43.祭典一ヶ月前 後編 クラフティ・オ・ポム
銀色のコックコートのボタンを留める時、鈴村豊はいつも少しだけ緊張する。
パティシエとしてそれなりの年数を勤めてきたのに、この瞬間だけは変わらない。オフからオンに切り替え、菓子作りに向き合うこの一瞬は独特のものがある。
「よし、行くか」
ふう、と一つ息を吐く。
視線の先には、ピレス・キャバイエの姿があった。パティシエ界をリードする天才だが、その姿勢におごり高ぶったところはない。技術だけでなく、人間的にも尊敬できる。
「おはようございます、ムッシュ」
「おはよう、ユタカ。さあ、今日も楽しく菓子作りに励むとしようか」
鈴村の方を振り返り、ピレスはぽんと一つ手を叩く。
楽しく、そして真剣に。これがピレス・キャバイエのモットーだ。
常にこれを繰り返し、自分を高め続ける。けれども、自分を追い詰めることはない。
「さて、ユタカ。君は今日は何を作る?」
ピレスが問う。
その目をまっすぐに見据え、鈴村は「クラフティ・オ・ポムを作ろうかと。ジューダス大司教に頼まれまして」と答えた。
「良いね! あの優しいリンゴのクラフティなら、彼も気に入るだろう。気張って作りたまえよ」
「はい、ムッシュ!」
気張らないわけがない。
このピレス・キャバイエを前にして、気を抜くなど出来るはずがないのだ。
† † †
クラフティ・オ・ポムは難しい菓子ではない。
極めて簡潔に言えば、軽く焼いたリンゴを並べそこにアパレイユを注げば、ほぼ終わりだ。あとはオーブンに入れて、焼き上げるだけ。
"それでもポイントはあるんだよな"
リンゴをバターで炒めるが、この時にカソナードと呼ばれる砂糖を使う。
これはサトウキビの絞り汁を原料とした砂糖であり、茶褐色をしている。独特の風味とコクがあるため、面白い甘みが出せる。
「リンゴを炒めたら、次はアパレイユ作りなんだけどね」
ボウルに次々に材料をいれていく。
薄力粉をふるいにかけ、次はグラニュー糖とバニラシュガーだ。バニラの風味をつけたバニラシュガーは、香りづけにはぴったりの砂糖である。
軽く泡立て器で混ぜたら、次に卵だ。
黄身と白身両方をダマにならないように、丁寧に軽くすり混ぜていく。リズミカルに、素早く。
そしてこれが終わると、牛乳を注ぐ。ボウルの底で、粉と牛乳がぐるりと混ぜ合わされた。
"ここでビールを入れるのが独特なんだよな"
そう、これがピレスが教えてくれたクラフティ・オ・ポムの特徴だ。
牛乳の量を半分にして、その代わりにビールを混ぜる。
ビールのコクと風味が甘味を引き立て、さらに炭酸の働きが生地をふんわりとするのである。
"これらを混ぜて、そしてこし器でこしてなめらかになったら"
鈴村はボウルの底を見た。
やや粘りけのあるアパレイユが、ボウルの底にたまっている。
これなら大丈夫と判断し、型に炒めたリンゴを並べた。一切れずつ丁寧に並べられたリンゴは、見ようによっては花弁のようでもある。
「そしてあとはアパレイユを注いで、焼きますっと」
とろとろとアパレイユを流し込む。クリーム色の海に沈んだリンゴを眺めつつ、鈴村はオーブンの温度をチェックした。
† † †
「美味しいっ! この何とも言えないアパレイユの豊かな甘みっ、そして焼かれたリンゴの爽やかな甘酸っぱさ! 最高だ、ユタカ!」
「おほめに預かりどうも、と言いたいところだけどさ。それ、ジューダス大司教に持ってきた分なんだけど!?」
「まあ良いのだ、ユタカ。私の分はもう取ってある。う、うむ、もう少し食べたかったがな」
