49.第二試合 ビスキュイ・ショコラ その一
三セットマッチで初戦を取られた。しかも相手は、自分の先輩だ。
「普通に考えてピンチよね」
「普通に考えなくてもピンチだと思うぞ」
第一試合から明けて翌日、楓はコート中央に立っていた。
彼女の独り言に、ユグノーが突っ込みを入れる。
「うん。でもね、不思議と緊張しないのよ」
「ほう。いい度胸をしてるね、カエデさん。さすがあの魔王の元で働くだけあるな」
「どうも、勇者様」
軽く一礼しつつ、楓は昨日のことを思い出す。
あのアランシエルが敗北を喫した。完全に意気消沈していた彼を見ていられず、思い切り檄を飛ばした。普段の自分ならやらない行動だ。
"だって見ていられなかったんだから"
この大いなる菓子の祭典に、アランシエルがどんな思いで臨んでいたのか。
楓をどれだけ心配して、その上で第一試合に臨んでいたのか。
それが分かったからこそ、楓はここに立っている。あの誇り高い魔王の分まで、今度は彼女が背負うために。
「ビスキュイ・ショコラね。確か俺がお前に教えてやったこともあったよな。里崎、覚えているか?」
「はい。最初は中々上手くいかなくて、先輩を困らせてましたよね。その節はありがとうございました」
楓と鈴村豊は対峙する。もうすぐ第二試合が始まるので、言葉を交わせる時間はこれが最後だ。
先輩と後輩ではなく、戦う相手として二人は向かい合っている。
「懐かしいなあ。あの時は、まさかお前とこんな形でスイーツで戦うとは予想していなかったな。人生って不思議だと思わないか」
「不思議ですよねー。どこかのコンテストでならともかく、ファンタジーばりばりの異世界ですもんね。でも、どこであってもやることには変わりないですから。ほら、鈴村先輩も言ってたじゃないですか」
「だな。心をこめて技術を磨け。それでこそ、美味しいお菓子を作ることが出来るってな。忘れてないみたいで何よりだよ」
「ちゃんと覚えていますよ。だから先輩。あの時の教えを守っているという証拠に――」
楓は言葉を切った。
闘技場のざわめきも気にならなくなる。
鈴村の目をまっすぐに見つめ、それから口を開く。
「成長の証を見せます。よろしくお願いしますね」
「いい顔だな。こちらこそよろしく」
近づく。
短い握手を交わし、そして離れた。
視界の端で、ジューダス大司教が立ち上がるのが見える。
「カエデ・サトザキ、ならびにユタカ・スズムラ! 作るスイーツは、ビスキュイ・ショコラ! 準備はよろしいかっ!?」
「「はいっ!」」
「よし。それでは第二試合、開始っ!」
ジューダスの声がコート中央から響き渡った。
† † †
楓と鈴村が左右に別れ、お互いのキッチンに消えていく。
それをコート端で見送りながら、アランシエルは「結局、カエデに任せざるを得ないとはな」と傍らのグーリットに話しかけた。
自嘲的な含みを感じ、グーリットは顔をしかめる。
「どしたよ。そんな辛気くせえ面しやがって」
「辛気くさくもなるさ。上司である余がピレスに負けたせいで、あいつに全てを預ける羽目になっているのだからな」
「はぁ、そう考えちまうのは無理ねえけどよ。元気出せよ、まだ負けって決まったわけでもねえんだし。それにな、アラン」
「何だ?」
「嬢ちゃんな、お前が思っているよりずっと強えって。一年前とは全然違うのは、お前も分かってんだろ。信じてやんなよ」
「......そう、だな」
答えながら、アランシエルは視線を外す。
ここからキッチンは直接は見えない。恐らく楓はもう工程に取り掛かっているだろう。
自分が出来ることは、応援することぐらいだ。そしてそれ以上に、信じることぐらいだ。
"余は心のどこかで、カエデを一人立ちさせたくなかったのかもしれぬな"
彼女を手元に置いておきたいが為に、彼女の成長を認めたくなかったのではないか。もしそうなら、自分はずいぶんワガママだ。
