47.第一試合 アシェット・デセール その三
時間が刻々と過ぎていく。
アランシエルは作業に没頭する。
自分と自分の作るアシェットだけの、孤独で幸せな空間に閉じこもる。
† † †
丁寧に静かに、アランシエルはグレープフルーツのパート・ド・フリュイを乗せた。
細く切られたフリュイは、半透明に光る。その下にあるのはオレンジのジュレ、オレンジの果肉、生クリームが乗ったサヴァランだ。
"メインパートは出来た。ここからの飾り付けが重要"
より美しく、より華やかに。一つの世界をプレートの上に表現する。それがアシェット・デセールだ。
ピンセットを手にして、用意しておいた花をつまむ。
黄色いフェンネルはスイーツの周辺に挿す。
可愛らしいオレンジ色をしたナスタチウムの花を、その横に。
淡い菫色のボリジは、パート・ド・フリュイの上に飾るように。
"これを更に引き立てるために"
スプーンにはっさくのソースをすくい、プレートに垂らしていく。
大小さまざまな点を描き、わざとぶれを出していく。
雨あがりの庭のように、はっさくのソースによる水たまりが描かれる。
"仕上げだ"
アランシエルは、小さなスプーンを手に取った。それでオレンジペーストをすくう。
先程描かれたはっさくのソースの水たまり、その中の一番大きな一つを標的とした。
とろん、とオレンジペーストが落ちた。暖かみのあるオレンジ色が、はっさくのソースの透明な白と溶け合う。
プレートの上に、一つの世界が完成する。
† † †
「ジューダス大司教、時間です」
「よし。両陣営、そこまで。手を止めて、スイーツ作成の作業を中止してください」
司祭の一人に答えてから、ジューダスは作業終了を宣言した。
その声に従い、司祭達が二方向に散っていく。彼らが向かったのは、空間魔法で接続されたキッチンだ。
その様子を見ながら、楓は口を開いた。
「長い三時間だったわね」
「ほんとに。しかし、本番はこれからですよ」
ルー・ロウが答える。
平然を装ってはいるが、流石に緊張は隠しきれてはいない。
「三セットマッチの第一試合......ここで勝ったからといってもまだ決まらず」
「逆にここで負けても、まだ決まりはしない。だけど、大きな流れは掴みますわね」
「そうよね、シーティアちゃんの言う通り。それは避けられないわよね」
口を挟んだシーティアに返答しながら、楓はグーリットとエーゼルナッハの方を見た。
「どのみち待つしかねえだろ。一回勝ってるんだろ、大丈夫だって」とグーリットはあくまで明るい。
だが、エーゼルナッハは黙ったままだ。それが気になった。
「エーゼルナッハさん、どうしたの?」
「ん。ああ、いえ。特に何も」
「そう言われると、ちょっと気になるんだけど」
「ならば言いましょうか。確かにグーリットの言う通り、アランシエル様はあのピレスなるパティシエに勝っております。だが、それはあくまで四年以上前のこと」
エーゼルナッハの声は大きくはない。けれど、そこには真剣な響きがあった。
見えない目をコートに向けて、ダークエルフは更に言う。
「敗北がただの天才を、真に活気と競争力ある天才にすることは多々あります。果たしてあのピレス・キャバイエがそうであるか。あるいは否か」
「いやですわ、エーゼ翁。不安になること言わないでくださいな。アランシエル様に限って、負けることなどないですわよ」
シーティアの意見に、楓も同意した。
けれど完全に同意しきれず、そんな自分に動揺した。
"取り越し苦労よ。魔王よ、魔王。いくらあのピレス・キャバイエだって無理だって"
心の片隅に不安を抱えつつ、里崎楓はコートを見つめる。
「替われー、勇者様、替われー!」
「そんな美味しそうなスイーツを一人じめにするなんて、ずーるーいー! ずーるーいー!」
「人でなしー、審判役の交代を要求します!」
アランシエルとピレスのスイーツを見ると、もう観客達も我慢しきれなかったらしい。皆立ち上がり、ユグノーへとブーイングの嵐である。
ロゼッタが必死で「落ち着いてください! 気持ちは分かりますが、騒いでも仕方ありません! 私だって同じ気持ちだ、特にムッシュの作った方!」と私欲混じりの制止をしたが、騒動が収まるまでには十分ほどかかった。
「くそっ、何で俺がこんな目にあわなくちゃいけないんだ。おーい、俺はただの審判役だぞー。そんな恨みがましい目で見ないでくれー」
ユグノーが必死で訴えながら、コートの中央に進み出る。
