時は、俺はニコニコ現金払いだ! ツケでなんか飲まねえよ!」
「ちっ、引っ掛からなかったか......」
「あんた、そんなどさくさに紛れて勇者様から騙しとろうなんて......」
恐らく場末の居酒屋の夫婦なのだろう。何やら恐ろしいことを言っているが、ユグノーはぐっとこらえた。今はそれどころではない。
考える。
どちらのビスキュイ・ショコラが美味しかったのか。
どちらも、チョコレートの甘さと苦さをバランスよく引き出していた。メレンゲの泡立て具合も、ほぼ互角だ。
そのおかげで、生地はしっかりとしつつも柔らかい――待った。
「そうか。俺があの時感じたのは」
記憶をわずかに巻き戻して、ユグノーはその瞬間を思い出す。
あれは楓のビスキュイを食べる直前だった。
何かが違うと感じて、一瞬だけユグノーは動きを止めたのだ。それが何だったのか、あの時は分からなかったが。
「生地の均一な焼き上がり。その一点においてだけ、あのビスキュイは勝っていたんだ。俺はそれを食べる前に気がついていて」
あまりにも些細な差だったから、すぐには分からなかった。
だが、ユグノーの紫眼は確かにそれを捉えていたのだ。
より均一に焼き上がった生地の方が、味にムラがない。目の捉えた差異と、舌の記憶がリンクする。
「第二試合の勝者は、カエデ・サトザキ。ビスキュイ・ショコラのより均一な焼き上がり、そこで僅かに勝っていた。拘束約定に誓い、俺は真実を証言しよう!」
ユグノーの高らかな声に、楓と鈴村が反応する。
観客席のどよめきが聞こえてくるが、両者ともそれを気にする暇はない。
「あ、あ、ああ......勝った、勝ったよ、アラン、皆ー!」
白いコック帽を取って、楓は満面の笑みを浮かべた。
重圧が解かれたせいか、目にはうっすらと涙を浮かべている。
「ちっ、後輩に花持たせてしまうとはね。俺もまだまだだな」
悔しそうな声をあげ、鈴村は額に手を当てた。そのままピレスの方を向く。
「すいません、ムッシュ!」
だが、ピレスはゆっくりと頷いただけだ。
その目は、コートの端を捉えている。蒼氷色の視線が、真紅の視線と真っ向からぶつかる。
「これで一勝一敗。カエデがくれたリベンジの機会だ。無駄にはせん」
アランシエルが一歩だけ、ピレスとの距離を縮める。
その目に活力が戻っているのを認め、ピレスは一瞬だけ緊張した。気圧されかけたのだ。
「そう簡単にはいかないか」
その呟きは、観客席からの声にかきけされる。
決着は明日、第三試合に持ち越しされた。その事実に興奮したのだろう。
その興奮の渦の中を、この日の主役が歩いていく。
「どう、アラン。あたしだってやれば出来るんだから」
「まったく、恐れ入ったよ。ほんとによくやったぞ、カエデ」
楓が小走りに近寄ると、アランシエルはサッと右手をあげた。
意図を察して、楓も右手をあげる。
二人のハイタッチが、パンと小気味良い音を立てた。