理解のあることを言いながらも、ジューダス大司教は無念そうだった。
それはそうだろう。鈴村は約束通りクラフティ・オ・ポムを持ってきたのだ。
なのに横からロゼッタ・カーマインにさらわれた形である。
「このバニラシュガーのふわっとした香りが最高だな、ユタカ。とろとろのアパレイユがリンゴを包みこみ、それがもう」
「ロゼッタ」
「はい、何でしょうか、大司教!?」
「私はね。汝に楽しみにしていたスイーツをさらわれたんだ。少しは遠慮しないか?」
べきべきと物騒な音を拳から鳴らしながら、ジューダスはロゼッタに詰め寄った。
普段は穏やかな人格者だが、今回はキレている。しかもかなり本気でだ。
「はうっ、すいません、ジューダス大司教っ! 最近ムッシュの菓子をもらっていなかったので、この際ユタカの菓子でもいいかなって思って。ついつい手が伸びてしまったのです!」
「たいがい失礼だな、あんた!?」
ロゼッタの言い分を聞いて、鈴村は目をむいた。
確かに自分の技量はピレスに劣る。劣るのは認めるが、それを面と向かって言われるのはまた別だ。
「あああ~、ごめんね、ユタカ~。そんなつもりじゃなかったのだ。はあ、それにしてもこの菓子美味しいなあ。仕上げにかかったこの白い粉は何だ? 麻薬かな?」
「人聞き悪いこと言ってんじゃねえよ! パウダーシュガーだよ、このポンコツ女騎士!」
「ああ、神よ、許したまえ。ロゼッタに対する教育が足りなかったばかりに、この女騎士はスイーツの虜になってしまったのです」
三人が騒がしくしている内に、クラフティ・オ・ポムはどんどん減っていく。
ジューダスが自分の分を堪能しながら「隠し味に何やら妙な風味がありますな。これはビールでしょうか?」と指摘する。
これには鈴村も驚いた。まさか当てられるとは予想していなかった。
「よく分かりますね」
「半ば当てずっぽうですがね。お、ところでもう一人来たようだ」
ジューダスの目が扉を向く。
彼の言葉に導かれるように、重い樫の扉が開いた。
現れたのは、ユグノーである。彼はいつもの白い神装衣を着込み、颯爽と部屋に踏み込んできた。
「ロゼッタ、お前また食べてるのか。よく太らないな?」
「むっ、失礼だな、ユグノー。運動もきちんとしているぞ。体型を崩すなど、騎士の風上にもおけんからな」
「そりゃ見上げた心意気だ。デブったら、ムッシュ・キャバイエにも愛想尽かされるだろうしな」
ユグノーの容赦ない指摘に、ロゼッタが固まった。
「愛想が尽きる――つまり、私はムッシュに捨てられる。私のムッシュが他の女のものになってしまう!?」
ロゼッタの茶色の瞳は、いつの間にか暗く濁っていた。
口の端にクラフティの欠片をつけたまま、彼女は動きを止めている。
ため息一つ、鈴村は彼女の頭を軽くはたいた。
「いたっ、何をするユタカ!?」
「そりゃこっちの台詞だよ。いつムッシュがお前の男になったんだよ」
「決まってるさ。彼が私の呪いを解いてくれた瞬間からだ! もしムッシュと一緒になったら、一生あのスイーツが食べられるじゃないか!」
「俺らそのうち地球に戻るって分かってる!? ねえ!?」
ロゼッタと鈴村の口論が続く。それを聞きながら、ユグノーは軽く肩をすくめた。
「こんなんで一ヶ月後の本番、大丈夫かね?」
「さて、私は心配しておらぬよ。ムッシュ・キャバイエがいる限りはな」
ユグノーに答えつつ、ジューダスはクラフティ・オ・ポムの最後の一口を舌に乗せた。
アパレイユの豊かな甘さがリンゴを包み、爽やかな後味を残して消えた。