石こそ投げられないが、罵声に近いブーイングを浴びていた。
「ちょっと可哀想ね」と楓は同情する。
「けどよ、嬢ちゃん。あれ見たら嫉妬したくもなるんじゃね?」
グーリットが促す。
審判役であるユグノーの前に、アランシエルとピレスが並び立っていた。
その手に持っているプレートには、緻密に仕上げられたアシェット・デセールが載っている。
「あれを見たら確かに」
「審判役に文句の一つも言いたくなりますわね」
ルー・ロウとシーティアが声を揃えた。楓に至っては、言葉を失っている。
「あたしだと何年かかるかしら......見当もつかないわ」
「さあね。俺も自信失いそうだよ。魔王もムッシュも見事なものだよな」
「くっ、この目では見られないのが惜しい。どれほどまでに美しい菓子なのか」
鈴村はお手上げとばかりに降参のポーズを取り、エーゼルナッハは悔しげに呟いた。
皆の視線が集まるコート中央では、ユグノーが二つのスイーツを眺めている。
「一つ確認していいか。このスイーツ、ほんとにスイーツなのか。食べてもいいものなのか?」
「訳の分からないことを言うものだな、勇者よ。食べなければスイーツなど、ただの小麦粉とクリームと砂糖の固まりだぞ。遠慮なく食せ」
「魔王君の言う通りだね。見た目の美しさに圧倒されているんだろうけど、遠慮無用さ。お好きなように召し上がってくれ、紫眼の勇者」
ユグノーの問いに、アランシエルとピレスが答える。
納得したように頷いてから、ユグノーは小さなフォークを手に取った。
彼の視線の先には、アランシエルが作ったアシェット・デセールがある。
即ち、オレンジとグレープフルーツとはっさくのサヴァランだ。
「まるで庭園の風景だな」
ユグノーはそう言わずにはいられない。
濃緑のプレートの中央には、サヴァランが配置されている。チェリーのピンクがかったサヴァランは、丁寧に四角く切られていた。
その上には、何かプルプルとしたオレンジ色のものと、細く切られたフルーツらしきものが載せられている。
「これ、何だ。透き通るような美しさだが、見たことがない」
「オレンジのジュレだ。その上の細く切ったものは、グレープフルーツのパート・ド・フリュイ。柑橘類でまとめてみた」
「事も無げにっ......いいだろう、食べてやるさ!」
食べる前から圧倒された。
そんな自分に腹を立てながら、ユグノーは最初の一切れを口にした。途端に、口の中に複雑な甘さが広がる。
"な、んだ、これはっ!?"
チェリーとオレンジのサヴァランは、全くむらなく均一に焼き上がっている。滑らかできめ細かい歯触り、そして舌触りが見事だ。
オレンジのシロップに漬け込んでいたらしく、甘酸っぱさが暴力的なまでに爽やかだ。
「洋酒か、この芳醇な香りは」
「ご名答。最高級のグラン・マルニエをシロップに使っている。元々サヴァランは大人向けのケーキだからな」
「簡単に言ってくれるぜ。くそっ、その上に生クリームとクレーム・パティシエールだとっ。お前、俺の舌を破壊する気か」
「ふふ、ふふふ、いいものだな! あの勇者ユグノー・ローゼンベリーが、余のスイーツに陶酔している姿を見ることが出来るというのはっ!」
「お、のれ、アランシエルッ。だが、悔しいが美味い!」
抵抗出来ない。
夢中で、目の前の柑橘類の天国へとフォークを踊らせる。
これでもかと乗せられたオレンジのジュレは、サヴァランの生地を更に引き立てる。
それだけではなく、はっさくのフリュイとは相乗効果を発揮する。
ジュレがとろりととろければ、フリュイはぷちりとした歯触りをもたらす。
しかも、両方に異なる甘味があるのだ。
「ジュレはあくまでオレンジの甘酸っぱさを柔らかく伝える。だが、はっさくのフリュイは適度な歯応えをっ。しかもこの弾けるような酸味が、悔しいほどに効いている!」
「だろうな。それだけ味わってくれたら、余も本望だよ」
ユグノーは返す言葉もなかった。
確かに素晴らしいスイーツだ。
サヴァランを中心として、柑橘類の天国が展開されている。
プレートの上に配置されたはっさくソースは、まるで春の水溜まりにも見えた。
「見事だ、アランシエル。だが忘れるなよ。まだムッシュ・ピレスのスイーツが残っていることをな」
ユグノーはもう一つのスイーツの方を向いた。その作り手である天才は、不敵な笑みを浮かべる。
いちごとバジルとフロマージュのコンポジションが、ユグノーの前に差し出された。「後悔はさせないと約束しよう」という台詞と共に。




