50.第二試合 ビスキュイ・ショコラ その二
「昨日はお疲れ様でした。さすがムッシュ、あのアランシエル相手の勝利、お見事です」
「ありがとう。あの、ロゼッタさん」
「はい、何か?」
「昨日からその誉め言葉、何十回となく聞いているのですが」
ピレスは苦笑する。
その横でロゼッタは「何度言っても良いではないですか! あの素晴らしい、こう、なんというか、ふわふわのスイーツがっ! 魔王のサヴァランに勝ったのですから!」と笑顔になる。
第一試合を取ったということもあり、とにかく明るい。しかし、ピレスの表情はどこか浮かない顔だった。
「そうですね。確かに私のスイーツは、アランシエル君のスイーツより高い評価を受けた。それはそれで嬉しいのですが」
「ん、その言い方からすると何かありますね」
「はい。あのレベルのアシェット・デセールになると、そもそも作るパティシエ自体が少ない。その中で優劣を競ったとして、その結果が果たしてどれほど意味があるのかとね。単に好みの差ではないかとも言える」
「それは私の口からは何とも」
ロゼッタは口を閉じた。
ピレスも黙りこみ、コートの端の方を見る。
そこは空間がグニャリと歪んでいた。分厚いレンズを通したようにも見える。空間魔法による結果だ。
「ユタカが気になりますか、ムッシュ?」
ロゼッタが声をかけた。
「いえ、特には。彼ならきっと大丈夫でしょう。ビスキュイ・ショコラは、彼の得意なスイーツの一つですからね」
「そうですか。私もユタカのスイーツを何度かいただきましたが、どれも美味しかった。彼はカエデの先輩ですし、我々が有利ですよね」
「普通に考えればね」
短く返答しつつ、ピレスは腕を組む。
そう、普通に考えれば、こちらが圧倒的に有利だ。あと一勝取ればいい。
そして先輩と後輩なら、普通は先輩が勝つ。鈴村にも気を抜いたところは無い。ここで勝負は決まるかもしれない。
「それでも勝負は最後まで分からないものだからね」
「え、あ、はい。そうですね、ムッシュ」
半ば独り言のようなピレスの呟きに、ロゼッタは律儀に反応した。
浮かれるのは早いと自分を戒める。
「喜ぶのは勝ってからですよね」とピレスの方を伺うと、ピレスは頷いた。
「そう、それからで十分です。ユタカの腕を信じて待ちましょう」
† † †
ビスキュイ・ショコラをオーブンに入れてから、鈴村は一つ息を吐いた。
ここまでの工程は順調だ。何の問題も無い。
「あとは150℃に予熱したオーブンで、四十五分焼けばよし、と。うん、いける」
冷たい水を一口飲み、気持ちを落ち着けた。
焼き上がった後は、型から外すだけだ。待っている間にやることは特にない。落ち着いて座っておくだけだ。
"里崎の方はどうだろう"
鈴村は考える。
ここからは向こうのキッチンは見えない。空間魔法とやらの原理はよく分かってはいない。
けれども、とにかく遮断されていると分かれば十分だった。
昔の後輩と異世界で再会する。
しかも、その後輩とスイーツで競いあっているのだ。かなり奇妙な状況だと思う。
"あいつがねえ"
思い出すのは、楓が初めて自分の職場に来た時のことだ。
その時はまだ、製菓の専門学校の学生だった。正式に働き始める前に、職場に見学に来たのである。
「初めまして、里崎楓です。この春からこちらで働くことになりました。今日は見学ということで、どうぞよろしくお願いします」
「ん、よろしくお願いします。鈴村豊です。この春で、こちらのホテルでは四年になります」
「四年っ! すごいですね、鈴村さん! あたしなんか、まだ未経験なのに!」
「新卒なんだから当たり前じゃないかな?」
くりくりした目を輝かせながら、里崎楓はキッチンを見渡していた。
見学者ではあっても、きちんとコックコートとコック帽は着用している。鈴村のものとは違い、まだ新しい。
少し緊張しているのか、その表情が堅い。