「グーリット」
「あん?」
「ありがとう」
「はっ、水くさいこと言うなよな。いいってことよ」
ぽんとグーリットは魔王の肩を叩く。そう、こうなればあとは信じる他は無い。
† † †
アランシエルとグーリットの会話の内容を、楓は知らない。彼女が立つキッチンまでは、外の喧騒は聞こえない。
既にビスキュイ・ショコラを作り始めている。手順は体に染み着いていた。
"あたしが負ければ、その時点で負ける"
薄力粉とココアパウダーをふるいにかける。ふわりとした純白の粉が濃い茶色と混じり、細かな粒子が一体化していく。
これは工程のかなり後で使う為、ボウルに入れて取っておいた。
"負けたら、アラン達は色々と不利益を被るんだ。交易権を失ったり、領地を奪われたり。魔族領の人達も、住む場所を奪われたりするのかもしれない"
溶かしたバターの一部を使い、それを型に刷毛で塗る。
後で焼き上げる際の下準備だ。バターが熱い内に塗れば、簡単に塗ることが出来る。
地味だが大切なスキルだ。こうしたことも、異世界に来てから磨かれた。
「次、生クリームを温め終わったら、ボウルに入れたチョコレートと混ぜて......よし」
左手には温めた生クリームを入れた鍋を持ち、右手には泡立て器を持つ。
左手を傾ける。やや黄色みを帯びた生クリームが、チョコレートの焦げ茶色と混ざっていく。混ぜるごとに、甘い匂いが立ち上る。
"カカオ分53%のクーベルチュール・チョコレート。グーリットさんの調達のおかげで、最高のものが手に入ったわ"
無言の感謝を胸に秘め、楓は軽やかに泡立て器を操る。
中心から円を描くように、少しずつなじませて。乱暴にかき混ぜたら、チョコレートが分離してしまう。
それはビスキュイ・ショコラの味わいにムラを作り、ダイレクトに敗因につながる。相手が鈴村豊であることを考えれば、尚更だ。
"負けられないよね、アラン"
頃合いを見て、さっき溶かしたバターをボウルに追加した。
少しずつ、少しずつ、ごく丁寧に混ぜていく。バターの油分とチョコレートをゆっくりとなじませて。
"この勝負には負けたくない。あなたを悲しませたくない。それに"
カシン、と泡立て器がボウルと音を立てた。極限まで集中力を研ぎ澄ませつつ、楓は更に作業を続ける。
"この大いなる菓子の祭典は、あなたとの一年の最後になるもの。負けで終わりになんかさせない"
卵黄を追加する。トロリと黄色い液体が流れる。
この時、余分な空気が入らないように注意した。なめらかさを妨げる要因になるからだ。
ポイントとなるのは、チョコレートの温度だ。人肌より少し暖かいくらいに温度を保ち、そこに卵を注ぐ。
"こうすれば卵を注いでも、生地が締まらないのよね。アランに何回も注意されたんだ"
感傷的になっちゃいけない。それでも、そうなる気持ちを止められない。
次に卵白を泡立て、メレンゲを作りにかかる。その最中にも、心の一部は感情で満たされていく。
泣きたくなるような、暖かいような、そんな奇妙な感情が静かに充ちてくる。
「あたしの成長をここで見せないと」
皆に何も返せないまま、ナノ・バースを去ることになる。
アランシエルとの一年を、無駄にしてしまうことになる。
それだけは嫌だった。
ハンドミキサーで十分にかき回し、卵白をメレンゲへと変換していく。
角が立つくらいに、しっかりした固めのメレンゲだ。
その真っ白な色に、楓は自分の心を反映させていく。自分を白一色へと塗り変えていく。
"今出来る最高のビスキュイ・ショコラを"
フッ、と周囲の音が消えた。
視界に入っていた余分な物が無くなり、手元が一気にクリアになった。
手つきが怖いくらいに滑らかに、そして軽やかに動き出す。
自分でも気がつかない内に、里崎楓のギアが上がっていた。




