5.アールグレイを飲みながら
手に持ったカップから、暖かな湯気がたちのぼる。紅茶、それもかなり高級な茶葉だ。灰の香りとも呼ばれる、少しくすぐったい感じ。
「アールグレイあるんですね、びっくりした」
「製菓の材料と共に、アラン様が調達されてな。お菓子とお茶は切っても切れぬ関係ゆえ、絶対必要だと言い張りまして。でしたな、アラン様?」
「うむ、その通りだ。良かったらコーヒーもあるぞ、カエデ。遠慮するなよ」
「紅茶でいいですよ、どうも」
軽くエーゼルナッハとアランシエルに頭を下げ、楓はティーカップに口をつけた。最初に転移させられた大広間ではなく、ここは応接間のような部屋だった。壁は青を基調としており、とても上品な内装である。
"何となくほっとする"
さっきのようないかめしい大広間に比べれば、アットホームな雰囲気だ。とはいえ、楓の周囲にいるのは、得体の知れない三人なわけだが。
「しかしよお、エーゼ翁は紅茶淹れるの上手だよなあ。盲目と思えねえよ。シーティアやルー・ロウより上手なんじゃねえか?」
「目に頼るから、茶葉の息づかいに気がつかぬのだよ。それはそれとして、グーリットよ。あの二人は若輩ゆえ、これから伸びる。あまりきつく言うな」
「そうだな。あの二人がエーゼルナッハ並みになれば、余も気安くお茶を頼める相手が出来る。期待しておこう」
会話を締めくくるように、アランシエルが紅茶に口をつける。シーティアとルー・ロウという知らない名前が出たが、楓は取りあえず無視した。必要なら後で教えてくれるだろう。
改めてアールグレイを楽しむ。気持ちのいい温かさが、喉を潤して流れ落ちた。後味の良さは、アールグレイの特徴だ。
「さてと。いつまでも茶を啜っていては始まらん。カエデも正式に余の助手になったことであるし、詳しい事情を話しておこうか」
「お願いします」
改まった様子のアランシエルに、楓は頭を下げた。楓が得た知識は、限りなく少ない。菓子作りで人間を制圧といっても、そうなるまでの背景が分からない。自分の身の安全はどうにかなりそうだが、知らないことだらけでは不安だ。
「よし。ならばここは余が直々に話してやろう。さほどこみ入った話ではないから、お茶を飲みながら気楽に聞けよ」
それが出来たら苦労はしません。その言葉を、里崎楓はアールグレイで流しこんだ。
† † †
体感時間で一時間ばかり、アランシエルの話を聞いていたと思う。
「大体事情は把握出来たわよ。アランが地球でパティシエ修行をやった理由も、それなら理解出来るわ」
そう言いながら、楓は軽く視線を上げた。壁と同じ青色の天井を見ながら、今聞いたばかりの話をなぞる。確認する為に、それを口に出していく。
「ナノ・バースという世界は大きく二つの領土、というか勢力に分けられるのよね。人間達が住む人間領のリシュテイル王国、それにあなた達魔族が住む魔族領のゼノスの二つ。この二つの勢力は長年争ってきた」
典型的で分かりやすい抗争だ。何が原因で仲が悪いのかは理解し難いが、戦争なんてそんなものなのかもしれない。おおかた異種族間の外観や価値観の違いだろう、と楓は一人納得する。
「武器を持ち出し魔法を使うという戦争により、お互いに戦死者が続出した。それでもその戦争は散発的に何年も続いたのよね。で、この状況に危機を覚え、完全にお互いが死に絶える前に停戦協定を結んだと。それが三年前」
恐らくその協定に至るまでには、幾多の葛藤があったのだろう。それくらいは、楓にも想像はつく。アランシエルをちらりと見ると、軽く頷いた。ここまでは間違って覚えてはいないらしい。
「その認識でいいぞ、カエデ。ちなみに余自身も戦場には立ったからな。あの紫眼の勇者ユグノーや赤毛の女騎士は、特に手強かった。ぎりぎり退けたといったところだった」
「それ、実際に剣で切ったりしたのよね......怖くないの?」
「恐怖より先に闘争心が動く。それが魔王という存在だよ。もっともそれは、勇者らも同じだったが。さて、そのことは置いておこうか」
アランシエルの赤い目が、しばし楓から外れる。過去をさ迷っていた視線が戻り、楓を促した。話せということらしい。
楓は腕組みをする。今の自分の状況に直結する部分は、まさにここからだ。
「停戦協定こそ結んだけれど、長年の戦争によるしこりはそんなに簡単に解けなかった。だから実際に戦う代わりに、お互いがスイーツを持ち出して、それで戦うことにしたと」