「里崎さん、そんな堅くならなくていいから。今日はほら、見学だし」
「は、はい。すいません」
「別に謝らなくてもいいからね。お菓子ってさ、食べた人を笑顔にするものだろ。作る俺達が怖い顔してちゃ、いいもの出来ないと思うんだよ」
カスタードクリームを作りながら、鈴村は楓の方を向く。
卵黄と砂糖が溶け合い、優しい甘い匂いが広がる。
その匂いにつられるように、楓も柔らかい表情になった。
「そうですよね。なんだか、皆さんテキパキされていて、ちょっと圧倒されちゃって」
「最初は誰でもそうだよ。ちょっとずつ覚えていけばいいさ。それに、君はまだ学生だしね」
「ありがとうございます」
「うん。心をこめて技術を磨け。それでこそ、美味しいお菓子を作ることが出来る。これ、俺の座右の銘なんだ。参考になるか分からないけど、覚えておくといいかも」
楓の返答を聞くより先に、鈴村はカスタードクリームをスプーンですくった。それを楓に差し出す。
「鈴村さん、これは?」
「味見してくれる? シュークリームに使うんだけど、いつも自分でしか味見しないからさ。たまには人に見てもらおうと思って」
鈴村がそう言うと、楓はその表情を緩めた。
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく」
小さなスプーンである。ほんの一口で味見は終わった。
「バニラビーンズの風味がスゴく効いてますよね」という誉め言葉に、鈴村も表情を緩める。
「いつもやってるからな。君もここで働いたら、これくらいはすぐに出来るよ。今日のところはお客さんだ、色々見ていきなよ。あ、それと」
「はい?」
「あんまり味見しすぎると、後で体重計見て後悔するからな?」
「気をつけます!」
ピシッと直立不動になり、楓は鈴村の冗談混じりの助言を受け止めた。
「本気になるあたり、若いなあ」と鈴村は肩をすくめる。
チーンとオーブンが音を立て、焼き上げの終わりを告げる。
思い出から現実に意識を引き戻しながら、鈴村は立ち上がった。
「さて、出来はどうかな。可愛い後輩ではあるけど、俺も負けてやる気はないしね」
軽く肩を回す。
オーブンを開け、鉄板を引き出す。
ほぅと軽く、それでいて芳醇なチョコレートの匂いが立ち上る。
視線を落とせば、そこには見事に焼き上がったビスキュイがある。
表面はピシリとひびが入ったように見え、どこかコミカルだ。軍手をはめて、型を掴んだ。
"これを軽く、作業台に打ち付けて"
コン、コンと金属音が響く。
ビスキュイの中に溜まった空気が、表面のひびから抜けていった。これは余分な熱い空気なので、ここで抜いておく必要があるのだ。
「うん、上手く出来た」
ゆっくりと慎重に型を外しながら、鈴村は頷いた。
† † †
同時刻、楓もオーブンを開けていた。
取り出したビスキュイ・ショコラは、見事なチョコレートブラウンだ。
メレンゲをしっかりと泡立てたおかげで、適度な生地の堅さを保っている。
"どうかなあ"
すっと人差し指で、表面を触ってみた。ごくうっすらと沈む。表面は乾いているが、中身はしっとりとしているようだ。
良い出来上がりだと判断し、ほっと息を吐く。この焼き上がりを確認する時は、いつも緊張する。
「よし、これならいけそうね」
型を外して粗熱を取る。
この時、楓の目はビスキュイ・ショコラと同時に鈴村豊を捉えていた。
このキッチンからは見えないけれど、今頃は彼も同じ様に焼き上げを終えているだろう。
"ユグノーさんに出すまで、あと一時間。生地から粗熱が取れるには十分ね。最適の状態で出せそう"
ここで勝たなければ、全てが終わってしまう。
その事実が今頃になって、楓の背中に重くのしかかった。
大いなる菓子の祭典の行方も、この一年の結末も、自分のビスキュイ・ショコラにかかっているのだ。
"大丈夫よね"
里崎楓はぎゅっと右の拳を握った。