「待て。何故そこで頭を抱える?」
「そうだぜ、嬢ちゃん。実に平和的でいい方法だと思うぜ? 誰も死なねえしよ」
「私も最初は顔をしかめたが、これも時代の変遷だからのう。戦場に立つよりは、お茶を淹れた方が気楽で良い」
「いや、うん。分かるんだけどね」
何故そういう結論に至ったのかは、楓には全く理解出来ない。けれど、ここで重要なのは過程より結果だ。
アランシエルの方を見る。魔王は白いコックコートから、元の黒い豪奢な服に着替えている。長い脚を組み悠然と座る姿からは、やはり威厳があった。パティシエ姿の時は消えていた角も、今は再び髪から突き出していた。
この男が今はパティシエなのか。しかも、自分より明らかに腕がいいパティシエだ。はあ、と心の中でため息をついた。けれど、そうしてばかりもいられない。
「お互い腕に覚えのある人、あ、魔族もか、がお菓子を作り、それを食べさせる。食べる側がそれに感服したら、食べた側の負けでお菓子作った方の勝ち。逆にそんなに美味しくなかったら、食べた方の勝ちでお菓子作った方の負け」
「そうだ。実にシンプルで分かりやすいだろう?」
何故アランシエルがどや顔なのだろうか。微妙にイラつくが、取りあえず先を続ける。
「このスイーツによる戦いには、執行官という審判役が立ち会う。食べる側が自分の味覚に嘘をつかないように、拘束約定という一種の呪いをかける。これを破れば死に至る為、食べた方は美味しいものはちゃんと美味しいと言わざるを得ない――のよね?」
「うむ、拘束約定の強制は絶対だ。逆にそれがあるからこそ、スイーツで戦うという無理が可能になる」
「そういうことね。で、このスイーツで戦う試合にも色々あるんだよね。その中で最大の試合が一年後、つまり停戦協定から四年後に設定された試合。大いなる菓子の祭典でいいのかな? そしてアランが地球にパティシエ修行の為に転移したのは、それに勝つ為」
「ああ、大いなる菓子の祭典はお互いの名誉以上に、領土の割愛や有利な交易権もかかっているからな。絶対に負けられないのだよ。けれども、スイーツの世界は奥が深い。余も色々研究したが、どうこねくり回しても、スイーツの技術や発想で良いものが発見出来なかった。ならばこことは違う異世界、つまり地球だな、でそれを見つけてみようと考えた」
「分からなくもないけど、よくパティシエの修行に耐えられたわね。男の人でも途中で辞める人、結構いるのよ」
これは嘘ではない。一見華やかなパティシエの仕事だが、実際は厳しい。
小麦粉の袋は重いし、朝は早い。クリームをかき混ぜ続けるには、集中力と忍耐力が必要だ。オーブンを使うため、火傷にも注意しなければならない。他の仕事と同様、せっかくパティシエになっても三年以内に辞める人間は多い。
だが、もしアランシエルが嘘を言っていないなら、彼は六年も修行したことになる。どこでどうやってかという疑問が、楓の胸にわき上がった。
「辞めるわけがなかろう。余の大切な魔族領、そこに住まう我が部下の生活がかかっている。それに並みの人間とは体力が違うからな。少々激務でも問題はなかった」
「素直にそれは偉いと思う。どこの店で修行したのか聞いていい?」
「色々だな。最初はオーストリアはウィーンのオーエンテューダー、次にフランスはパリのサントクレーメだった。二つともいい店であったな。南ドイツに移動してからは、コーディクロイツで働かせてもらったぞ。最後の一年は、東京の吉祥寺にあるエテセウェイで修行した。全部合わせて六年だ」
「えっ、有名店ばっかりじゃない。どうやって潜り込んだのよ?」
「普通に面接受けただけだが? もっとも魅了は利かせたがね」
「くっ、正直羨ましいわ。パティシエなら一度は勤めてみたいお店ばっかり」
うう、と楓は軽く嫉妬する。だが、有名店でも仕事はきつい点は変わらない。それを乗り越えて、アランシエルはパティシエとしての技術を磨いてきたのだろう。その部分は素直に賞賛しなくてはいけない。
「羨む程のことではあるまいよ。それにカエデが助手をするなら、余の技術を教えてやろう。こちらの戦力増強の為にも必要だからな。取りあえず、今日はもう休め。色々あって疲れたであろうから」
そう言って、アランシエルは微笑んだ。意外に優しいのかもしれない。楓は素直にその言葉に甘えることにした。